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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

続・網野善彦著 『日本社会の歴史』

歴史関係の話 本・読書―批評・批判・感想・レヴュー

網野善彦著『日本社会の歴史』を読んでいて思った、『逆説の日本史』への疑問の続きです。

 

日本社会の歴史〈中〉 (岩波新書)/岩波書店

(中)平安京都市化、国・社会の中心が生まれ、単なる政治機能の中心というだけでなく、聖地となった。聖地の誕生により、よりケガレを忌避するようになって忌ごもりなどが生まれていったと。


 切下文、納所から物資を受け取るシステムは出来ていた。文書行政は機能していても統一性はなし、官制も流動性がある。統合・集権を進めようと言う流れがなくなり、その逆の分散の力学が働く。その分散のなかで文書行政だけが発展すると。

 遊女はともかく、博党という職能集団が発生するのはなぜだろうか?まあ大当たりが神の御業ということなんだろうけど。支払いを確実にするために神社・宗教的権威が重要だったのか?商業の広域ネットワークでやり取りをする上で 神社のネットワークが働く。そういう関係かな?

 寺社が地方に免田や職能民を組織化する。寺社も貴族の権威の中に組み込まれていく、貴族化されていく。家格で貴族という序列化が進んでいく。おそらく天皇の政治権力の放棄と摂関政治も、天皇家自体の貴族化なのだろう。天皇が筆頭貴族となって、経済・文化基盤による支配・コントロール方針に転化した。寺社にせよ、摂関にせよ、他の権力が社会に広まっても「貴族システム」自体は崩壊しないし、天皇家の筆頭貴族という地位も決して脅かされることはないということなのだろう*1

 保元の乱などはその「貴族システム」が完成した結果、新しい地方統治の問題に対応できなくなった中央政治・貴族時代の終焉に繋がる、時代の転換点ということなのだろう。(※追記、多分、貴族化=文学・芸能が尊ばれる。知識・教養などを備える人間が重視されるということだから、貴族化によって社会の序列が形成され、序列化によって社会が安定化していくということだろう。貴族政治は安定&停滞の二面性を持つというのがポイントか。)

 延喜・寛徳の荘園整理令というものを見るに、天皇家の権力の源泉に土地の支配権の最終決定者という要素があるのだろう。裁判所・司法権というべきか?行政権は摂関家に委ねて手放して、人事権や司法権で統治をする、合議制のトップになることで穏健な統治をするということだろうか。

 職能民と白河上皇の祭での交わり。全国的なネットワークに影響力を及ぼす。こういう交わりがトップダウンを行うときのパターンであり、白河上皇がその始まりと。田楽のブームは、将棋や囲碁、麻雀などのボードゲームの達人が身分を超えて高貴なものと交わる手段となるから、そういう意味合いがあったのだろう。

 職能=家格=官職とセットになって、それが世襲されていく。世襲は身分制に基づくもので、排他的&閉鎖的・不平等というのが 現代の認識だが、始まった当時はそれを発展させるためのものだった、社会に平等に扱われるための世襲という要素があると。このレールに乗れば賤しいとされる技能も、まっとうに扱われるようになるわけだ。

 これまで他者から呼ばれてきた関東を自称として使い、畿内・中央を「関西」と呼ぶようになる。独立宣言をしても、クーデターではない。そんな実力はないから自分たちの独立・勢力圏内の支配で満足。関東・東北は西国と比べ、畿内から隔絶している。もう一つの日本の誕生。だがこれは、西国・福原政権が失敗したのと同じ、中央にない政権という問題を抱える。鎌倉幕府も関東第一で中央を重視していても、優先順位が自ずと落ちる。ましてその他の地方となれば…。西の問題に自ずと対応が鈍くなった結果、鎌倉幕府もモンゴルの侵攻をきっかけに崩壊していく。

 畿内などに比べて独立した幕府は制度が未熟・有力御家人の合議。将軍のトップダウン型の意思決定がすぐ消えてなくなったのもそのため。目的は独立・自分たちの地位の保全と支配のためであって幕府という組織の維持ではない。朝廷が立ち向かってくれば結束して立ち上がるが、それ以外の力学・制度化は働かない。だからモンゴル以後の動乱で各地の反乱に上手く対処できなくなった。北条家=幕府・公的システムそのものになろうとしても、当然同輩の御家人が反発して、無理があったと見るべきだろう。

 セックス・女性蔑視、一遍が男女を問わずに連れていたことに非難があった。社会の移動が増えて、結果疫病等の原因とされ、ケガレ意識が高まったということかな?いずれにせよその価値観の変遷はポイント。新しい穢意識に、新しい祓いが登場すると。寺社の実力が増したはこのケガレがポイントになったか?

