てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

『莊子 外篇・雑篇』 読んでの気づきとか考察メモ <後>

新釈漢文大系〈8〉荘子 下巻/明治書院

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 ※例によって長いので分割しました。いつものようにタイプミスの誤変換・脱字の修正と読み返してのちょいちょい修正・追記をしています。今回は、ああそうだこんな話があったっけとか、こういう事も言えるのかな?とか追記をしているので、暫くはこの記事コロコロ変わると思います。前半はこちらです→『莊子 外篇・雑篇』 読んでの気づきとか考察メモ <前>


 第十五刻意 必死な行動、言論での仕官も隠遁もダメ。呼吸法などによる自彊術もダメ。何もしなくてもうまくいくのが聖人。水のたとえで、静的な水が出てきても動的な水の話は余り出てこない。あっても余りポジティブ・+なものではない。身体論的に言えば前者の静は無論のことで当然論じられているのだが、後者の動・激しいエネルギーをも備え持つ水という物の本質を語りきれてない。片手落ちの感があるように思える。「秘蔵の宝剣」天地万物に精神がある。純粋でまじわらせない。天真のまま欠けないのが真人。天地感応のロジックと一緒。じゃあどうすんの?修行しないの?という話になってきて、天才しか実現不可能ということになってしまう。
 第十六繕性 道世相喪、古の隠人は積極的に隠れたのではない。言が受けいられないときだけそうした。ハマれば大活躍するがそういう世でなければ身を安らかに保つ。昔の志というのは出世を意味するのではない。立身出世の行動・言論・学問への否定。哲学・宗教性強し。
 第十七秋水 河伯と北海若の話があり、名篇とされているとか…。本当にそういう評価なのか?孔子が衛・匡において囲まれてもひるまなかった(文中では栄人であるが、衛人とする説もあるとか)。恬淡としていた。孔子へのプラス評価は多い。公孫龍が莊子に戸惑う話、魏公子牟との対話。この魏公子は後にまた出てくるが、田子方も魏の文候に話をしているシーンが有る。覇者としての文候だけでなく、公子の話もでてくるのは土地柄・思想上道家と結びつく要素が多いのか?それとも興国期の文候と傾国期の公子の違いというだけでたまたまかな。*2弁論術に対する宇宙論宇宙論で煙に巻くという対抗策は当時有効だったとみなすべきか。故に陰陽家の発展・伸張。邯鄲の歩、莊子にも見えているわけだが、邯鄲の歩というのはいつ頃から見受けられるものなのだろうか?三国に分裂して、胡服騎射で強国になった辺りから雅な土地柄になっていったのか、それともそれ以前からそういう要素があったものなのか?(燕の若者が雅な歩を学びに来たわけだが、燕の地・人の事例は少ない。ひょっとしたらこれだけかも。)
 莊子が楚の仕官を断った話。恵施のいる梁へ訪れた話、濠の上の話。―計、5か6程のエピソードがあるわけだが、一貫性がない。最初に抽象的な話をして、適当に話を詰め込んでいくのがパターンなのか…。*3
