てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

ブラックフェイスの話 米英ではタブーでも日本では差別表現に値しない


●ブラックフェイスの話
 ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!の年末スペシャル番組、笑ってはいけないでダウンタウン浜田雅功ことハマちゃんが番組の演出で黒塗りでエディ・マーフィーに扮するということがありました。それについて「ブラックフェイス」は差別であるという抗議が来ました。

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 ブラックフェイスは国によってタブーかどうか異なるようですね。ミンストレルショーの歴史を持つ米国では絶対的なタブーになっていて、英国でもタブーになっている様子。しかし、それ以外の国では米英のような厳しいタブーは存在していないように見えます。もちろん「ブラックフェイス」は差別だからよくないという抗議はあるみたいですが*1

 アメリカでブラックフェイス(非黒人が顔を黒くすること)がタブーになったのは、ミンストレル・ショーという過去のエンターテイメント・見世物に基づくわけですが、何故タブーになったのでしょうか?それはこのショーで、白人が黒塗りをしてジム・クロウというバカで姑息な黒人を演じたから。愚かで低劣な黒人というイメージを形成し、それが奴隷解放後の選挙権剥奪と人種隔離に繋がったという歴史的経緯があるから。
 ―まあ概ねこのような視点からブラックフェイスの問題を語られることが多いかと思います。コレ自体に違和感はなく、それでいいと思っていましたが、Wikiなんかでミンストレル・ショーの歴史をさらっと見た限りでは、本当に黒人差別に大きく貢献したのか?という疑問がなくもないですね…。
 南北戦争で奴隷だった黒人が解放される。その黒人をどう扱うかというテーマがあって、動物扱いをしていた人間以下の存在であった黒人に、自分たち白人と同じ権利を与えたくないという思惑があったと言われると、至極当然の流れのように思えます。そこで今で言うメディアの役割をショー・見世物が担った。興行が利用されて愚かな黒人イメージが植え付けられたといわれると、なるほどねという感じになります。
 しかし、黒人を愚かに&奴隷制度を肯定的にショーで演じながら、実際は北部からきた興行団体ということで南部でも禁止されたとか、黒人も伝統に則って炭を塗って顔を黒くしたとか、黒人が黒人をネタにした事例があったとか見ると、本当に白人が黒人を差別するツールだったからタブーになったのか?という疑問が出てくるんですよね。
 生きていくすべがなく、否応なくショーに従事せざるをえなかった解放された黒人がいたことは無論、生きるために元奴隷である自分達や現奴隷黒人をあざ笑うといった黒人の暗い過去・歴史そのものを消し去りたいのでは?という疑問が湧いてきます。解放された教養ある黒人たちは人種差別的な演目を行う黒人のミンストレル一座に眉をひそめたとか、黒人が我らこそ黒人伝統芸能本流であり、黒人以外にはこなせない!という価値観を打ち出した流れなどを見ると、ショービジネスでの利権云々など他に色んな要素がそこにあるんじゃないかなと思えてきます。

■ブラックフェイスが米英でタブーであることに違和感なし。しかしそれは日本でのタブーであることにはならない
 ミンストレル・ショーやブラックフェイスがそこまで黒人人種差別に貢献したのかどうか、仮にそのような見世物がなくても結果としては大して変わらなかったのではないかなどの疑問については、詳しい歴史的解説をした本でも読まない限りわからないことでしょう。なのでおいといて話を進めますけど、米国において非黒人が顔を黒く塗ることがタブーであるということに何ら異論はありません。そうですか、ではそうすることはよろしくないですねと思うだけです。しかし米英でタブーであるということは日本でタブーであることには繋がらない。それは全く別の話でしょう。
 黒人が傷つくと言われても、「なんで?」としか言いようがない。黒人を差別した歴史的経緯を共有しているわけでもないのに、それを日本においてもタブー化することに何の意味があるのかわからない。そんな事言うのならば、世界中で日本ではこれをやることは許されない。日本人にとってこれはタブーだから日本以外の世界中どこでもダメ。同じく中国人にとってはこれがダメ―と世界であらゆる国や人種・民族に配慮したタブー規制だらけになってしまう。それこそイスラムでは食物禁忌があるから、食べてはいけないものを食べるところを見せるな。我々にとって嫌悪を抱くものを公共の電波に乗せるなという話になってしまう。

■ブラックフェイスの禁止によって黒人の差別解消や地位向上はあるのか?
 人種差別というのは特別な背景を持つ問題であるから、特別な配慮がなされる必要があるというロジックもわかります。しかしブラックフェイスに配慮することが黒人への人種差別や偏見を解消することになるのか?という疑問が当然湧いてきます。ブラックフェイスをタブーとして、禁止することで黒人への人種差別や偏見がなくなるというのならば、日本にとって関係のないことでも前に進めよう・ドンドンやっていこうという意見に反対はしません。むしろ賛成するでしょう。
 しかしどうみてもこの規制でそういう効果は生まれないでしょう。というか、他に黒人の待遇を良くすることや差別をなくすための有効な提言や改善案はいくらでもあると思うんですよね。そんな事やってる場合なの?というのが正直な感想です。そこに戦略性や思想というものを感じられない以上、どうしても差別という名の棍棒を振り回しているように見えてしまうのですね。

■反ブラックフェイス表現で行動するベイ・マクニール氏の主張の誤り
 ※ 「笑ってはいけない」浜田の黒塗りメイクが物議 黒人作家が語った不安 ―非日本人で日本が大好きだというアフリカ系アメリカ人・黒人の人がブラックフェイスやめろというツイートをしたことが今回の騒動のきっかけでした。それについてはこちらのハフィントンポストの記事・リンク先を読めばわかると思います。正直、違和感しかありませんでしたね、彼の主張には。