日本社会の歴史〈下〉 (岩波新書)/岩波書店
(下) 後醍醐による「公家一統」関東を支配下に置こうとする試みはこれまでの、そしてそれ以後の流れとは異端でも、日本国の権力一元化の端緒であることは間違いない。朝敵・寺院の所領の没収に裁判権の奪取。当然うまくいくはずなく混乱を招く。国司などによる新しい体制の模索。これまでの太政官による合議体制を打破し、官司請負制を放棄して、官人・貴族路線から官僚による中央集権・専制国家を築こうとしていた

 改革を貫く後醍醐と旧来の構造を主体とする尊氏が衝突し、尊氏が勝利。そして武家・幕府主導の強硬派か、公家・天皇ら権威と折り合う穏健派の直義と内ゲバに。関東を拠点にすれば、重要な畿内が抑えられずに、畿内を拠点として抑えれば、関東・東北・九州などが危うくなるという図式かな?そういう意味で幕府主導体制も、天皇などとの折衷派もどちらの主張・スタンスも理解できる。両派の勢力争いで、勝ったり負けたりの繰り返しで、京都には治天の君がいない異常事態に。
 懐良親王による征西大将軍で関東・鎌倉幕府の西版のような政体がありえたことを考えると面白い。どの勢力でも強硬派・融和派がいて、強力なトップがいなくなると途端に内部分裂をするといういつものパターンかな?
 管領斯波義将による地方実力者守護の承認とその管轄管理下において、天皇などが口出しできないように幕府の管轄下に置く。直轄化を推し進めるも、1366に反発にあい失脚と。
 「日本国王」を義満は名乗るけれど、
懐良親王の前例を考えると、その西の幕府の権威を崩壊させるためにやむをえなくという性質のほうが強いのか?義満の新権力・政体を考える上で、懐良のそれが一つのポイントになるかも。義満の成功には直轄領・奉公衆という子飼いの存在があったわけだけど、これがどうして以後成立しなくなったのかというのがポイントではなかろうか?
 義満が天皇になろうとしたというものがあるけれども*2天皇位に就くよりも治天の君がポイント。目的は権力の一元化であって、天皇家の崩壊・消滅ではないだろうから、どうだろうか?「天皇将軍」もしくは「将軍天皇」という新しいトップによる権力の一元化。それに加えてその新リーダーに率いられる奉公衆・官僚という新政治制度・機構をつくるのが理想だろうから、自分が天皇になるよりも、治天の君となって、後継者の息子が「天皇将軍」になることのほうが比重が高いような…*3。義満=天皇天皇位奪取はあまり意味が無いかもしれない。むしろ義満天皇なら、既存秩序・制度が維持されるので、公家などには望ましかったのではないだろうか?義満に上皇が追贈され、後継者の義持は足利家の家督上皇は辞退というのがそれを示唆している気がする。

 日本国王義持に継承されるも、その後、勘合貿易が途絶える。こういうことを考えると日本国王義満は一時的なものに過ぎず、招来の天皇将軍が権力を拡大して頂点に達した先に、日本国王位を捨てて、中国入り・唐入りをする可能性が初めからあったのではないか?この時点から大陸征服プランはかなり有力なストーリーだった気がしますね、無論現実的に可能かどうかはさておいて。まあ、のちに簡単に天皇・将軍権力が崩壊することからもわかるように、それが直ぐにできると思うトップは殆どいなかったでしょうけどね。またそういう不安定、強力な力を持たない時代の義満に「天皇家乗っ取り」を実行して、それを維持していく背景があったか?国家的リソースがあったかどうかを考えると、やはりありえないでしょうね。もしそれを実行しようとしていたのなら、後醍醐天皇と同じく相当誇大妄想気味な人物ということになるでしょうね。