 第十八至楽 立身出世・富の否定。万物造化、死生にこだわらない話。余人に出来ると言えるだろうか?当然無理。ここまで極端な思想を見ると、ある種の快楽主義と言える楊朱の裏返しとすら思えてくる。妻の死に平然としている莊子とその相手に出てくる恵施。最初恵子との問答を見たときは、道の概念を理解しない典型的な理解できない人間のように思えたが、むしろ莊子の思想・学識の深さを理解しているからこそ莊子も彼との付き合いを好んだ。問答を挑む好敵手・論敵というより、良き友人のように思えてくる。現実政治の話にこだわる恵子ではなく、莊子の言う道を理解しつつも、その深淵を知ろうと人間の理性の限界を理解しながら論戦する。自分のスタンスは崩さず、莊子の思想を探る。一連のやり取り、関係性を見ると、半ば遊びながらツッコミを入れて知的遊戯を楽しんでいるように見えてくる*4。(髑髏、死者との問答がある。これも楚の地。また海鳥の話があり、勘違いした鳥の養い方の話がある。これは魯候)
 第十九達生 人の精=天地万物の精と同じ。精を保ち極致に至れば、天下の化育をたすける。尹喜・函谷関の令と列子の話。*5
 楚の林での佝僂・せむしの蝉取り*6、船漕ぎ、養生(船こぎと養生は孔子が出てくる話であり、これもまたプラス評価での登場)、木鶏、水泳、名工、馭者。すべて忘我の境地で物を忘れる集中状態となる。名人・達人・天才の話だけのほうが上手く収まるのに斉の桓公の妖怪の話などが入ってくる。病を忘れたから治ったということか?いずれにせよこれでまた章・一つの篇としてうまくまとまらない、スッキリしなくなる。(名工は魯の人間で、馭者の技を見せる相手は魯の莊公でひと目見ただけで失敗を予見するのが顔闔)
 ※追記:田開之が養生の話をするところで内においては~外においては~と言う話をして、孔子の言を引いて内を養って籠もるな、外を養って現れるな。枯れ木のように無心に中央に立て。内外両方で調和をすべきだ。かくあれば至人の名を極められるとしている。この「内と外の論理」というのは往々にしてよくでてくる話で、この「内と外」というところに着眼点をおいてしっかり読むべきだったなぁ。もう読み疲れたからやらないけど(^ ^;)。そもそも莊子がいちばん初めにしている大事な分類分けが<内篇>と<外篇>だったし、そこに注目しなければならなかったですね。
 蒼天航路曹操は陣形を完璧にしない、きちんと整えない。必ずどこか一つ外してくるなんて話があったが、そういうふうな発想があるのかもしれない。完璧に整えて論理の整合性や完成度の高さを目指すよりも、このように必ずどこか崩す。わざと整わないように外して作っているのかもしれない。不完成・未到達の美みたいな。戦場・戦陣においては、どんな事態でも対応できるようにあえて完全な形にせず以下用にも動けるようにしておく柔軟性の維持ということでわかるが、書・テキストとしてこれはどうなのだろうか?後人の補完・文献の散逸を想定していたとか?ラストの孫休の話も理解が俗人には難しいという主張を加えたから全体としてのテーマ・主旨がよく分かりづらくなる。前フリ・今回のテーマ→具体例→オチ~みたいな流れが全体を通じて共通しているというのならばいいのだが。鳥をもてなすには鳥が好むものでもてなすのが正しい。人と同じやり方、食事・酒では鳥も困惑してしまい、やがては衰弱死する(この鳥のたとえ好きですね)。道の思想も同じ、理解し得ない人間に深遠な道の話を説けば戸惑い迷ってしまう。
 
