てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

藤田勝久著『項羽と劉邦の時代 秦漢帝国興亡史』

項羽と劉邦の時代 秦漢帝国興亡史 (講談社選書メチエ)/講談社


 『項羽と劉邦の時代』藤田勝久さんのメモ。献公11年(BC374)周太史が献公にまみえて、500年で周と秦は合わさる。その17年後に覇王が登場する―という予言がある。孟子の聖王の概念も500年後に登場するという話だった。やはり500年後に出てくる!的な価値観が根強かったのかな。

 そういや商鞅の改革は、BC359とBC350に二度あるのだけど、魏の文侯の改革による強大化という話と、その魏を斉・孫臏が桂陵と馬陵で破ったことと、リンクしているのか。一度は巨大化する魏のために、改革・大規模な制度の変更、貴族の既得権を削ることになってもやむなしという背景があった。が、孫臏が魏を叩いてしまうと、もはや魏恐るるに足らずということになる。魏に秦が滅ぼされてしまうかも!という心配・強大な魏を恐れるという必要性はグッと下がる。改革の緊急性・重要性が下がった結果、商鞅の失脚とい雨要素があるんでしょうね。孫臏なかりせば商鞅も無事だったのかもしれませんね。

 商鞅の改革で、「商に携わって貧しくなったものは奴とする」というのは、どう解すべきなんだろうか?重農主義で商業が軽んじられたと見るべきか、大資本家優遇政策と見るべきか?商の地に報じられただけに、商鞅自身が商業利権を手にしたのか?それとも国家の益になったのか?武帝なんか見るとそれっぽいが。

 商業利権を宰相辺りがかなり握るとすると、呂不韋の台頭&失脚なんかうまく説明つくと思うんですけどね。あと「宗室といえども軍功なければ身分を保てず」というものが、始皇帝死後の宗室処刑と繋がりそうですね。弟・成蟜の反乱なんかもまあそうなんじゃないかな?功がなくて、子供にあとを継がせられない。もしくは微妙なレベルで不安だったとか。功を立てすぎて始皇帝にとって危険な存在だったと考えたら面白いのだけど、それなら功績が残るはずですしね。

 BC334、斉と魏が徐州で会盟して王号を認め合った。これに影響されて諸国も続々王号を称するわけですが、趙の初めての王は武霊王。彼は有名な胡服騎射の改革をした人ですが、この改革もこの魏・斉・秦の改革・国の強大化の流れを受けた反応だったわけですな。

 司馬遷歴史観では、懐王の不徳で後の都城を秦に奪われると考えている。張儀に騙されたあとも、更にのこのこ秦に赴いて捕まり、次の頃襄王で屈原が身を投げるわけですが、牽強付会・結果論な気が…。懐王の歳を考えると幽閉してもそこまでメリットないのでは?都が落ちるのも随分あとで時間の隔たりがありますしね。

 しかし楚の人はよく騙されますね。項羽もそういえばだまし討ちされてましたね。鴻門の会は史実ではないと思いますが、それを含めると劉邦も騙されたと。劉備孫権騙したのも似たような図式・背景があったりするんでしょうかね?勝てば官軍魂というか。楚は都城である郢を失ってから、領土を侵略されて衰退していくというイメージで捉えられていると思うんだけども、長江下流に進出もしているし、優れた斉の文化を取り入れたと考えると、あながちそう捉えるべきでもない気がしますなぁ。寿春に遷ってからも、それはそれで違った発展を遂げたと見るべきでは?

 秦の穣公(魏冄)や孟嘗君が戦国中期なのに比べて、楚では春申君が末期まで続いていた。遷都後も王国の機構に貴族の勢力が強かった。封君という郡県法治体制の対偶にあるシステムを楚が採用していたが故に、楚を中心に秦への反発が起こったわけですな。そうか呂不韋の先例に魏冄がいるのか、要比較だな。

 范雎が面白いな~。いいキャラしてるなぁ~とか思ってましたけど、魏冄もいいキャラしてますなぁ。秦の人間は面白いの多そう。寿春遷都とか袁術のモデルって実は春申君なのかな?諸国を連合して秦を攻めてますし。白起といえば封国が郿だし、袁術=春申君&董卓=白起的なのがあったのかな?