 商業・金融により、豊かになる宗教勢力、僧が中心となっていた。村落自治の強化、教育の普及に新文化誕生の基礎となった。
 1428年に期せずして天皇と将軍の代替わりとなる。これを機に徳政令を求める大規模な一揆が起こる。そもそもこの徳政令要求運動、失った土地を取り戻そうという農民などの感情を抑えられないことに問題があると思う。自由競争の結果、富む者もいれば、かのように失う者もいる。前近代特有の、近代化の移行において、弱者・敗者の救済、福祉を制度として設けていないがゆえに起こったことではないか?新しい変化で資本移転が起こっても、それを後から後から力づくで最初の取引は無効だと言い出す現象こそ問題(もちろん現代的な視点からの逆算だが)。力の支配で世の中が動いていて、法の支配で不動産の取引が成立しないこと&弱者・貧民の救済のなさがそういったことに繋がると見ていいだろう。まあこういう結論になるのは、己のいつものパターン・オチですね。*4
 足軽という悪党の経由、流動的な都市民・都市的な「百姓」に基づく彼らが大きな役割を果たした。この足軽が生まれた背景も、従来の郷里では生きていけなくなった人間・流民が元となって、あふれた人間が兵士となって生きていくしかなかったということではなかろうか。畿内に近い勢力、信長などが経済力と軍事力で伸長して天下を取ったのもこれが背景にありそう。
 法体の義教の還俗というのは、義満の天皇将軍ほどではないにせよ、法皇将軍、武家と宗教勢力の両方のトップになる、一元化が可能になるということがありえる。だからこそ法体の義教が将軍になることへ反対があったのではないか(法体の人間が還俗して、政治家になれば出家して引退の力学が成立しなくなってしまうから、元々抵抗がある話なんだろうけど)。
 義教の強硬な支配は最終的に失敗するわけだが、ポイントはやはり貧しい物の抵抗運動か。いくら強くても、相手の勢力を滅ぼしても、最終的には救済を求める声によって反対・抵抗運動が起こってしまう。安定した支配、政権の支持勢力を築くことが出来ない。天皇や将軍が死ぬたびに、世直しを求める土一揆が起こってしまう。それこそ信長くらいまでに絶対的な支配を確立できるようになったのはなぜなのか?生産力・富の向上でだまらせることが出来るようになったというところかな。まあ、信長以前の戦国大名でもそういうことは出来てそうだけど。
 日野富子、女人政治、背景には金融活動による富。京都・鎌倉という政治の中心が焼け落ちることで小権力の乱立時代へ。

 

 まあ結局は権力の一元化の問題ですね。日本史は16~17世紀ころまで一元化しようという動きと、その反対。徳川幕府でようやく一元化された。そして支配の安定のためにその中央集権化、幕府による権力の一元化が徹底されなかったと。どうでもいいことですが、網野さんはマルクス主義者だったんですね。あとは、いつもの戦前断罪史観でアレなので触れるまでもありませんでした。

 

 

 ※ツイッターでつぶやいたことをついでに追記。網野さんの『日本社会の歴史』読んでて思いましたけど、日本の前近代の歴史見ていると、官僚制の導入・中央集権化しようとしてまるで出来ないでグダグダになる感じ。強力な国家建設を進めるリーダーが出て、改革&失敗するというパターンと見ていいんですかね?

 黄巾の乱じゃないですけど、全国的な反乱で「日本」「大和政権」が持たなくなる!みたいな危機がないんですよね。それこそ機内さえ抑えておけば、うまくいくみたいな社会構造・時代だったということなんでしょうか?地方反乱は東とか西でバラバラ。散発的な感じがするんですよね。

 大陸に近い九州・中国当たりが、機内よりも劣る理由はなんだろ?単純に生産力なのか?唐・新羅渤海辺りが衰退したころ、半島や大陸にちょっと手を出そうとしてもおかしくないのに、なんでそういう動きが起こらなかったのか?まあそんな国力なかったということなのかな(九州は、朝鮮半島などとの交易ルートに「博多湾周辺」と「九州の西海岸の海」の2つの海上交通ルートがあって、北九州だけでもまあ二つに割れるというわけですね。山ばっかの日本においては、畿内のような平野が姑になるということでしょうかね。それでもまあ山ありますけどね、畿内にも)。

 あの時代広範囲にわたって、一つの行政機構でまとめるようなことはそもそも不可能だという当たり前の事実に帰結するのでしょうか?機内が長く首都として栄えたのも、あの時代において適切な範囲でまとめられるのが日本の中では機内だけだったということなんですかね。