 第二十山木 市南宜僚が魯候に出家を誘う話。衛の大夫・北宮奢が衛の霊公のために鐘をたった三ヶ月で完成させた話。道に従って強制しないやり方。
 春秋時代における道家の有効性、道家思想の人間が統治技術を持っていたという話。官僚制以前、法治以前の社会では労役は強制。強制労働に近いそれは当然能率が落ちる。それをしないだけで上手く行ったということなのかな?こういう道家の民を効率的に使役するというのは妙術、優れた統治・使役技術として映ったはず。故に春秋初期・中期頃には道家という思想が為政者からも注目されていた可能性は十分に考えられる。まあ莊子的というよりも黄老的と言えるのだけれど、両者が未分化・枝分かれしていない時期・段階であり、どちらからも道を弁えたものとして映っただろう。ある一定の時期・段階までは為政者や官吏層から注目されたものの、法治社会・官僚制以降はそちらの方がより能率が良いものとなって、通用しなくなり駆逐されていったという流れともみることが可能だろう。
 道家思想の消失と道家思想の集大成者莊子の登場 莊子の活躍した期間が大体春秋から戦国時代へと移行する期間だったということと併せて考えると、そう見るのが自然に思える。丁度道家思想が為政者・統治階級から魅力をなくして、その言説・及び論の説得力を失っていった。社会から道家思想が急激に消えていくという時代背景があったことを考えると、断末魔の雄叫び・最期の煌めき、集大成として莊子思想が生まれたと考えることも出来るかもしれない。あまりにも社会や政治への無関心・関係性の無さは、社会から消えいく道家思想というもの故だからか。無意味・無価値・くだらないから消えるのではない、世の中が間違っていてその真価が理解できないからだ!そんな腐りきった今の社会に何の価値もないわ!というメッセージ・テーマ背景を考えてみると、反骨精神が通底していることがわかるし、世の中への痛烈な批判・皮肉・警鐘が読み取れるだろう。
 道家思想には終末・末法の世という発想、警鐘と救済というものがない 面白いのは、当然こういう真理・道を理解しないというのならば!必ず世は滅ぶ!終末は近い!末法の世じゃぁあ!という風になっていくはずなんだけれども、そのメッセージ性が非常に薄い。もちろん、道なき政治は危険・失敗するということは枚挙に暇がないくらい出てくるのだけれど、逼迫したものではない。この世の中への警鐘という点でもまた消極的。危機を煽って、救済を売りにして宗教は伸びるものだがそれがない。そしてそれが出てくるのが言わずとしれた道教の時代。莊子は「亡天下」を論じていない。それこそ後漢末期や晋朝の崩壊で中華自体が消滅するような発想・天下が滅ぶという考えが彼の中に一ミリもないことがわかる。せいぜい、秦や楚といった戦国の七雄レベルの一国の崩壊・消滅。そういう時代背景だったことも道教のような宗教・教団の誕生につながっていかなかった要因だろう。*7
 墨家道家の衰退と名家・法家の伸張。では儒家は? 莊子が春秋から戦国時代の過渡期に活躍した思想家だったという話に戻して、時代が経るに連れて*8墨家道家政治及び統治技術から名家・法家政治及び統治技術へと移り変わっていったという流れ、時代背景があったと推察出来る。そういう話になってくると、当然、儒家儒教はどうだったのだろうかという疑問が出てくる。孔子孟子荀子は言わずもがな、呉起(呉子)ですら曾子の弟子だった。呉起は任侠の性質が強く、立身出世が主体にある人物なので、少し異なるようにも見えるが、こういう人物が儒家からスタートしていることがポイント。先鋭化する孟子のそれは別としても、変化・変容にこだわりがないというか、窓口が広く色んな人間が学んでいたこと。法家や兵家思想の端緒という要素を持っていたことがポイントだろう(まあ、言うまでもなく法家も兵家も儒以外のものを端緒とした物はあって別系統の法家・兵家思想はあったのだろうけど)。道家と同じく韓非子に代表されるような法家の時代になるとその思想の有効性・有益性は後退し、漢の時代まで雌伏の刻を過ごさねばならなかったという流れ。あ、そうか荀子は結構すぐ登場してきた印象だったけど、戦国末期なのか。素直に儒家→法家として、荀子を代表例に出すだけでよかったな(笑)。大義名分というか理想が実現するはず!と信じて疑わない孟子と、法の論理を唱える荀子に時代の変化・進展を読み取ることもまた出来ますね。
 消える道家と根付く儒家 道家思想が大々的な思想基盤・担い手がいなかったのに対し、儒家は統治階級に伝播していった。豊富なテキストの存在以外に、冠婚葬祭のような儀礼に食い込んでいたのが連綿とした知識の伝承に役立ったのだろう。結婚・葬式は現代でもビジネスとして成立するくらいなのでその意義は想像しやすいだろう。まして葬儀の意味合いが大きかった古代において、結婚が血縁による同盟を意味する時代においては言わずもがな。そして地域秩序の祭祀、祭りや位階の叙任などに関わることで発言力や影響力を保持し続けていった。思想よりも儀礼の端緒ということで孔子儒教が国教に選ばれたと言ってもあながち間違いではないだろう。
 