 まず1つ目の間違いは、ブラックフェイスが世界的に許されない表現だと定着してはいません。米英では許されないという評価が定着しただけです。それを以って、明らかな間違いを犯したと主張したり、テレビ局を叩くのは間違い。
 次におかしいのは、不愉快になるという説明についての掘り下げが足りない。米では白人が黒人を差別する、下に見る・見下すという文脈でブラックフェイスは定着している。タブーになっている。しかし日本やそれ以外の国々で黄色人種や白人がどうしてそうしてはいけないか、具体的な根拠がない。根拠を説明する必要がないと思っている時点でおかしい。氏は人間性を否定された気持ちになると言っているが、日本において非白人が(正確には米英出身の白人以外の人間が)ブラックフェイスをすることがどうして黒人に対する差別表現になるのか説明をしていない。例えば韓国などは黒人差別がひどいという話があります。そのような国ではブラックフェイスが問題になるのも理解できます。しかし日本でも黒人差別がひどいのか?そういう立証・裏付けのデータや具体例をあげないといけないでしょう。

 個人的にどうしてそういうふうに感じるかを想像してみると、とある学校でいじめがあった。どもりぐせがある子がいて、それがイジメのネタになっていた。彼・彼女をいじめるのに、どもり・つっかえのまねをすることがイジメのネタとして定着していたと。それだけではなくその子に対するイジメはひどいものがあった。である時それを知った先生が大激怒して、それを叱って、以後教室ではどもり・つっかえのマネがNG・タブーとなった。もしそれをやったら先生が容赦なく殴るということになったと。その経緯を共有しているクラスのみんなにとっては、以後どもり・つっかえのマネはタブー。ピクッとする・緊張する行為となった。あるいはそういうことをするやつは人間じゃないという価値観が共有されたと。で、クラス替えや進学で中学・高校へと舞台が変わった。そういう新しい環境で前提がリセットされたところ、たまたまそういう経緯を共有しない子が噛んでしまってつっかえてあたふたしてしまった。それがおもしろいと、同じくまた別のそういう経緯を共有しない子が面白がってそれをからかった、真似したりいじったりした。それを見てタブーの価値観を持つ例のクラス出身の子が周囲が驚くくらいブチ切れたと。
 例えるとすると、まあそういう感じなんでしょうね。米で差別を受けた。言うまでもなく差別行為だ。だから日本でもそれは差別だという論理に思えます。そしてそこにはワンステップ論理の飛躍がある。肌が黒いことをいじることや、指摘をしていじることでもなく、黒人の扮装をしたことをもって黒人に対する差別表現であるとするのは無理がある。
 例えであげたブチ切れた子にとっては許すべからず悪逆非道な行為。でも、その事情を知らない人間にとって見れば、なんでそんなことでブチ切れるの…?と理解できないわけです。同じ経験・歴史的経緯を共有しない子にとっては奇異に映る。当たり前ですよね。それがこのマクニール氏には理解できていない。

■重要なのは差別する意図があるか、そういう負の歴史があるか
 3つ目、歴史的背景がないというのは間違いという指摘の間違い。榎本健一やシャネルズやゴスペラーズがブラックフェイスをしてきたという背景がある。また、江戸時代にミンストレル・ショーが催されたことがあるという指摘をしています。それを以って歴史・過去があるからブラックフェイスは許されないのだと述べています。
 「は?」一体何を言っているのでしょうか?そりゃ昔からブラックフェイスというものはあったでしょう。しかしそれは黒人を馬鹿にする意図を以って行われたものではないでしょうに*2榎本健一さんは存じ上げませんけど、シャネルズやゴスペラーズが行ったブラックフェイスというのはリスペクトで行っているもの、黒人が歌っていることがカッコイイからこそ真似をしたわけでむしろ真逆の文脈。それを俺が気に入らない、差別だから止めろというのはおかしいでしょう。
 大体、江戸時代にミンストレル・ショーが行われたからなんだというのでしょうか?一時でも黒人差別に関わることを目にしたのであれば、さも当然のごとく黒人差別対策に血道を上げて取り組んで当然という傲りがそこには感じられます。黒人である氏がそれを差別だと当然に感じるように、我々はそれに何の違和感もないことだと受け止めることなのですから、それをもってして、「さあ、過去がある。実例がある。まだ対策に取り組んでないなんて、おかしい!」なんていう主張を平気でしている方がおかしいでしょう。問題は日本人が黒人を差別してきたか、そういう歴史的経緯があるかどうかでしょう。そういう前提が米と日本では大きく違う。そういう前提の違いを無視してアメリカのように黒塗り表現を禁止するのが当たり前と平気で主張するのはおかしいでしょう。*3
 事例が少ないことからもわかるように、これで「ブラックフェイスがいけないことだよね」となるわけがない。何が問題なの?別に構わないでしょ?という感想を持つ人々が殆でしょう。むしろブラックフェイスがいけないことだと日本社会に納得させるようなまっとうな取り組みをやってこなかったあなた方に問題があるのでは?あなた方サイドの問題ではないの?という感想しかありません。日本社会に根付いて、そういう文化人だったりテレビや新聞の人間と友好な関係を築いて「ああ、ブラックフェイスというのは問題だな」と日本社会全体を説得するような有効な働きかけを怠ってきたことに対する反省はないのでしょうか?署名して、ツイートでつぶやいたくらいで差別がなくなって当然なんていうメンタリティのほうが問題に思えます。

■所与の前提は黒人差別がアウトということであり、ブラックフェイスがアウトになるわけではない
 そもそもなんですけど、この方は「ブラックフェイスは黒人差別であるから禁止して当たり前」という態度で論を進めている。所与の前提として話を進めている時点でもう無理だと思います。そういう態度を取る人のロジックを受け入れられないですよね。所与の前提としてあるのは「黒人差別は許されない・禁止する」なんですよ。ブラックフェイスは所与の前提ではない。ブラックフェイス=黒人差別という前提は日本社会にまだ確立されていない。そこにズレ・論理の破綻がある。そこにこの人は気づいていない。これではこの人の主張が受け入れられて「ブラックフェイスはいけないものだ」という価値観は根付くことはないと思いますね。
 あと、黒人の俳優をそこに入れればいいという主張を見ても「???」になりますよね。笑ってはいけないシリーズのあの場面で、ハマちゃんではなく誰も知らない黒人の人が出て来たらどうなるんでしょうか?「え、あのどちらさんですか?」となって場が凍るでしょうに。そもそも日本のテレビ、ドラマでも演芸でもなんでもいいですけども、そこに「黒人」の役割が求められることというのはあまりないんですよね。身近に「黒人」がいて、彼らとよく生活をともにするという人はごくごく少数派。その少数派のための番組が作られること・可能性は限りなく少ない。そういう日本の事情を理解せずに黒人を使ったらいいでしょうという見当違いの提案をしている点を見て、この人本当に日本に来て日本の文化や価値観を理解しているのかな?と感じざるをえません。
 で、テレビで一週間に3回ブラックフェイスを見た!という話があるのですけど、そんなに多く出てくるものなのですかね?そんなに出てくるとは到底思えないのですけどね。被差別意識が強すぎる故の過剰反応であるような…。まあ最近はテレビを見ていないのでわからないですけど、よくテレビを見ていたときでもブラックフェイスなんてまず見かけませんでしたが…。ブラックフェイスが差別に当たらないとしても、無茶苦茶頻繁にブラックフェイスが出てきているとなれば、それはちょっといかがなものかというロジックは成立してきますからね。いくら日本において黒人が少数派であれど差別表現とされるものが高頻度で出てくるとなれば、無自覚な差別として考えるべきことですからね*4

