てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

小室直樹・山本七平共著 『日本教の社会学』の推薦文

 前回*1でようやくTポイントの話をし終えました。ああ、そうか更新しても最新日時で公開していないのから、読者の人でも知られていない可能性があるのか。穴埋めで書いてたし、内容もまあそんな大したことではないので、まあいいか。個人的に気になってしまってTポイントを入り口にして思いついたくだらないことを延々書いただけですし。追記しまくったので、もはや最初に書いたオリジナルの原型をとどめていないかもしれません。あの話がなかなか面白いなと思っていただいた方はもう一度読んでいただけると幸いです。そんな奇特な人いるのかな?(^ ^;)

 で、この前書きたいなと言っていた話を書こうと思っていましたが、先にこんな話を消化したいと思います。レビューを書いたらTポイントが50ポイントもらえるというキャンペーンやっていたので、復刊ドットコムでレビューを書いたんですね。そしたら字数制限があって物凄い中途半端・消化不良なレビューになってしまったので、せっかくなので書いたものをこちらに載っけたいなと思いました。あとメモ帳に保存してあるのが邪魔なのでさっさと消したいのでこちらから先に手を付けたいとおもいます。

 小室直樹山本七平共著の『日本教社会学』です。

日本教の社会学/ビジネス社

楽天リンク

 再販されたことで気になっていたことと、この本を復刊ドットコムで自分でリクエストしたので、まあ読んどいてオススメですよ!とPRしないとせっかく再販なされたビジネス社さんに悪いかなと思ったので。復刊してほしい!とリクエストしたわけですから、ちょっとでもPRに協力したいなと思いましたので駄文を書いておきます。


 今から30年以上も前(1981年)に出版された本でありながら、その内容は未だに古びて廃れてしまうことがない。それは両著者の優れた視点・指摘もさることながら、日本の抱えた問題が30年以上も未解決のままであるということである。巷間では「失われた10年・20年」という用語が広まっている。この「失われた~年」というのは本質的には変化をすることができなかった「変われなかった~年」と言える。

 バブル期の日本において、既にこの「変われなかった」という性質は存在していた。バブル崩壊後に「失われた」のではなく、日本社会と言うのは元々近代社会・民主主義社会において重要な「変革」という因子が存在しなかったのである。失われたのではなく、元から病理や危機を日本社会は孕んでいた。ただ単純に未曾有の好景気・経済成長が存在していたために、内在的なリスクが発露しなかっただけなのである。

 この日本が抱える潜在的な危機がいつか爆発するということを見抜いていた小室は、日本社会の預言者として、警鐘を鳴らし続けてきた。その姿勢は一貫して変わらず、単著を初めて出したときからその主張を唱えていた。日本社会はこのままでは深刻な事態に陥る。内在的な危機が発露して大変なことになるということを小室は『危機の構造』(1976)で既に指摘していた。小室を一躍有名にしたのは『ソビエト帝国の崩壊』(1980)であり、ソ連の崩壊を経済体制・共産主義思想・アノミー・技術力・組織の機能不全性など様々な要因から論じ、それが現実化したことで小室直樹の学問・論理は文壇の注目をあつめることになった。

 前述通り小室は既に日本の危機を指摘していたわけだが、当時の時代の空気ではまだまだ十分には浸透していなかった。故に日本の国家や社会に警鐘を鳴らすために、民主主義国家として近代国家としてあるべきはずの常識がない日本社会の異質性・特異性、つまり前近代性を改めて論じることになる。そのパートナーとして「日本教」や「空気」で有名な山本七平氏が選ばれ、共著を出すことになった。

 小室は山本七平を、丸山真男同じく「浅学非才」(もちろん否定的なニュアンスで使われたものではない)でありながら、正当な学問を修めたわけでもないのにあれ程の発見・業績を残すことが出来た点を高く評価している。が、しかし個人的には山本七平には学術的な「方法論」が存在していないと思われる。小室は社会学的な構造機能分析を山本が行っているというが、山本には学問を行う上での方法論が欠けているゆえに、それぞれ論じる内容に一貫したロジックが見えにくいのである。

  「空気」の研究や、本人の体験に基づいた上での日本軍に関する分析、ユダヤ教と日本社会・「日本教」を比較分析したものなど、それぞれ素晴らしいものではある。しかし、では、それらの発見・結果を総合的に、体系的に学術の形としてまとめ上げることが出来たかと言われればかなり疑問が残る。

