人質家族の会見と日本的平和教徒という見方
後藤さんの母、石堂順子氏の会見を見てはいないのですが、嫁姑問題とか原発だとか、地球のために頑張るだとか、なかなかひどい会見だったとか。そういう話を聞きました。これ、もし後藤さんが生きて帰って来たら、お母さんの会見を見て恥ずかしくてのたうち回るのでは?なんで違う人が会見してくれなかったんだ!ってなるんじゃ…。こういう時の場合、会見してくれる人・身内を選定しておく必要性があるのではないか?と思いましたね。
中田さんはパイプを持つ人物ということで、彼に会見させるべきなのか?という是非が問われることはあっても、会見する必要性というのは理解されるだろう。しかし、イラクの時もそうだったが人質になっている家族が会見する必要があるのだろうか?家族が今何を思っているかということを伝えるのに、わざわざ大勢のメディアを集めて会見することに果たしてどういう必要性があるのだろうか?個人的になぜ家族が今どう思っているのかを報道しなくてはいけないのかまるで理解できないのだが…。文書によるコメントで十分では?
ものすごい立派な人物だったら、世論がよし絶対助けろ!となるのもおかしいし、逆に何だそんな甘っちょろい感情でふわついた気持ちで、遊び半分で出かけたのか、じゃあ助からなくてもいいな―なんて思われても困る。報道関係者の内輪で細かい情報を把握しておくならともかく、速報でTVで知らせるべきことでは全く無いですよね?なぜ生中継したのかさっぱりなんですが…?
あと、もし国士だったらどうするんでしょうかね?パパでもママでも身内の誰かしらが、どうか助けて下さいと会見するタイプではなく、一国の士として立派に死んでこい!というような人だったらどうするんだろうか?それはまだ特定の思想パターンの人達が立派だと褒めて終わるからいいとして、更に進んで、「お前の仇は俺が取る!自爆テロでもなんでもして、復讐として誰かれ構わず現地の民を一人残らず皆殺しにしてやる!」―みたいなとんでもない人だったら、どうするつもりなのだろうか?
で、ついでに今回気付いたことがあったので、日本的平和教徒というお話を。
平和教・パシフィズムを信奉する一定の人々が存在して、崇高な世界平和のために行動しているから、多少のわがままは許容される。更に進んで許容されるべきである―という心情・発想があるんじゃないかなぁ?戦後の日本人=平和実現の使徒、そういう特別な人達だから解放されるべき、許されるべきというものの見方があるんじゃないかな?ということを今回のことで思いつきました。
①戦後日本人=平和教徒である。
②平和教徒は模範的人物像であり、世界中から好かれ、大切にされる。
③我々はその平和教徒である。
④だから人質になっても救われる。
―そういう論理構成なんじゃないかな?だから私達は平和教徒なんですよ!と訴えかけることがしばしば起こっているような?もしくは、最近安保面で強化・法整備が進んでいますけども、それをするのは、日本の一部の悪い人であり、我々はそうではない。我々はその悪い人たちではなく、平和教徒なんだ、あなたたちの味方なのだ―そういう思考をする人達が一定数いるんじゃないでしょうかね?