■日本の価値観を無視した傲慢な主張・論理展開
 そもそもなんですけど、日本の価値観というものがあり、その日本の価値観・感覚から言うと、こういうふうになる。そして「アメリカでは~」や「黒人の差別の歴史では~」ということになる。しかしこの人はそういう日本の価値観とか文化とかそういう視点がまったくない。「彼らは子供なのだ」という文を見ても、米欧の価値観から考えて日本の価値観・社会を程度の低いものと見下しているとみなされてもおかしくはないでしょうね。
 個人的にはブラックフェイスというものをやめたほうがいい、配慮したほうがいいとは思いますけども、こういう主張・論旨展開をする人間がいるならばブラックフェイスは差別表現に値しないと明確に否定したほうがいいと思います。米英の価値観を振りかざしているところから見ても、黒人ではなく「アメリカ系黒人」の主張でしかないように思えるんですよね。それこそアフリカの黒人やアラブ圏・欧州圏・中南米圏、色んな文化圏の黒人の意見を聞いてみたいですよね。アメリカの差別意識を主張しているだけで、それこそアメリカ以外の世界の黒人の視点・感覚を無視しているのではないかという疑問もあります。アメリカの黒人をさも黒人代表の如く主張しているというオチになりそうな気もしますしね。下手すれば勝手に黒人代表になっているということもあるでしょう*5

■日本社会の価値観を理解しない抗議は逆効果、子供の如き幼稚な行為
 まあ、そう目くじらたてずにそれこそ「この人は子供なのだ」とスルーすべきと言われればそうなのでしょうけどね。それこそユダヤ系団体が日本におけるナチス団体・反ユダヤ団体への抗議など昔ありましたが、そのようにひっきりなしに差別への抗議というものはなされる。どんな小さいことでもガンガンやっていくべきなのだというのが世界的な常識・感覚ですからね。間違ってもそこに「恥」などという感覚はない。間違えたとしても「いっけなーいまっちがえちゃった~。テヘペロ」くらいの感じですからね。日本人・日本文化の価値観だとこういう非難はかなり意味合いが重い。丁寧にやらないとおかしな人間・痛い人間としてカテゴリされかねない危険な行為なんですよね。それこそ今ネトウヨ界隈では中国人や韓国・朝鮮人がおかしな人間、ほぼ非人としてカテゴリ分けされているように、人間にあらず扱いされてしまう。まあネトウヨは少数派なんでいいとしても、ネトウヨほどではないにせよ、中国人や半島の人間をおかしな人間として分類分けしている人はもう珍しくなくなっていますからね。
 そういう背景を考えれば、このような文ではなく、日本を持ち上げて、うまく心をくすぐるような文章を書いて、日本の価値観・背景はわかるんですけども、どうかブラックフェイスはやめていただけないでしょうか?というふうに下から下から話を進めていくような書き方をするはずなんですけどね。黒人の地位向上に日本が大きく貢献した。あの戦争で米欧と戦ってくれなかったら今の黒人の地位はなかったとか、べた褒めしてそのような我々の恩人である日本人にそんな傷つくことをしてほしくないのだとか。それこそもっと上手くもっていくやり方があるでしょう。それこそ日本文化・価値観を理解せずになにしに日本来たんだっていう話になるんですけどね。下手したら「うるせーバーカ、じゃあアメリカ帰れよ」という反発を招いて終わってしまいますからね。
 この前書いた貴乃花親方じゃないですけど、相手を理解する精神がない。相手不在で自己主張・自己のロジックだけ展開してもダメですよね。そこに相手を理解してお互い妥協して合意を形成する、着地点を見出す精神がないと。

■意図せずしてブラックフェイスは姿を消すだろう。消すだろうが同時にテレビから黒人も消えるリスクを高めた
 まあ、だからといって、マクニール氏が米英的価値観から日本を見下しているから、ブラックフェイスやるぞ!ブラックフェイス祭りじゃぁ!と全テレビ局がその日一日限りで、みんなブラックフェイスで番組をやるということにはならないとは思いますが(笑)。こち亀40周年記念の両さんだらけみたいなことをやったら面白いと一瞬思いましたが、まあそんなこと起こるわけもないので。今回の事件で間違いなくブラックフェイスというのはなくなるでしょう。それは差別云々に敏感なテレビ局が差別と言われてめんどくさくなるようなことを放送するわけ無いですからね。
 まあ表現がどうこう以上に、今年もガキ使の笑ってはいけないは面白くなかったということのほうが問題だと思うんですけどね。テンプレパターン化に、モノマネのご本人登場みたいに大物有名人を連れてくるだけになって本当つまらないですからね。面白いという話題になるのではなく、こういうことで話題になるというのが象徴的ですよね。今一度書いておきますけど、エディ・マーフィーの仮装で黒人や肌の色を笑い者にしようという意図・背景はどこにもない。あれをもってして黒人差別だというのは無理がある。