 孔子が陳・蔡間で囲まれた話。これも莊子のツボなのか、よくでてくる。太公任がひけらかすから危難を招くのだという話があるが、その話自体は別としておいといて、この危機・苦難において、孔子の行動方針・政治方針が変化したとすると面白い。他人の指摘があろうがなかろうが、このような結果で以後、孔子の集団から先鋭性が失われたという可能性は充分あるから。孔子も道を重視した生活をするようになり、自然に交わり暮らし鳥獣すらも孔子を恐れなくなったという一説がある。まあブッダの話と同じですね。悟りを得たと。明言こそしないものの、道家的にも孔子を悟りを得た、道を学んだ聖人(道教的には至人や真人というところか)だという意識がある。また、君子之交淡若水ということを孔子は学んで成長したという展開になっている。おそらく時代や土地によって、道VS儒のようなものがあったり、逆に道と儒を融和させようというものがあって、その両者が混交して、方針がどちらになるか結論が定まらないまま、このようにテキストにまとまった結果なのだろうか?孔子・莊子・孔子・莊子と話が交互に出てくる(魏恵王に莊子がなんで先生は病んでしまったのか?という話)。莊子>孔子という能力・人物の差を見せつけたいわけでもないように思える。むしろ、陳・蔡の危難と鵲のエピソードを併せて、孔子と莊子には共通性がある、学習して同じ悟りを得たと言いたいように見える。
 莊子の鵲(かささぎ)を捉えようとするエピソード。ハンターハンターで、獲物を捉えようとする時が一番隙が出来る瞬間なので、その瞬間を狙って獲物を仕留める・攻撃するという話に似ている。処世訓として戦国時代当時においては大いに参考にされた、士の心を掴んだ話ではなかろうか。最後に、陽子という秦の人間が、宋に行った宿屋で美人よりもブスのほうが愛されているという話
 第二十一田子方 魏の賢人田子方が魏の文候に東郭順子のことを話、文候が東郭順子に感じ入る話。莊子は釣りをしている所、楚の威王に招聘されて断った話があるが、周の文公・太公望と対蹠的な話。これも人物や器量の違いではなく、単に時代が変わったから。道家思想を備えた賢人が魏の文候のようにたまに賢君を感動させるだけ。溫伯雪子(楚の賢人)―魯の形式主義・形骸化の話。莊子が魯の哀公と面会して、魯に一人しか儒者はいないとか、宋の莊子が語るのが特徴的か。真人は何をせずとも自然にそうなるという話。であれば自ずと凡人には限界があることになってしまう。周の文王が臧の地で太公望に会い政治を任せた話がある。何もしなかったために人々は互いに譲り合い党派は自ずと解散していった、自然と政治が上手く回ったという話。宰相のような政治を総覧する立場のポストがあり、そのポストを誰が占めるか、どの国のどんな派閥の人間が占めるかで利益関係が大きく変わる。故にどんな立場の人間でもない全く利害関係のない第三者に任せたという話かもしれない。政争が発生しないために各々の職分を全うするだけになったということではなかろうか。まあ、何れにせよ古代・政治制度の未熟な段階において通用することであり、官僚制度が発達するとそんなことは起こりえないだろうが。(百里奚、秦(虞)の人の牛がよく肥る話。宋の元公の画工の話。孫叔敖が三度令尹(宰相)になり、三度職を辞して恬淡としていた話。徐無鬼でまた孫叔敖が出てくるので一応メモ。楚王と凡国の君主の話)
 第二十二知北遊 不立文字・真言の話。知らない者の方が知っている。究極は忘れ去ること。田子方で出て来た東郭順子が莊子に問う。道は糞尿にある。真人・至人とも言うべき東郭順子より莊子は更に上にあるというエピソード。最期は前述通り、孔子が道を話して終わる。最初の方は孔子についてマイナス・負の話もあったが、最期は孔子自身が道を理解し諭すというところを見ても、最終的には孔子が道の重要性を理解し、学んだということ。だからこそ孔子は凄いのだと称えていると理解できる。孔子を通じて儒の権威を取り込もうとしたと先に書いたが、孔子をある種の道家の至人・真人にすることで、儒家達に道を学ばせようとした、道の重要性を説明したとも考えられる。各地に広まる儒家達が興味を持ってサブテキストとして学んでくれればしめたものというところか。ある種の托卵戦術なのかもしれない。(楚の帯鉤工人の話)
 