 刑徒や奴隷による労役があった。降伏した場合、隷臣となると。秦の国内では農民を労役で駆り出すことを極力させるなということになっていても、支配した六国ではそうではなかったっぽい。亡国で敗残兵が奴隷身分として扱われた、貴重な働き手を取られてしまって、残された家族の暮らしは不安定になったとかかな。

 劉邦然り、農民以外に遊民・商人・客というネットワークがあった。亭長などの末端の役職ですら客を食わせることがある。絹とか犬とかの商人とパイプを作っておくことが統治・治安上重要だったということだろう。亡国の王族が反秦で立ち上がるわけだが、これを支援したのが彼らとコネを持った人々と。

 咸陽、渭水の対岸に副都扱いの櫟陽があった。一般県の倉庫一万石に対して、特別に二万石。この櫟陽の獄掾司馬欣と項梁にコネがあって、のちに章邯と共に司馬欣が関中を治めると。県レベルの人間が互いに連絡を取り合うのは新しい現象というが、うーんそんなことありうるのか?郡レベルならともかく…。

 項梁クラスの元将軍の家だと当然名声があって、コネ・パイプを持とうという人も出てくるでしょう。で、楚から奴隷となった兵士が大勢いるだろうから、その関係から色々敗戦処理の事務的な役割があったんじゃないですかね?毎年一定数、任期を務め終えて帰国とかあったでしょうし。

 また、劉邦なんか始皇帝見に行ってるわけですが、単なる労役じゃなくて軍役としての労役の意味があるので、万一の際には招集かけられる兵役の意味合いがあるわけですよね。都に集められるような人というのはそういう将来の有望な人材的な意味もあったと思うんですけどね、そこら辺どうなんでしょうか?

 本書でも、隠宮は隠官の誤り=趙高非宦官説取り上げられてたのか。陳勝の乱で遅れたら死罪というエピソード、軍律が適用されるとしてもかなり胡散臭い気がしますね。事例に漢の戌卒があるけど個人と集団だとかなり違う気が…。労役で水雨は中止とあるしねぇ。まあ陳勝が偽った可能性も高いけども。

 んで扶蘇と項燕を騙るわけだけど、秦に最後まで抵抗した楚のシンボル昌平君と項燕ならともかく、なんで扶蘇?という疑問がある。おそらくこれは扶蘇の母が楚の王族の子であり、昌平君・昌文君はその付き添いで来たのだろうと。さらには胡亥の母は旧王族趙高を見てもわかるように趙系の人だと。なるほど。

 ここらへんキングダムで採用されたら面白そうですね。確か連載前の読み切りで昌平君との友情がどうしたこうしたってのあった気がしましたが、扶蘇と後継人・叔父昌平君の物語が描かれるといいですなぁ。多分なさそうだけど。陳勝が失敗した理由として、項梁・陳平などが葬儀・社稷の祭祀で名を上げて、名声を高めたというバックボーンがないことが要因でしょうね。またどこかの宰相など高官の経験がない&食客ですらなかったこと。そういう政治組織の動かし方を知らないのが大きいといういつものパターンでしょうね。

 かつての傭耕仲間を権威が下がるから殺してしまったこと、御者に裏切られたこと。それらを考えると、侠や地縁としての同郷集団としても、劉邦ほど絆が深いものではなかったということだろう。まあ劉邦が後発性優位で項梁などの庇護を得られた点も大きいのだけど。また魯の儒者陳勝に帰順したというのも面白い。

 項梁は徭役・葬儀で周囲の能力を計ったという、ある人物を用いない時に、葬儀でよく処理できなかったから用いないのだと言って、それを周囲が流石と納得している。葬儀=能力を図る場―であるならば、始皇帝の巡行による祭祀も似たような意味を持つのは間違いないわけですな。

 前述通り、それこそ徭役=負担・重税と言い切れない。人材発掘の意味合いがあったと見做せる。問題は、秦の信賞必罰方式で、奴隷身分とされることではないかな?秦では当たり前のことでも、他国のプライドの高い自称「士」が奴隷だと!?となって許すまじ!となった可能性はないだろうか?

 秦の吏卒にいじめられたから、章邯が降伏後に報復があって、彼らが動揺して反乱を企んだ。故に皆殺しにしたという事例のように、秦は統一帝国を築いて、新しいアイデンティティでまとめなかった。秦人>他国人という階層秩序では失敗するのも当然か、実力重視はあれど功を立てる機会も殆ど無ければ尚更。新しい世代の人間は官吏として採用された、上層の人間は問題なくスライド出来たとしても、その他大勢の上層以下の人間の不満はそりゃあ大きかったでしょうね。

 項羽は鉅鹿の戦いで勝つことにより、秦を崩壊に導くんだけども、食糧を3日だけ残して他は全部捨てて速戦即決に持ち込むという一か八か作戦に出たのは凄いなぁ。当時の常識、孫子とは真逆の考え。宋義を殺したクーデターと言い、信じられない用兵。項羽のそれは呉子の考えなのかしら?