 白人以外でもブラックフェイスはダメ。わかりにくいから黒人差別をしてこなかった文化圏にしましょうか、そういう文化圏でさえも黒人を形容するブラックフェイスをしてはダメなのか?その問いはおいといて、ブラックフェイスを禁止にした場合、待っているのは間違いなく日本の芸能界における黒人芸能人の衰退・消失でしょう。彼らの出番は間違いなく減ると思うんですけどね…。
 「黒人差別表現」がTVから、社会から消えた。しかしそういう表現を恐れるがあまり、黒人芸能人が扱いづらくなって取り扱われなくなる。とすると、却って現在のショービジネスで活躍を目指している黒人にとってはマイナスだと思うんですけどね。
 今でもそんなに黒人芸能人というのはいないかと思います。しかし芸人だったり、外国人が日本の歌を歌うというような番組でたまに出番がある。最近ようやく彼らがテレビに進出するというルートが開かれたのに、彼らの道を閉ざすきっかけになりかねないと思うんですよね。
 黒人を使うとその演出・表現にクレームが来る。放送直前に急遽流せなくなったら…。放送後クレームが来てその処理・対応をしなくてはいけないとなったら…。そこにプライドを持って番組を作っている人間は少なくて、「じゃあめんどくさいからはじめから使うのをやめよう」という魂なきテレビ制作者・専門家が殆。黒人は日本社会においてスポーツくらいしか道がなかった*6。日本においてせっかく開かれた、ようやく開いたショービジネスへの扉を閉ざすことになりかねない。そういう懸念や警鐘を鳴らす人がいないのは疑問ですよね。特に今そういう道を進んでいる黒人芸能人はいち早くそういうことを表明しないとまずいと思うんですけどね。また当然そういうことになると、それに伴って黒人=芸能力がないというレッテル張りに繋がっていくことになる。そちらの方がよほど怖いと思うのですけどね…。

 もう一つそもそも論を付け加えて終わりたいのですが、差別だから配慮されて当たり前という価値観は危ういですよね。それ自体が間違っているとは思いませんけど、今の世の中というか国際社会というのはそんな甘いものではない。理想やかくあるべしという当為が成立する世の中ではない。実力の裏付けがない正義の主張は無意味。日本社会で実力を持つ、確固たる地位を築いたわけでもないのに、特別な配慮を訴えても聞き入れられるはずもない。
 黒人の地位向上を達成するために、きちんとした手段・過程を整備しないと、黒人の地位向上がなされることはないでしょう。そういう事を考えずにブラックフェイス止めろというのは酔っ払いの憂さ晴らしにしか思えません。黒人事情に詳しいわけではありませんから自信を持って言えないのですが、黒人というものの地位が世界的に高いわけではない。彼らの中で高い階層にある人達はほんの一握りでしょう。そういう不公平な状態を改善することこそ、黒人にとって最優先課題のはず。そのために努力すべきなのに、どうでもいいブラックフェイスなんかでタブーを増やして、最悪反感を買って地位向上に繋がるどころか逆効果を招くことになる。そうなったらどうするんでしょうか?というかそんな危険なことをやってどうするんでしょうか?ほかにやるべきことがあるでしょうにというのが今回の騒動で思った感想ですね。

*1:※参照事例―顔の「黒塗り」は差別か自由か…仏で仮装パレードめぐり論争 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

*2:重要なのは「語源」ではなく「歴史的経緯と記憶」。呉智英氏は「英語のChinaも日本語のシナも語源は同じ。そこに差別的なものはないのに、何で日本語のシナが差別になるんだ」と主張していたが、これは誤り。語源が同じでも後の歴史的経緯とそれによって刻まれた記憶が違う。シナは当初差別的な意図が込められた言葉ではなかった。しかし時が経つにつれそのように使用されていった。侮蔑的なニュアンスが込められて使用されて広がっていった。だからこそ問題となる―というツイートを見かけましたけど、そのとおりでしょうね。侮蔑する言葉としてもっといい言葉がいくらでもあったでしょうに、なんで「シナ」「シナ人」が代表的なそれになったのかというのは気になるところですね。まあ、いずれにせよ、日本社会・文化において日本人が行うブラックフェイスに差別的背景も意図もそこにはないというのがポイントですね。

*3:例えばダルビッシュに対してグリエルがアジア人差別である釣り眼のポーズをやって問題になったことがありましたが、それをもってして日本でも禁止とはならないでしょう。釣り眼をやるなんてけしからん!許せん!とはならないでしょう。へえ、アメリカではそうなんだ。バカだなぁ、気持ち悪いなアメリカってと思っておしまい。何らかの番組で目を釣るようなシーンが出てきたので差別だ!抗議だ!とは普通ならない。そういう違いが日米にはある。そういう風土の違いを認識せずに一足飛びに差別表現だから止めろと言っても通じるわけがないですね

*4:次の記事の追記で記事を貼って言及したのですが、そのリンク先にガングロ文化の話がありました。あれは黒人へのリスペクトの意味が込められているという人もいるけども根本的には無関係で顔を黒くすることで他者との差別化を図っているという話がありましたが、まあそのとおりでしょうね。多分ブラックフェイスを何度も見たというのはそういう渋谷あたりのガングロファッションのことかと思います。街頭インタビューみたいなのでそういう人がピックアップされることを言ってると類推します。まあガングロファッションとブラックフェイスが全く異質なものであるのは言うまでもなく、やっぱりそもそも日本文化への理解や尊敬が根本的にないということなのでしょう。また、昔ブリ照りなんちゃらさんというガングロファッションで有名だったギャル社長?だとかなんとかいう人がいたかと思いますが、ああいうガングロファッションをしている人たちを今後テレビ業界から排除せよと主張するのでしょうか?全く黒人差別と関係ない国・文化圏において一定のファッションをしている人間をメディアの世界から追い出せというのならば、個人的には到底その姿勢を容認することは出来ませんね。※追記、どうでもいい話ですが、ナスDさんという方がいたのを思い出しました。それが念頭にあったかもしれませんね

*5:そういえばパックンという米出身の芸人さんも偽善と言われても傷つく人がいる以上配慮したほうがいいという主張をしていました。彼が米出身でなければ話は変わったんですけど、米出身ですからね。アメリカではアウトという価値観を持った人間がそれを言うのはどうなんだろうとなりますからね。アメリカ系黒人にだけ特別に配慮せよと言われても…うーんという感じになりますね

*6:詳しくないのでそういうイメージしかありません。もしかしたら他に色々あるかも?