 <雑篇> 第二十三庚桑楚 老子の教えを実行する庚桑子の話。実り・大きな仕事の達成。恵み=儲けをもたらすものは偉人とされる。でその土地の人達から、社而稷之=神格化されて祀られるという流れになる。庚桑子はくわばらくわばらとばかりにこれを拒否。利を与える存在としての聖人なんて偽物、待っているのは破滅の運命といういつものパターンで弟子たちを諭す。これを聞いて大いに感じるところがあった南榮趎は教えを請い、老子のもとで修業をすることを勧められる。老子のもとで「十日自愁」、初めて具体的な修行をするエピソードがでてくる。衛生之經―衛生の常法という学ぶべき内容が述べられている。宇泰定者,發乎天光―宇とは心宇、心のある所。
 第二十四徐無鬼 魏の武候、愛民は民を害する。民のため=自分のためだからやってはいけない。民のために軍備を止めるというのは民のために軍備を増強する論理と表裏一体で裏返せば同じことになるから。宋の元君が鼻の先につけた白土を斧で削り取る名人芸を見せてくれという話を引き合いにして、恵子を称える話。彼なくして自分の論説も最早生きることはないと語る。ここにも莊子が恵子を良きライバルだと認める話がある。彼以外ともに語り合えるものがない。(黄帝が童子が教えを受ける話、滎陽・泰隗山は泰山のことか?呉王がすばやさを鼻にかけた猿を殺す話。)
 孔子が楚にいった時、楚王が酒宴を設ける。孫叔敖執爵而立,市南宜僚受酒而祭―爵を持つ者と酒を受けるものが別。市南宜僚が酒を地に祭る。そもそも爵位制度は宴・祭と不可分で何を入れるかと言ったら酒しかない。祭酒=議長・司会進行役のようなものか。
 孔子を引き合いに出して名目を争う儒墨の否定。この儒は儒家後学の徒、魯の儒家は唯一人の話と同じ偽物のことを指しているとあるが、本当にそうなのか?孔子と儒は別だったのではないか?本当に儒家儒学儒教を前面に出していたと言えるだろうか?述べて作らずのようなメンタリティで、ただ先王の教えを説いているだけの孔子に儒こそ最高の思想であり、我こそは儒学の大成者じゃぁ!という意識はなかった気がする。
 物と物、人と影は離れないが、人の本性は簡単に離れてしまう。耳・目・心は本性から離れやすく一度離れると中々元に戻らない(其反也緣功,其果也待久―その反るや功により、その果や久しきを待つ)。己の知性・実力・能力を宝とするが故に競争・禍いを招くと。身体論的にはそのとおり、では世の中・社会・国家にとっては?となる。そして時間が掛かるにせよ功を積めば元に戻れる、本性を取り戻して至人・真人になれるというのならば、それをすべきということになるはずなのだが…。
 第二十五則陽 則陽(魯の人)が楚王に推挙を求める話。故郷の国都を見るだけで嬉しくなる。故郷を離れた人間の心情、当時の人間の多くが仕官で立身出世を目指して故郷を離れるという時代の潮流を反映した話。とはいっても殆どの人間は故郷で人生が完結していたと思われる。せいぜい春秋レベルの国都の範囲ではなかろうか?柏矩が斉に行く話、罪人が磔にされているのを見て、一体これは誰の罪なのか?知こそが罪を作ったと嘆く。解説に孟子の主張とは少し違うが、民に恒産なくして恒心なしの論に近いという。こういうように探せば申しの主張を意識したような話が拾おうと思えば、拾える。見つけ出せるのかもしれない。(魏の恵王と恵子の問答。孔子が楚に行く途中の宿で市南宜僚に出会う話。はくぎょく衛の賢大夫)
