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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

歴史とは何か(六章)

歴史とは何か (岩波新書)/岩波書店

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ツイッターでこの『歴史とは何か』を話題にしたので、久しぶりに拙メモをよみかえしました。そうしたらこの六章があとで分けると書いておきながら放置のままでしたので、再掲というか一応引っ張り出してきました。

 多分、この歴史とは何かを六回くらいやったので、これくらい短いものをいちいちもう1回載せ直すのはアレかと判断したんでしょうね。まあ今更ですけど、再編集して載せました。

 己も読み返してみました。途中までですが、ひょっとしたらラスト~のとことかぶってるかもしれませんが、まあいいかと。穴埋めに紹介ということで。

 しかし、一章の冒頭で書いた、カーがこういうことを論じているから、それを参考にしたらええですよ、本を読んだらわかりますよ~と言えるから便利でいいですね―と書いてあるのが今フラグとなって帰ってくるとは思いもよらなかったですね…(しみじみ)。

歴史とは何か(一章)

歴史とは何か(二章)

歴史とは何か(三章)

歴史とは何か(四章)

歴史とは何か(五章~ラスト)

 六章広がる地平線 ブルクハルトが歴史とは意識の目覚めによって生じた自然との断絶といったように、理性によって環境を理解しようという試み。人間の自己意識の発展はデカルトに始まる。切り開いたのはルソー。トクヴィルが言ったように革命とは理性と自然法則に基づいたルールを打ち立てようという信仰。

 理性は法則を理解はしたが、未だそれが変更できるものだとは思っていなかった。ヘーゲルは摂理の法則を理性の法則に転化した。彼の世界精神には一方で摂理が、もう一方に理性がある。スミスの見えざる手に当たるものが「理性の奸計」。自由が推進されていくという世界観を、ゲルツェンが「革命の代数学」としたのは的を得ている。

 実際に数字を書き込んだのはマルクスマルクスには「虚偽意識」、生産流中の当事者が思っている生産の法則と実際の法則は違うというものがあった(よくわからん)。資本主義社会の虚偽意識を破棄し、無階級社会の正しい意識をプロレタリアートが注入する。新しい世界が目前と信じていた彼にとって一八四八の革命の頓挫は大きかった。とにかくこの時代には最早理性は法則を知るものではなく、社会と個人の意識を変え、世界を変えるものとなった。マルクスでは否定的な用語だった資本主義社会の虚偽意識を代表するイデオロギーという言葉は、レーニンではそれをもって指導的エリートが大衆に植えつけるという良い物に変わる。階級意識は自動的に生まれるものではなく、企てるものに代わった。

 フロイトによって人間の非合理的なものへの崇拝が高まったというがそれは誤り。彼は合理主義であり、その仕事で意識・合理的な探求の世界を広げてくれた。彼によって自覚している部分に注目してすべての個人の行動の説明がつくという思想にとどめが刺された。無論、かと言って歴史上の人物に反対訊問を基礎とするものであるから、それなくして無意識的な行動の動機を解き明かせるなど考えてはならないが。

 マルクスフロイトの登場によって、歴史の外に立つ超越した歴史家というのがありえないことになった。理性の前進によって経済法則に影響をあたえることが出来る。人為によって問題に対処できるということになった(ケインズ政策然りね)。

 数十年前と違って教育は世界中に広がり、理性の働きも同時に行き渡ることになった。PR政治や商業の世界において、理性を研究し悪用する動きも出てきている。が、交通事故があるからといって車をなくせとは言わないように、理性を今更捨て去ることが出来ないもの明らか。原爆然り、むしろその悪用に対してどう矯正するかと考えることが重要になる。

 理性がこれまで考えられてきた以上に広がったということは、同じく「歴史」が扱う領域も増えるということ。水平線は果てしなく広がった。最近の英の傾向は英語圏にのみ目を向けたままで世界のそれに、変化しつつあるものに向き合わない傾向がある。それでは歴史の動きについていけなくなるだろう。後ろ向きの史観にとらわれてはならない。