 学術的なアプローチ、いかなる手段・方法を持ってして問題を論ずるか、対象領域を研究し、重要な法則を発見するかという「方法論」が確立されていないがゆえに起こるものといえるだろう。故に山本の指摘、分析は断片的であり、優れたものとそうでないものの差が激しいと個人的には思う。

 ―と、以上のような山本批判をしながらも、それでもやはり山本の指摘には優れたものも数多くあるのは事実である。それをもって山本の主張に触れずに捨て去ってしまうのは惜しい。当時の時代を知る上で参考されるべきものであることに異論はない。


 出版以前の状況や個人的な山本への評価はさておいて、本題に戻って、日本社会はなぜ変わることが出来ないのか?それは民主主義社会ではないからである。日本人は民主主義というものをまるで理解していないと言っても過言ではない。民主主義とは何かと言われれば、皆決まって戦争や専制主義の真逆の概念である。自由と豊かさと平和がセットになった、なんとなくいいものが民主主義であるという浅薄な思想が本書で記されている。もちろん民主主義とはそんなものではない。現代でもこのような浅薄な理解で民主主義を捉えている人は珍しくはないだろう。それこそ日本社会の危機の源泉、社会の病理なのである。

 小室の学問とは、多岐に及ぶが一つだけエッセンスをあげよと言われれば、それは資本主義や民主主義とは何なのか?ということである。民主主義や資本主義が素晴らしい、素晴らしいからそれを守りましょうなどという事を言いたいわけではなく。そもそも現代のシステム・社会の基礎となっている民主主義や資本主義というものの論理を知らなければ、それを使いこなすことが出来ない。

 民主主義や資本主義というものに批判は昔からある。共産主義というものが力を持って世界に広まったのも、その批判が人々の心を捉えたからこそである。資本主義・民主主義に欠陥があるがゆえの現象であった。が、しかしその失敗を見てわかるように、現状の制度をより良いものに改革をするには、その民主主義や資本主義というシステムの本質を正確に抑えておかなければならないのである。今の制度の本質がどんなものなのか理解をしていなければ、制度を改革するのも、全く新しいシステムを創り出して行くことも出来ないのである。

 まず現代の社会の基本的なロジックを正確に抑えなくては、社会を変えることも良くすることも何も出来ないわけである。社会を政治を経済を良くしていこうと思うものはこの基本を何よりしっかりと抑えておかなくてはならないのである。

 小室の学問の真髄は問題発見能力もさることながら、優れた現状認識・現状分析にある。であるが故にその価値は未だに廃れてしまうことがない。継承するにせよ、批判するにせよ、その論理はどこにでも応用が効くものである。是非一読されたし。 対談本という性質上読みにくさもある。小室直樹の本は多数あり、読みやすいものは多いので他に読みやすいものから読むことが良いかもしれない。読みにくければ無理せず読みやすいものから手を付けることをオススメする。


 当時の日本は軍国主義などではなかった。軍国主義であれば国家のありとあらゆるものを総動員して戦争相手を研究していた。そして勝てないとわかれば戦争をするはずがない。何故軍国主義がそんな戦争をするのか?軍国主義だったのならば、戦争は避けられた・戦争をするはずがなかった。多くの日本人はそんなことも理解できない。―とまあ、そんな肝心の中身には触れずにおしまい。いずれ内容読んで追記するかもしれませんけどね。

*1:

キングコング西野の絵本無料公開の話

 そういえばこの話を書いていなかったので、一言二言触れておきたいと思います。まあ、有名な話でいちいち説明する必要もないでしょうからしませんけど、芸人(元?)のキングコング西野氏が絵本を書いてそれを無料公開したんですね。それについて声優さんから疑問の声が上がって賛否両論炎上騒動になった話です。

 自分で書いた本の権利をどうしようが、本人の自由ですから特に問題はないでしょう。フリーミアムという手法、無料でだれにでも見られることで知名度を高めて売上に繋げるという方法もマーケティングとしては面白い取り組みだと思います。最近、良い悪いおいといて、色んなコンテンツが溢れていて手に取ってすらもらえない。だからマンガがAbemaでも一巻目が無料公開されている。もうそういう時代になっているということを書きました。まあそういう話に通じることですよね。