 第二十六外物 詩礼を以って冢を暴く根拠とする、冢荒らしをする儒。魯に儒服多しと同じ偽物というがそうだろうか?その話とはこれはまた少し趣を異にする話だと思える。この当時の儒というもの、他者視点でも自己主張でも、むしろこういったいい加減なインチキな集団・人間が多分に混ざったものでないのだろうか?儒自体が下層の巫祝儀礼集団であったことを考えると、むしろかなり質が低いものであったとするほうが自然に思える。孔子以降、儒学集団が台頭・伸張していって初めて質が改善されていったのではないだろうか?それこそ孔子が登場する以前は宮廷や大都市の祭祀儀礼以外は儒教のそれで包括されていなかった。儒教的な論理や儀礼がまったくなかったとは思わないが、孔子によって初めて整備されて下流・下層民だったり、農村のような周辺だったり、社会の末端に至るまで儒的儀礼祭祀が浸透していったのではないだろうか?
 老莱子が外的特徴を以って孔子と断定する特徴が佝僂であり、佝僂=儒であるという共通認識が当時にあった!侏儒(しゅじゅ)―①こびと・②見識のない人間に対する嘲り―といった言葉があるように、儒は巫祝・下級祭祀の担い手であり、ある種の身体障害者が担い手になっていたと考えられる。孔子が佝僂の蝉取りの技に感嘆した話も儒者かもしれないと近寄って挨拶しようとしてしてみたら蝉取りの名人だったという要素があってもおかしくない。(任国公子が牛五十頭を餌にどでかい魚を釣り上げた話。宋の元君の神亀の話。宋君が親孝行者を高官に取り立てたら郷党の半分が泣いて餓死した話。)
 第二十八譲王 貧乏エピソード。この貧乏話もまた典型的な事例でよく見られるパターン。子貢、魯の原憲に「どうして先生は病んでしまったのか?」貧乏、貧を病むと表現する。病んで働けないから貧ということか?(韓と魏の争い、華子と昭候の話。顔闔が魯候の進物を拒否して姿を消した話。列子が鄭の大臣子陽の贈り物を拒否した話。曾子が衛の国で貧しかったが高雅な詩をうたった話。
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 中山公子牟、魏の公子でありながら出家というか高貴な地位を捨てて修行に励む。事例はこれだけ、一例だけなのかな?伯夷叔斉との血盟。契約を結んでから、自分たちの封禄や地位を約束する内容だったので、これは道ではないと破棄。事前に契約内容を示さずに血盟をするものなのか?
 第三十二列禦寇に鄭の緩という者の話。儒者として大成し三族に功が及ぶほどだったが、弟を墨者に仕立てた。父が弟・墨家の味方をしたことで自殺し、父の夢枕に立って恨み言を語った。これについて自分の才能・功を我がものと頼むからこそこのような行動に出る。徳を備えている者はその徳を自分の力によるものとは思わない。道はいうも更なり。自己の力に頼ろうとするものを天遁の刑という。宋の曹商が宋王の命で秦に行き、秦王のもてなしで車百乗をもらったことを莊子に自慢しにきた。それを見て秦王の痔でも舐めて治したのだろうと追い返した話。魯の哀公が孔子を任用しようとするのを顔闔が諌めて止める話がある。正考父の話、孔子10代の祖で宋の大夫。出世する度に謙虚になった人物。宋王から十乗の車をもらった者が莊子に自慢をして、莊子が宋王の正確の激しさからいずれ身の破滅を招くだろうと警鐘する話。
 あとどうでもいいっちゃいいことですが、天下篇で「老弱孤寡」の部分の訳が「老人・幼児や孤独な人々」となっているのですが、老人・孤児・寡婦のことではないのか?弱は弱者?貧困家庭の低所得層のことか、先天的な弱者=障害者のことかどうか知らないですけど、孤独な人々ではない気がするのですが…。