今月の漫画ネタ(2018/02) サンデー新体制の改革は失敗・ピント外れではないかという話

 相撲の話は書き飽きたので、最後の記事書く前に違う話をば。久々のアニメ・漫画ネタを少々書きたいと思います。昔ココ↓でちょっと触れた漫画が描けなくなるという話ですね。

 大家が画をかけなくなるという話をするつもりがいつの間にかサンデーの話、新体制批判になってきたのでその話にシフトチェンジしました(^ ^;)。まあまたいつか、そんな話をしたいと思います。今回はサンデーの話で。高橋留美子先生の画が狂いだしているという話から、何故かサンデーの話になって、サンデーネタで筆が乗って止まらなくなったので。※敬称がなかったり、~氏とか~先生とか表記が安定しないのは許してつかあさい。

名探偵コナン最終章?
 サンデーでは、今回連載が終わった高橋留美子先生と並んで20年以上も長期に渡って『名探偵コナン』を連載をし続けている青山剛昌氏がいます。コナンは累計1億5000万部、これまでさんざん話を引っ張ってきて終わらなかった黒の組織の話も、とうとう組織のボス「あのお方」の名前が出て来ました。そろそろ最終章・最終回が近いのでは?と誰もが思う所ですが、果たして今のサンデーの状況を考えて、高橋留美子と並ぶビッグネームの青山剛昌=『名探偵コナン』の連載を終わらせることが出来るのでしょうか?
 映画の興行収入も新作が出る度に記録が更新されるというヒット振り、サンデーに残された唯一のドル箱と言えるでしょう。マガジンで言えば『はじめの一歩』であり、ジャンプで言えば『ワンピース』に値すると言える看板マンガ。これ以上グダグダやって作品の完成度を落とすのが怖いとは言え、会社の経営上そうすんなり終わらせる事が出来るのでしょうか?作者が病気療養のため休載に入ったというのも気になるところでしょうが、早く何とか雑誌の看板になる次の作品を打ち出さないと雑誌の存続自体が危ぶまれる事態に陥りそうで怖いですね。

双亡亭壊すべし
 サンデーついでに個人的にファンである藤田和日郎御大及び、その新作び『双亡亭壊すべし(そうぼうてい)』*1の話を。『うしおととら』『からくりサーカス』『月光条例』と、名作を描き続けているわけですが、この話はどうなんでしょうかね?正直わかりづらい。妖怪・機械(自動人形)・昔話のキャラクターと、これまでは敵がわかりやすかった。絵としてパッと見でキャラクターがわかる・怖さや強さというものが伝わった。闘う敵やストーリーがわかり易かったわけですが、今回のテーマや世界感だと「精神的な怖さ」になるので伝わりにくいんじゃないかなと思いましたね。少年誌の読者層・ターゲーットを考えると尚更。うしとらやからくりのように伏線を張り巡らせて回収するタイプの作品でもないので、そうそうwktkするような話の盛り上がりが出てこないのでは?と思いました。
 それはそれとして、坂巻泥努がラスボスで良いと思うのですが、彼の目のつり目具合やボディバランスが非常に気になりました。ラスボスのキャラということを考えてそういう描き方をしているだけなら良いのですが、正直違和感がありすぎる。正常なバランス範囲を逸脱しているように思えました。ああいう目だったり体格を描いてもいいという感覚の延長に待っているのは、わかりやすく言うと作画崩壊。違和感満載の作品として成立しないマンガ・画が壊れたマンガに繋がると思います。今回語ろうとしていた「画が描けなくなっている大家」になりかねない危険な徴候だと感じました。個人的に大ファンなのでそうであってほしくないと願っています。藤田御大もうしおととらから30年近く経つわけで、いつ「画がかけなくなった大家」になってもおかしくありませんからね。

●サンデーのヒット作一覧を見ると…
 サンデーの売り上げの話は以前書きましたが、サンデーの長期連載・ヒット作って意外と売り上げが良くないんですね。3000万部以上の大ヒット作は『うしおととら』、『今日から俺は』『うる星やつら』と昔のものばかり、『MAJOR』や『犬夜叉』が割と最近くらいであとは『H2』や『タッチ』くらいなんですね、そのラインを超えた大ヒット作品は。『ハヤテのごとく!』が2000万部くらいで、『金色のガッシュベル!!』や『マギ』もそのライン。個人的に気に入っていた『史上最強の弟子ケンイチ』や『銀の匙』も1000万を越したくらいだったんですね。*2

●ジャンプとサンデーのブランド力
 累計発行部数を見るとやはりジャンプ系が多いのですが、『地獄先生ぬーべー』とか『ろくでなしBLUES』とか、『ダイの大冒険』とかたしかに面白い作品でしたし、読んでもいたんですけど、果たしてそこまで売れる程の作品だろうか?という疑問があります。もちろん最近の漫画は電子書籍の分の発行部数がカウントされていないとか景気の問題で売り上げ自体が伸びなくなっているというのが大きいのでしょうけどね。これらの大ヒット・メガヒットの背景には本質的にジャンプブランドというものが背景にあるといえると考えます。
 少年ジャンプは「ブランド化」に成功している。いかに今面白くないという声が大きくなったとしても、殆どの人は週刊少年誌ならジャンプを読む。たとえば、暇つぶしで立ち寄ったコンビニで立ち読みをする時、また出張先・出先で暇になって、駅の売店で缶コーヒーとタバコついでになんか雑誌でも買って読もうかな~。何故か週刊少年誌しかおいてないとして、じゃあ久しぶりにどれか読もうかな~となったとしたら、殆どの人はジャンプを選択するでしょう。漫画雑誌と言えば、面白い作品が載っていると言えばジャンプというブランド価値がある。人目につきやすく、話題になりやすい。故に売り上げも大きく伸びやすい。逆に言うとサンデーはそのブランド化に失敗しているわけですね。