 卿子冠軍ってどういう意味なのかしら?字面だけ見ると、なんとなく貴族チックな名前ですが、そういうところが項羽の気に障ったとか?実力より家柄、文人より軍人的な意味合いがあったのかしら?宋義の戦略は別におかしくはない、秦を討つために妥当なものですからね。クーデターする正当性は弱いですし。

 多分項梁が死んで、宋義>項羽になって、自分の地位が脅かされるとかそういう背景もあったんでしょうね。項羽のこの決断がなければ、秦も亡国までには追い詰められなかったでしょう。後世、項羽のように!と無茶ブリを要求される指揮官は大変ですなぁ(笑)。

 項羽と劉邦が緊密な連絡がどれほど出来ていたかどうかという問題はおいといて、多分、項羽が鉅鹿の戦いで勝ったからこそ、咸陽制圧出来たと思うんですよね。藤田さんも劉邦項羽の進軍に応じていたと書いてますし。個人的には項羽の大勝故に趙高のクーデターが起こり、章邯の降伏に繋がったと見ています。

 劉邦には独力で咸陽を落とせる力はなかったと見ています。というか、何よりそういうリスクを犯さないと言うべきでしょうか。結果的に大敗&政変で秦の自滅でしたが、まず支配からの独立がメインで、秦を潰すのは二の次。宋義なら秦との共存もありえたかも?

 もし宋義が戦線を膠着させて章邯を引きつけておいて、その隙に劉邦に援軍が加われば、劉邦の咸陽入りもありうるのかな。んで引き返した章邯を挟み撃ち的な?まあ、敗北で政変が起こるような秦の官制・システム(というか政治のパワーバランスと言うべきか)を考えると、講和で秦以外の国の独立を認めるような事態になった場合、それでも政変が起こって、やはり秦は自滅に至るというパターンになると言う可能性も考えられますね。とりあえず結論は項羽スゲー(小並)でしょうか。

 項羽が宋義を殺したのは秦との共存がありえたから、秦との一時的共存・併存の国際体制なら、いずれ必ずまた秦に六国は屈服させられる(後の漢を見てわかるように)。絶対秦殺すマンとなった項羽はその点正しかった。漢のような統一帝国化が避けられないと見通せなかったのは変わらないのだが。

 項羽のクーデターは、旧六国の王族貴族優先を否定して、これまでの軍事功績を第一に評価する路線と言えるかもしれない。そのような路線で十八王に封建するシステムを選ぶ時、秦を潰すことは避けられない。まあ秦強硬派と秦融和派の衝突と考えるべきなのかな、項羽のクーデターは。

 先に咸陽に入ったら関中の王とする―とあるが、巨大な秦を再び統一路線に歩ませないためには、分裂化&首都咸陽の消滅はセット。そのような前提で「関中の王」という約は不可解。何より何故項羽がその関中の王の地位を横取りしなかったのかわからない。まあ虚飾なんでしょうね。

 項羽が残忍で沛公が長者というのも突然出てきて、それを裏付けるような話はない。そういえば咸陽は帝国の首都として設計されて富豪など各地から集められていたはずだが、彼らはどこへ行ったのか?項羽の彭城に行ったのか?出身地に帰ったのかどっちなんでしょうか?彭城の酒宴を考えると前者か?

 鉅鹿の戦い前に趙高が政権を掌握する。高官の処刑は各国の反乱及び、その鎮圧の失敗の責任を取らされた結果。しかし鉅鹿の戦いで敗れると、帝国瓦解が決定的になる。このような事態に秦の硬直した法治主義の制度では対応できなかった。合議で賛成派と反対派がいて、結果に応じて政権交代をするような柔軟な制度ではなかった。

 失敗=死刑(成功なら出世&褒賞)という硬直した、中間のない制度。失敗した場合の柔軟な対応がそもそも考慮されていないが故。趙高が政権を掌握して、最前線の章邯と善後策を協議して、敗戦処理をしなくてはならなかったはず。それも出来ずに、山海関からの呉三桂のごとく離反を招くという…。