 しかも、その機内ですら、統合した政権を作れない。まあそら無理だわなという話ですかな。任那をヤマトの勢力だから、取り戻すことは簡単簡単、じゃなくて、内部の同盟者がいたら出来る。いなきゃまず無理と見るべきか。強力な水軍を建設・維持することも出来ないだろうし。 日本の首都には城壁が無い。天智天皇の頃には、防衛用の朝鮮式山城をつくってはいたものの、実戦経験・攻城技術がない。そういう環境で大陸へ!というのはやはりなかなか厳しかったんでしょうね。

 それこそ藤原仲麻呂なんかが朝鮮・中国征服したるで!っていうのが狂気の沙汰にしか思えないですよね。半島から大量に人が流れ込んできて、本土の混乱があった。なんとしても任那を取り戻さないと国内の混乱が終わらない的な背景があったのかな?

 まあ道鏡への禅譲天皇制の否定?とか、これまでの歴史から考えられない逸脱があったくらいですし、そういう混乱はあったとは思うんですけどね。中央集権化の完成のための軍事力・指揮権行使なんていうセオリーだけでは説明つかない感じですかね、やはり。

 武士の誕生の前に、軍事を司る集団がいた。まああぶれた兵卒ですか。そういった軍人のニーズに応えた結果というのが一番考えやすいですけど、どうかな?半島に出征出来ずに職・生きる場所を求めて各地へ流れていって、それが武士の下地に繋がっているとかあると面白いですけどね。

 中央の混乱が一応一段落して、東へ目を向ける。田村麻呂らに後背地を奪う・開拓させるわけですが、中央の余剰人員整理=兵役的な意味合いもあったんですかね?中央官制改革の一貫、新制度導入のための必然的な結果という流れな気がしますが。

 坂上田村麻呂みたいな蝦夷討伐を見ると、とりあえず大陸・半島は諦めて、東の後背地を征服・開拓して、国力をつけてから外征だ!まあ、そんなビジョンに見えたんですけど、そもそも軍事&開拓&内政→∞敵な、歴史SLGみたいな軍事拡張思想は戦国時代まで日本に存在しないと見ないいけないということですかね、やっぱり。

 軍事力=国力に結びつかない時代の社会だからこそ、独自の文学・文化が花開いたということなのかな。女性が文字読んで源氏物語やら枕草子やら、そういったものが生まれるのも、そういった価値観を築いたほうが文化的優位で上に立てる、権威を作れる。そしてそれが一番効果を発揮する社会だったということでしょうね。

 

 普通は権力分散することを嫌う(その社会内が統一権力で支配が完了した後ならばともかく)。仏教も勢力拡大は容認された。国家公認以外の仏教としても最澄延暦寺が受け入れられたり、新勢力が登場しても大和政権・天皇家を超えることはない、むしろ政権・権力の手助けになると捉えられていたっぽい。

*1:筆頭貴族というと、筆頭市民・市民の第一人者の称号プリンキパトゥスを連想しますが、まあローマ帝国は広大な領地を支配したわけで。その彼我を比較すると面白いかな?と一瞬思いましたが、あんま意味無いですね。小国と帝国でケースが違うわけですし。

*2:

室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)/中央公論社
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逆説の日本史7 中世王権編/太平記と南北朝の謎 (小学館文庫)/小学館

*3:治天の君になることって書いてあったかな?ちょっと覚えていない。Wiki見たら

室町時代の将軍家と天皇家/勉誠出版
この石原比伊呂氏の著作北朝の権威復興のために行動した、処分したのはその路線に反対する公家であって、後円融天皇のち上皇がそれに最も反発した。彼を退位させて、新帝後小松天皇の補佐・上皇代わりになることが目的であり、後円融天皇と義満の個人的対立を拡大解釈しているという批判があるようですね。なるほど。また「日本国王」の称号は貿易上のそれに過ぎず、国内文書に用いられたことはないという指摘もあると。また、ポイントになる次期皇位継承者の躬仁親王・のちの称光天皇に対する圧迫の記録がないとか。義嗣にせよ義持にせよ次期天皇に自分の息子をつけることがポイントなのにそれが出来ていない。じゃあもう絶対成立しないですね、この天皇家乗っ取り計画は。

*4:そういうことを考えると、識字率の普及・学の普及というのも、賢くなれば騙されたり損をすることがなくなる。自助救済を徹底させるために行われている。そういう背景が基となって学ぶことが振興されるという力学があったりするのだろうか?為政者サイドにそういったものがあっての、学問の振興というものがあるのだろうか?