 マンガを色々読んで買いまくっていた時代、少年ジャンプかどうかは置いといてジャンプ系はやはり多かった。サンデー系はからくり以外なかったですね。まあ、以前書いたのですけどジャンプやマガジンはヤングマガジンなどのヤング系だったり月刊云々で他の媒体があって幅広いわけですね。サンデーはそれがない*3。少年誌単発だったり、作家が大家ばかりで新人を積極的に採用していない=育成戦略の欠如。世代交代の失敗というものが大きいですよね。○○先生の大ファンというコアな層は変わらず買い続けてくれるでしょうけど、それは作家・漫画家のブランド価値であって雑誌のブランド価値ではない。下手したらその人のコミックスしか買わなくなってしまう。
 アニメを見てて面白いなと思った『境界のRINNE*4もマンガでは売れなかった。『からくりサーカス』も累計発行部数がググっても出てこなかったので、おそらくケンイチや銀の匙のライン・1000万部の大台は突破できなかったんでしょうね…。あんなに面白い大作が売れなかったとは…。もし『からくりサーカス』がジャンプやマガジンで連載されていたとしたらどうなっていたのか?そう思わずにはいられない現象ですね…。

 ※追記、今週のサンデー*5に、からくりのアニメ化の発表と累計発行部数1500万部ということが書いてありました。ググっても発行部数出てこなかったので売れてなかったと思いましたが、最近のサンデーの中でもベスト3に入るヒットをしていたんですね。良かった良かった。しかし、雑誌やコミックスの売り上げを考えたらヒットしている最中にアニメ化せな…。うしとらのときもそうでしたけど、何故今頃アニメ化?

●売るためにギャグ・エロ・王道バトルモノをいれるべし
 ジャンプ・マガジン・サンデーで言ったら、間違いなくサンデーが一番面白い。しかし個人的にいくらオモシロイと感じても売れなければ雑誌の存続が危ない。前々から言っているように売るためには、ギャグ漫画、エロ枠、そして何より王道バトルモノが足りない。これをなんとかしないとダメでしょう。ラブコメみたいなものが主体で、純粋なギャグが少なすぎる。
 最近、フェミ団体?からクレームが付いたジャンプの『ゆらぎ荘の幽奈さん』のように、ToLOVEる枠として少年誌でギリギリ許される範囲でのエロ描写をガンガン入れてくる漫画を一本は入れておくべきでしょう。『天野めぐみはスキだらけ!』では正直弱い。エロやお下劣という理由で親が読ませてくれないとか、そういう声を気にしている場合ではないと思います。
 『保安官エヴァンスの嘘』のようなギャグ漫画はありますけど、どうも純粋のギャグマンガとは違う。モテたいからモテようと努力しているけど、空回りするというテーマで変則的。やっぱりラブコメ要素が入ってきている。『だがしかし』も『古見さんは、コミュ症です。』もそうですね。ラブコメギャグとでもいうか、必ずそういうラブコメ要素が入ってくる。いぬまるだしっを描いていた人が『トマトイプーのリコピン』という新連載を始めましたが、ああいう純粋にギャグだけで勝負するマンガがないといけない。ラブコメこそサンデーの保守本流・メインストリームというのはわかりますが、そればっかりはまずい。それぞれ一枠でいいですから、売り上げ目的で設けるべきでしょう。

●ファンタジー要素よりもバトル要素を増やすべき
 何より、王道。王道バトルモノがない。ジャンプは王道バトルモノが多すぎですけども、じゃあどうして王道バトルモノばっかなのかと言われたら、それが一番売れるからですよね。『サイケまたしても』くらいですかね、それっぽい作品は。マギもバトルモノと言えばそうなんでしょうけど、どちらかというとファンタジー要素が強いと感じるんですよね、サンデー系のものは全て。八木教広氏の新連載『蒼穹のアリアドネ』とかもそうですし、『アラタカンガタリ~革神語~*6でもそう。バトルというよりファンタジーなんですよね。馬鹿みたいにナニも考えずにボカスカ殴り合う・やりあうバトルモノが少ない。特にナニも考えずに頭を使わずにやたらめったら爆発するアクション映画のようなものが見られないんですよね。『サイケまたしても』も、蘇り・タイムリープ云々でスッキリ見れるという感じはしませんし

●ジャンプ系の八木教広氏の連載は起爆剤になるか?
 八木教広氏といえば、最近では『CLAYMORE』そして『エンジェル伝説』というギャグバトルモノと言うべきか、そういう傑作を続けている人です。個人的に好きな漫画家で全巻揃えているんですが、今回の新連載ではCLAYMOREよりのファンタジーであるというのがどうなのか?正直その枠はもう一杯、間に合っているはず。二作続けてファンタジーだと、前作のCLAYMOREと比較されてしまってツラい気がするんですよね…。エンジェル伝説よりのギャグバトルを描いてほしかったと思いますね、サンデー的に。まあCLAYMOREがヒットしたので、その層を呼び込もうというのも戦略的にアリなんですけどね。
 売るためには鳥山明冨樫義博とまでは言わずとも、異世界描写・バトルアクション表現が巧い漫画家がほしい。氏はそこまで異世界描写やアクション表現がうまいわけではない。アニメ化してクレア達のバトルアクションがすごい綺麗で魅せられて原作単行本入りましたからね。もしアニメなかったら多分そこまでハマらなかったと思います。今のところは、空飛んで闘うだけ、立体機動装置?とでも言うような感じで、ココからどうなっていくのかイマイチ食いつくところがわからない展開です。*7
 サンデーの連載は最初は「おっ!面白そう」と導入で食いつかせておきながら、その後の展開がグズグズになって終わる。話の山がないままダラダラ進むというパターンが多いのでちょっと心配ですね。八木教広氏はストーリー作るのが上手いので大丈夫だとは思いますが。