 しかし、そういうことを出来る人というのは限られるし、フリーミアムという手法は大ヒットかゼロか。リスクを取らずに最低限の収入を確保したいという考え方だってある。この西野氏は初めから知名度があって、それ故にクラウドファンディングで資金を集められて、個人ではなく複数の集団チームで絵本を書いている。本業(だった?故に貯金・資産が適切かな)として確実な収入があって安定した立場にある人間と、知名度すらない不安定な立場の人間では考え方が違うのは当たり前。

 自分がいかに強い立場・有利な立場にあるか、それを自覚していない書き方、物の考え方だなとブログの文章を読んで思いましたね。

 強いものには責任がある、強いものは意図せずとも慣習・ルールを創り出してしまう。それによってこれまでの絵本業界に不利益・不都合をもたらす可能性がある。そういうことを考えないといけない。そういう警鐘だったり弱い立場にあるものの不安の声として件の声優さんのツイートを受け止めないといけなかった。しかし彼はそうではなく、バトルをしてしまった。

 彼のやってることは間違いではない。しかし、物事の進め方・考え方に問題がある。新規参入者が業界を荒らす可能性ということに思いが至ってない。もしそういう発想があれば、無料公開後、絵本業界がどうなったか。あるいは無名作家の支援の場を作る。援助をするなどと言ったそういう話になったでしょう。

 「なんで人間が創り出した道具のはずのお金に人間のほうが支配されているの?」といった一文には、ああマルクス共産主義の時代の流れを知らないんだろうなぁ。もうそういう人が出てくるような時代になったんだなぁと個人的にはしみじみ思いました。

 恩で世の中を回したい。そういう思いは個人的にもあるので同感するところなのですが、それは無料公開とかそういうことじゃない。それこそ成功者なわけですから、稼いだお金を寄付・慈善事業で奉仕するのが資本主義・民主主義では正道、常道なわけです。絵本を無料公開することよりも、お金に困っている子供を救う方法はいくらでもある。というか絵本読みたいという動機よりもよっぽど切実でしょう。普通はそちらにまず目がいくでしょう。

 まあ、結局絵本業界・構造がよくわからないので、無料公開が正の効果をもたらすのか、負の効果をもたらすのか知らない。なのでなんとも言えません。前者なら「西野よくやった!」になりますし、後者なら「だから言ったじゃないか馬鹿野郎」になりますね。ですから絵本業界に詳しい人の分析を聞いてみたいところです。そもそも絵本というのは1人で書くもの。それを運慶・快慶なんかチームプロジェクトだったと最近言われていますけど、そういう作業に変えることがいいことなのかどうなのかという話は気になりますしね。

 後、もう一つそもそもになりますが、テレビで名を上げた人間が異業種に参入・転換する上でその業界や先人に対する尊敬・感謝の念というものは必要不可欠。彼にはそれが感じられない。

 M-1グランプリで漫才をやっていた時も、そうでしたし、あんまり才能・センスを感じないんですよね。はねるのトびらという番組でドランクドラゴンの塚地、ロバートの秋山・馬場、インパルスといった他の面々は面白いなと感じても、キングコングというコンビにはそういうものがなかった。

 芸事で頂点を極めたいというよりも、目立ちたい・売れたいというようなそういう変な気持ちのほうが強いのでは?という気がします。立ち居振る舞いが自己顕示欲が強いタイプだなという印象がありましたね。

 毒舌芸人だったか、ちょっと前に出てきた芸人が西野氏に「しょーもない大学生みたいなボケするな」と言われたことを根に持って「あの時の大学生です」というネタをやっていたのを思い出しましたが、彼はそういうふうに敵を作るんですね。アメトークだったかで、自分に好意的なツイートを検索してRTしまくって、反対意見・敵対意見は攻撃したり晒したりそういうことをするみたいな話を見た記憶があります。まあ、そういう人間なんですね。

 だからまあ今回のように反対意見があったら、戦おうとしてしまう。自分が正しいと言いたがる。JASRACが授業に使われる歌に使用料を払わせるという話で、「JASRACさん、炎上を持っていってくれてありがとう」とか、「ほら、無料公開で誰でも使えるようにした方がいいじゃないか。僕のほうが正しいことが証明された」みたいな事を言うように地雷原だったり、戦場に突っ込んでいくことをいとわない人なんですね。

 最近、ヤングジャンプ読んだのでキングダムで例えますけど、初めて戦場に出る兵士、若武者が手柄欲しさに大将首取ろうとするようなもんですね。まあ経験がないわけでもないので、そこそこの将軍としましょうか。功績を焦って独断専行で大失敗をやらかすタイプという風に個人的には見えました。今回の騒動はこういう感じで終わりましたけど、いずれまた何かトラブルを起こすだろうなという気はしますね。