 沛公は郡県の長官をそのまま任命したとあり、それが温厚な人格となっているが、楚の体制・官職として組み込んでいる。戦功を見ると行軍の実績がわかり、項羽の大勝以前は開封くらいまでしか戦っていない。法三章を約束したとあるが、駐屯した覇上周辺の県ならともかく、それ以外は出来ない。

 李開元氏いわく、鴻門の会は樊噲の郷里の人に話して伝承されているものから成り立っていると。中途半端な覇上への駐屯と函谷関を閉じたことを考えると、秦と組んで項羽と一戦!というプランも劉邦サイドにあった可能性がある(相当低いけれど)。まあ韓信が斉王を要求したようなものか。

 子嬰が立ち、趙高が既に失脚した新体制のもとでは、章邯が項羽に降伏した前提が機能しなくなる。となると章邯も項羽から離反して、劉邦&章邯VS項羽ーという可能性が考えられる。項羽の生き埋めもおそらくこの可能性を考慮したものだろう。で、鴻門で事後協議・戦後処理の話し合いに至ると。

 しかし、劉邦の軍隊が「僅か10万人」と言われる時代というのが面白いですね。三国時代なんか数万でも大軍なのに、後漢とかその時代には兵士になる人間はどこへ行ったんでしょうね。小作人かな。まだ、咸陽には10万くらい兵がいただろうとはいえ、急転直下で戦う体制は整ってなかったでしょうね。子嬰の降伏も軍隊を完全に動かせる確信がなかったというのもありそうですね。

 斉の反乱の隙に旧秦の地を掌握して、韓王信を立てるなど楚漢戦争へ。漢の社稷を立てる=脱楚制度&秦制度継承、首都彭城を落とすなど楽勝ムード一転、彭城の戦いで惨敗と。まあこっから長期戦突入で、戦の強さよりも政治・制度の強さが問われるようになるわけですな。

 孫子に精通した韓信は食を確保しながら戦争を行っていた。それは劉邦項羽農繁期を無視した戦争とは対照的―とあるのだが、楚漢の直接のぶつかり合いの背後で兵を動かしていた事情も考慮すべきではなかろうか?あと当時は城が簡単に落ちますね。籠城とかほぼ無意味。築城技術?兵力が違うから?といろいろ考えていましたが、指摘されて納得しましたが、日本の戦国時代のように徳川の世になれば、反乱を経過して城の無力化が図られたのと同じことが当時も起こっていたんでしょうね。多分重要拠点以外は防御力は殆どなかったんでしょう。

 韓信が重用されないから漢から逃げようとしたエピソードあるけど、乱が起こってる斉に行って、軍功建てようとしただけの気もするな。しかし軍略にはアレほど精通しているのに、政治がまるでわからないとかなんなんでしょうね?韓信って。項羽もそんな感じしますね。指揮官・将軍の才にステ全振りしたみたいな。項羽と劉邦の関係が、後の劉邦韓信の関係と同型isomorphic(アイソモーフィック)。項羽に対して劉邦が背いたように、劉邦に対して韓信がそうなるのは過程を見れば明らかすぎるほど明らか、当然の出来事に思えますけどね。黥布も彭越もいなかったならともかく、彼らがいなくなってしかも劉邦がいなくなったとなったら、そりゃそうなるでしょうにね。

 そうだ忘れてた、懐王が騙された時、土地だけじゃなく、婦人も貰えるという話があった。項羽も咸陽から婦人を持って行くんだけど、やはり後宮の充実のために優れた女性が求められていたのかな?

 子嬰って扶蘇が楚の姫の子供ならば、やっぱ楚系の人間とみなされたということだと思う。胡亥=趙派から、子嬰の擁立というのはそういうことなんだろうね。だとすれば趙系の趙高なんか絶対除かれるに決まってるんだけども。まあ相当混乱して、ギリギリの意志決定の連続だったんでしょうけどね。

 まあ、呂氏の乱が終わって、次の皇帝は誰にする?となって、斉からでしょ~という話があっても、功臣集団は趙系と言える代王を選んだ。斉からの臣下を引き連れることで衝突するリスクがあったから―という理由はあれど、やっぱりまあ趙から選ぶんですよね。ここにも秦漢の一体性を見いだせるわけで。


 こんなところで終わり。なかなか示唆する所が多くて、次もまた藤田さんの本を読んでみたいと思いましたね。まあ、もう一冊読みましたが、あと数冊読む予定です。