松江名俊氏・安西信行氏の新連載がサンデーに足りないボトル枠を埋めてくれるか?
 『結界師』・『烈火の炎』のようなバトルモノがほしいですね。なので、ケンイチの人の新連載のスパイ・エージェントモノはその枠にちゃんとはまるかどうかサンデーの次のポイントになりますね。安西信行氏も『麗の世界で有栖川』という新連載を開始したようでそこにはまるかどうか、サンデー的には重要なポイントでしょう。ただ、コメディ要素多めとサンデーのサイトで紹介されているのを見るとどうなのか…。ほしいのはコメディではないですよね…。バトルかギャグが欲しい。バトルモノで実績がある人だから声をかけているはずなのに大丈夫なんでしょうか…?安西氏が病気療養で復活で、ファンが食いつくというのはあるでしょうけどね。
 一度ヒットした作家を久しぶりに連載させて食いつかせるという戦略はもう限界だと思います。まあ戦略というか戦術レベルですよね。新連載が続けて当たっているのはタッチのあだち充氏と高橋留美子氏くらいで、次の新連載も大当たりするヒットメーカーはサンデーでは他にいない松江名俊氏も満田拓也氏もヒット後の新連載はコケた。満田先生は雑誌の売上的なこともあって、『MAJOR2nd』を始めました。松江名先生も今回の新連載がコケたら、ケンイチの続編を描かせるのでしょうか?サンデーを盛り上げるために、本来のプランから縮めて連載を終了させて、『トキワ来たれり!!』を開始したとインタビューで語っていましたが、この新連載がケンイチ以上に面白くなければ逆効果なのに、何考えていたんでしょうね?当時の編集は。

●サンデーでヒット作の次の作品も成功したのは青山剛昌あだち充高橋留美子くらいで失敗事例が殆ど
 西森博之氏も『今日から俺は』以後は『天使な小生意気』を描いたものの、大ヒット作には出来なかった。藤田御大も一緒。うしとらクラスのメガヒットはそうそう描けない。『神のみぞ知るセカイ』の若木先生もその後の連載では苦戦。そういう傾向を考えたら、連載を続けながら、新連載をどういうものにするかじっくり話し合って幾つかアイディアを出しながら、「これならいける!これでいこう!」と太鼓判を押せる状態になってからでよかったでしょう。トキワは最初の読み切りの設定が面白いなと思わせただけで、以後は何やってるのか・何が起こっているのかさっぱりわからなかった。どうしてあれがイケると判断したのか正直、首を傾げるレベル。前にも書いたと思うのですけど、ストーリーの起承転結の「起」や「承」辺りで終わる作品があまりにも多すぎますね。ハヤテの畑健二郎先生もハヤテと並行してロボットモノ?みたいなものをやっていましたが、コンセプト意味不明でかなり迷走していました。サンデー編集にヒット後の次の連載を成功させる能力が異常なまでに低いことを考えるとヒット中の作品を出来るだけ引き伸ばすのは妥当でしょう(もちろんこれは本来好ましくない悪循環サイクル以外の何物でもありませんが)。
 『柊様は自分を探している。』も正直何がしたいのかさっぱりわからなかったです。『鋼鉄の華っ柱』は金持ちの坊っちゃんが落ちぶれてもそこから再び成り上がろうとするというわかりやすいメインコンセプトでしたが、この作品は何がどうなるのかわけがわかりませんでした。『隕石少女』というのも最初の人間が機械化して降ってくるという設定だけで、その後はなんと言って良いものか本当に困る。ホラー枠なのでしょうけど、ホラーを成立させる恐怖を煽る画力がないから魅力がありませんし、展開にまるでついていけない。少しづつ謎が解き明かされていくにつれ、読み手が前のめりになるようなものが何もない。何よりも以前*8なんでこの漫画を連載させたの?と指摘したように肝心の人物の表情が描けない作家。キャラクターの感情・喜怒哀楽を表現するという基本ができていない。そういうレベルのマンガを何故連載させたのか?育成枠というのならそれで良いのでしょうけど、どこに将来性・キラリと光るものを感じて育ててみたい!と言うものがあったのでしょうか?わからないですねぇ…。

天翔のクアドラブルへのダメ出し天翔のクアドラブル
 天翔のクアドラブル―三ヶ月くらい前にこの作品についてブログで触れて書いてみたいと思っていて忘れていましたが、この漫画個人的に結構好きだったんですよね。しっかし、サンデーは○○の[カタカナ]というタイプのタイトル多いですね(笑)。それはさておき、絵柄が少し古いかな?と思うものの、キャラの表情・世界感や舞台設定が個人的に好きだった。しかし、これはダメだろうなぁと思っていました。
 ①キャラの描き分けがイマイチ出来ていない。主人公とその友達のキャラの違いがわからない。(↑だとカラーなので一目瞭然なんですけどね。サンデーで読んでいた時は、誰が誰かイマイチわかりませんでした)
 ②初期設定、歴史・史実をベースにファンタジーを混ぜるのはグッド。この時代を背景にしたのが個人的に好きだったが、話に山がない。少年忍びが悪魔を退治しながらヨーロッパに到達するというのに、それぞれ世界各地の悪役・ボス設定がイマイチ。日本→中国→東南アジア→…とでもいったようなルートから世界各地を周り、それぞれボスを倒していくという冒険なのに、各地の魅力が描かれていない。そこで宝物・アイテムを手に入れたり、新しい仲間とかの出会いだったり、それぞれの舞台が忘れようのない大事なキーポイントになっていない。ワンピースなんかどの島で何があったかというストーリーをすぐ思い返せますよね、キーになる転換点やインパクトある出来事で記憶付けられていますから。
 ③話の描き方として、ヤマがないだけでなく、マンガとしてもヤマがない。育ての母親が実は悪役でその母に子が殺されるという話で、「母が子を殺す」という衝撃のシーンが話の山場になるはずなのに、そこに焦点が当たっていない。そのシーン・コマに焦点を当てて読み手側に衝撃を与えて食いつかせるパターンなのに、サラッと話が進んでしまっている。ガチンコという古いテレビ番組じゃないですけど、「このあと衝撃の展開が!!」と煽って視聴者を釘付けにするやりかたをしていました。そういう古い手法を採用せよとは言いませんけど、そういうふうに食いつかせようという工夫が根本的にない。なさすぎる。何だったかもう忘れましたが、異形の化け物・ボスがババーーンと登場するシーンがあったのに、その衝撃の登場シーンのコマ割り・アングルが全然インパクトのないものだった。当たり前のようにモノマネご本人登場のように予定調和で出てきてしまったら、何の意味もない。
 手品やマジックだって、ただそれをやるということはない。ココで物や人を消せば観客がエエっ!!と驚いてくれるとしても、その興奮やびっくり・感動を最大限に高めるためにどうするかと見せ方を考えるもの。そういう工夫がまるでないんですよね。読者・読み手側の興奮・興味を駆り立てる・インパクトを与えるという視点がまるでない。面白い作品というのはそういう読み手の興味を駆り立てる、興奮させる仕掛けが上手いんですよね。そういう仕掛けがいたるところに散りばめられているもの。そういうものを身につけないとこういう起承転結のないマンガが続いてしまうんでしょうね、サンデーは。