キングコング・西野さんの絵本無料公開を批判するクリエイターは、今後確実にくえなくなる ―という中嶋よしふみ氏の文章を見ました。労働問題云々で参考になった人なので覚えていたのですが、見事に取り違えていますね。ここで述べられていることは正しいんですけど、そういう話で反対している人達は反発しているわけじゃありませんからね。この方も自分の言いたいこと、語りたいことを語るタイプなのでしょうか。まあ、そう言って人のふり見て我がふり直せという話になるのでしょうけどね。

続、『ヤマトンチュの大罪―日米安保の死角を撃つ!!』

 前回の小川和久著 『ヤマトンチュの大罪―日米安保の死角を撃つ!!』―の続きになります。

 韓国・比などの基地は脅威対処型の基地にすぎない。日本は戦略的根拠地で次元が違う。脅威がなくなれば実際そうなった比のように、朝鮮の米軍もなくなる。しかし日本のような戦略的重要地はむしろ増強される。今後もなくなることはない。燃料・補給などロジスティクスの観点からその重要性は言うまでもない。湾岸戦争ロジスティクスを担った戦略的根拠地だった日本の重要性は、約7万人送り込んだ英と比べて、どう低く見積もっても英の3~5倍に相当する。それくらい後方支援という任務は重要。無知だからこそ日本は貢献していないという声を真に受けてしまう。数々の文献に日本の貢献が記されていないのは、国防総省の公式記録に記されていないが故とも言える。「日本外し」で意図的に書かなかったのか、日本の軍事的貢献を取り上げないでほしいという日本政府との談合の結果なのか記されていない。議会が税金の使い道をきっちり調査するという感覚から突っ込んで調べていれば、こんなことにはならなかっただろう。これも民主主義機能不全の結果。湾岸戦争は第二の敗戦である。

 米のチャーマーズ・ジョンソンなどリビジョニストは日本の安保タダ乗りを主張する。これは自衛隊が米を守っているということを理解していないが故*1。米を敵に回すのは日本も敵に回すこと、抑止のハードルを上げることを理解していないが故。
 自衛隊の空軍は世界第15位程度だが、そのアンバランスな戦力で米軍基地を攻撃するリスクを高めている。空軍力を図るものとして敵国を爆撃する能力、制空権を取る能力と並んで敵を自国に侵入させない要撃戦闘能力・要撃密度がある。日本のその能力はイスラエル・米に並んで三位。海軍も対潜水艦戦(ASW)に特化している。掃海能力が世界一で肝心の攻撃的戦力が抜け落ちている。これもシーレーン・米の戦略ルートを守ることを念頭に置いているため。

 防衛予算と基地予算、あわせて約5兆で米の戦略的根拠地を支えている日本が最も双務性が高い国であることは論をまたない。西太平洋からインド洋の戦略分担比率は米6:日4になる。外務省北米局の高官が「でたらめ言ったら困る。横須賀はスービックの50分の1程度の役割でしかない。日本から撤退することはあっても比から撤退することはない」と言った。根拠を尋ねたら米がそう説明しているからとのこと、現地に足を運んでいなければ国防総省の公式資料に基づいたものでもなかったという…。米の政府の当局者と安保の確認作業をする機会があったのでそのことを尋ねた。やはり予算は二次的なもので戦略上の重要性が第一だと認識していたとのこと。

 このような戦略的重要な要衝から撤退はありえない。セキュリティー・バキューム(力の真空)はありえない。ビンのキャップ論・日本の軍国主義が復活するというのも歪な軍隊の戦力を見ればありえないことは一目瞭然。むしろそのように撤退をちらつかせて米の駐留を望む声を上げさせるのが目的。ベトナム戦争後のカーター政権の撤退論で韓国のみならずアジア諸国から駐留維持を望む声を引き出したのがいい例。むしろこのような論にデータなど示してきっちり反論できない日本の問題。

 95年、仏・中が核武装に踏み切ったのは核=政治力の裏付けがあるから。88年、印は核武装を関係国に通達した。翌年中国は印のラジブ・ガンジー首相を招待し歴史的和解に踏み切った。政治的価値・効力がある以上核武装の誘惑は常に付きまとう。その国が米にとって核を持って良いか悪いかで「良い核」か「悪い核」か判定される。米にとってインド・パキスタンイスラエルは「良い核」イラク北朝鮮リビアは「悪い核」。ソ連にとってはこの良し悪しが逆になり、ソ連にとっての「悪い核」の国々をなんとかして味方に引き込みたい。「良い核」にしたいという外交が行われた。