*1:※一応楽天リンクも新釈漢文大系 8 荘子 下

*2:関係ないけれど、公孫龍が初めて歴史に出てきた頃には非戦や兼愛という論を説いていたこと。此れを以て元墨家であるとするのは短絡的であるが(墨家の専売特許ではないから、無関係の人間がこの論を専門とする論者・思想家であっても何ら不思議ではないので)、墨家集団が歴史から姿を消していく頃に過渡期の存在として位置づけられるとしたら面白い。元墨家、あるいは元墨家思想をも学んでいた学徒。墨家思想に惹かれるところが多々あって門を叩き学ぶも、思想の有効性の喪失によって転向。墨家のように政治集団が滅んでしまえば意義を喪失してしまうというような思想ではダメ。思想独自で永遠の生命を保ちうるような学術性を求めた結果が弁論術、名家だとするとつながりとしてキレイに繋がるので面白いところ。※追記:第三十三天下篇で公孫龍と桓団という括りで論者が出てくる。共に趙の人だとあるが、ここも後々関わってくるのかな?それはおいといて、墨家の三氏がお互いこそが正当だとして堅白同異の詭弁を用いて論じあっているという下りがある。これもまた根拠として決定的なものにはなりえないが、墨家集団内部での派閥争い、自分たちこそ正当であるという宗派争い・正当性論争のために弁論術の必要性があった。故に公孫龍が輩出された、公孫龍が必要とされて墨家集団の一派に招聘されたと考えることもできそうだ。

*3:まあ、最初に書いたとおり、我々が住む世界というのは非常に大きく果てがない。大きな世界が存在し、自分がいかに小さい・狭い世界に生きているかということを自覚するものはとらわれない。広大な世界に生きるものは自由であるとか、まあそんな話をしたいのだろうが、上手く繋がって読むものを引きずり込む、なるほど!と思わず膝を打つようなものがない。

*4:※参照―恵子と荘子の問答

*5:急に思いついたのだが、老子の教えを伝えたのがこの関所の人間、一役人。高官かどうなのかわからないが、彼の影響はどのくらい入っているのだろうか?関所の中の関所と言っていい函谷関、一大ターミナル。そういう場所が思想に影響を与えているという要素はないのかな?舜が聖人ではない、君子だと言われたのも確か関所の役人。色んな人間がいり巡るところだからこそ、ふらっと賢人が迷い込む。うろついているものだという発想があるのかもしれない

*6:地味に気になっているのだが、どうしてセミを取っているのだろうか?食用?ググったら『本草綱目拾遺』に薬用昆虫が 84 種書かれているとのこと。漢方で冬虫夏草があるくらいだし、漢方の一環で昆虫食も当たり前に根付いていたということか。

*7:当時の教団といえば墨家のそれくらいだし、孔子集団とあとは戦国四君呂不韋のような任侠・学者・勇士・雑技の食客集団くらい。あれ、食客集団って連合軍を形成する際に重要な繋ぎ・仲介役となるって昔書いたっけ?呂不韋がそうしていたのもこの連合軍対策という意味合いがあったのかな、やっぱり。

*8:どうでもいいけど時代が経るってあんまり言わないかな?時代が下る・流れるか。流れるもあんま言わないかな