 平和主義・非核政策を外交に掲げる日本は一時的でも国交を断絶して強い抗議をするべきであった(それ自体に疑問はないが、断絶後どういう風に国交回復をするのか、振り上げた拳をきちんと降ろさせる、着地させる方法はいかようなものなのだろうか?)。豪・NZと核実験を非難してきたのにもかかわらず、仏に常任理事国入りを求めて特使を送った。外交的誤りである。

 仏国民に訴えかけるのに仏製品不買運動のようなものはあまり効果的ではない。それで倒産企業でも出そうものなら逆効果、相互の友好を損なうだけに終わる。新進党の意見広告「核実験が最初に破壊するのは仏への信頼である」という大国のプライドをくすぐるのはセンス抜群。中国に対しても友人としての相手を思った忠告でない限り、このような抗議は効果を発揮しない。危機管理の基本は人を見て法を説く事、国際関係でも同じ。

 日米安保の根本的認識を誤っている指導層。朝鮮国連軍という認識の欠如。核開発疑惑についての安保理での経済制裁。中露は積極的ではない。韓日米で安保理を回避して独自制裁は可能。効果を発揮しなければ、次の段階として軍事制裁の性格を含む海上封鎖になる。そうなるとPNR(引き返し不可能地点)になる危険性をはらむ。海上封鎖からそれをかいくぐろうとする北の艦艇との小競り合いが実戦にエスカレートする可能性がある。軍事制裁となると安保理決議が必要になるため、強力な経済制裁は出来ない。

 半島での有事には国連安保理決議がいる。日米安保条約と米韓相互防衛条約には国連安保理の決議が必要という歯止めがかけられている。在日・在韓米軍は「国連軍基地」として位置づけられており、8カ国からなる朝鮮国連軍の合同会議は形骸化したとは言え現在でも存在している。国連地位協定5条2項には、日本国内の基地を朝鮮国連軍が使用することが明記されている。そして24条・25条には国連軍が撤退しない限り、在日米軍基地の朝鮮国連軍としての基地という性格は消えないことになっている。安保条約6条で米軍の基地の使用を認めているものの、1条で国連憲章に定めるところという国連の歯止めがかかっていることがわかる。国連憲章のほうが日米安保よりも優先する構造になっている。だから沖縄のホワイトビーチには日章旗星条旗と並んで国連旗がある。米韓相互防衛条約があろうと、国連軍の性格を持つ在日米軍基地を(注:安保理決議抜きで)半島有事に使用することは不可能。

 社会の官僚化による民主主義の不在。米では一人平均40人いる政策秘書。議員に年40万ドルの手当がある。だから優秀なブレーンに支えられた有力な議員は政策を立案でき、一人で政府の方針をひっくり返すことも可能。また会計検査院のようなチェック機能、ジャーナリスト・シンクタンク・アカデミズムなどの問題の指摘。軍事問題に精通した人物が足りない。

 最後に氏による「平和国家モデル」の提唱がある。歴史認識に基づく戦後処理、南京のような賠償に踏み込むことで信頼醸成をするというプランがあるが、それ自体は賛成するものの、しっかり賠償しても信頼醸成・日本の不信感といったものが解決されるとは思わない。中韓のそれは日本の対応のまずさというより、彼らの自身に内在する問題だから。また相互原則、日本が賠償するのは同じように自国の罪・戦争犯罪に向き合う国に限定するという歯止めが必要だろう。

 凶状持ちであるから信頼回復は難しいとあるが、他国の実利などを無視した視点のような気がする。勿論この時点ではこの見方で対して問題はないのだろうけど。中国の台頭で日本のプレゼンスが求められるようになったように、彼ら自身の国益によって日本への見方は変わるに決まっている。ものの見方が日本中心主義的にすぎるのではないか?まあ本のテーマからそうなるのも致し方ないのだろうけど、もっと「平和国家」がいかに日本の戦略としてふさわしいのか、実利をあげられるのかという話が欲しかったかも。
 1996年という時代的制約があれど、今に通じる論理があるので非常に興味深い本でしたな。続き読もうと思って12月くらいから続き全然読んでないなぁ…。そういえば(^ ^;)。

*1:流石、小川氏自衛隊は本質的には「米」衛隊であるということをよくご存知ですね