●新人育成方法の抜本的転換をすべき
 こういう手法のノウハウだったり、バトルモノ・ギャグモノ・エロ&ToLOVEるモノのノウハウ手法が乏しいのであれば外から採ってこないといけないですよね。ジャンプでもマガジンでもそういうことに巧みな敏腕編集を外から引っこ抜いてくる。で、編集が中堅漫画家を引き抜いてくれればベストですよね。まあそうそう出来ないでしょうから、それこそ数年後の連載を約束して、幽遊白書・今はハンターハンターの冨樫さんのような大家のアシスタントとして送り込んで修行をさせてみるとか新人育成システムを根本的に変えないといけない。
 編集が変わったというのが大きな話題になりましたけども、根本的な問題に手がつけられていないのではないでしょうか?藤田・西森・久米田諸先生にサンデー戻ってきてほしいという発言がありましたが、サンデーでは大家がもう一度大ヒットを作れる可能性が限りなく低いことを考えると、正直どうなのかと思いますよね。何回もヒットさせたあだち充氏や高橋留美子氏を見てもわかるように、ナンバーワンヒット作のコナンを見てもわかるように、何度もヒットしている大家の作品はラブコメなんですよね(あだち充氏はスポ根&ラブコメですが)。ということは雑誌を立て直す大ヒットには繋がる可能性は低い。優先順位は高くないというと語弊がありますが、最優先事項ではない。何度も書きましたけど、個人的に藤田先生のファンですけどサンデー的には大家を呼び戻すことは最重要ポイントではないはずなんですよね。作家を大切にするというサンデーの信用性・信頼性という観点から言うと大事なんでしょうけどね。

 あとは、仮面ライダー戦略みたいに、子供が見ているのを親が「ああ、まだやってるんだ。自分も子供の頃見ていたな~」と懐かしさあまりに子供と一緒に見て、親世代を取り込むという戦略。大家を呼び戻して、懐かしむお父さん・お母さんが読んで、親経由で子供を取り込むというやり方。ありっちゃありですけども、テレビと違って雑誌を買うというハードルが高いので、それこそアニメの版権買い取ってYoutube・ニコニコ・アベマなどで見放題とかやらないとあんまり効果ないと思いますね。

政権交代から3年目で目立った成果はあがったのか…?
 2015年8月に新編集体制となってから今年の8月が来れば、もう丸3年経過。今改革政権3年目を迎えているわけですね。その新編集体制となってから新連載が一本も当たっていない。個人的に好きな作品・面白い作品は何本かありますけど、それじゃあダメなはず。サンデーという本丸を守るための大改革・改革政権なわけなんですから。
 少年漫画はこういうものという枠、固定観念・先入観が良くないということをインタビューで語っていましたが*9、これまでにない新しいものを作り出すというチャレンジ精神は大事でしょうが、これまで売れてきているセオリーを無視するのはいかがなものかと感じます。バトル・ギャグ・エロ、そして最近大ヒットした進撃の巨人にあるようなホラー要素。グロと言ってもいいですが、そういうものが足りない。スポーツものが一貫して減っていて今野球とサッカーだけというバランスも気になりますね…。『第九の波濤』、水産大学のキャンパスライフを描くって少年誌でやることじゃないでしょう。モーニングとかイブニングのような雑誌で連載されるタイプの作品を少年誌でやってどうするんでしょうか…?どういう意図でこの連載にGOサインを出したのでしょうか…?*10
 また個人的に試みとしてオモシロイと思った『あおざくら』という自衛隊のマンガでもそうです。ニッチなものをやるならやるで、それこそ自衛隊のあれこれを特集コーナーなどで細かく紹介して、軍事好きな人がサンデーにハマるきっかけにする。呼び水にするなどの工夫・仕掛けを作るべきでしょう。そういう編集サイドの努力などもないですし…。うーん。『RYOKO』だったか、女子高生が日本刀振り回して食材と戦って、勝ったあとそれを食べるという意味不明なストーリーもどういう層をターゲットとしているのかさっぱりわからなかったですし…。

●災い転じて福となす―身内の不祥事を逆に利用せよ
 ジャンプはもちろん、モーニングやチャンピオンなどで有名漫画家の実録話みたいなマンガをやっていました。サンデーは今雑誌存続の危機!みたいなことで話題になっているのですから、実録サンデーは何故落ちぶれたのか!みたいな編集部の過去の悪行を暴露するようなマンガを描いたり、巻末にあったインタビューではなくガッツリあだち充高橋留美子などの実録漫画を描けばいいと思います。さらに『バクマン』のように「これってサンデーのあの事件だよな…、あの先生のことだよな…」と話題になるような作品を連載されればインパクトあるし、話題になるでしょう。編集者と漫画家の対立を描いちゃえばいいでしょう。で、このようなことはもう起こらないように対策を取ったと作品内で描けば透明性と再生のPRに出来ますしね。「バクマンの二番煎じ」をどうしてやらないのでしょうか?
 あとは、『こち亀』の連載が終わって、こち亀ロスと言うようなものもあると言えばある。それをあざとく狙って、こち亀タイプの二番煎じを作ろうとするのも良い。とにかく、売るための工夫が出来ないならパクりまくるしかない。直球で言うとサンデー編集部よとにかくあざとくヒット作をパクれ!幽遊白書?ワンピースのパクリ?そんなの気にしないで良し。両津勘吉のように「真似したのは向こう。先に始めたのはこちら。こっちがオリジナル」の精神で良いんです。

●まずはギャグ漫画枠からバトルモノを描ける新人を育成すべし&作画分業制の導入をすべし
 新人の育成に参考になるのはやはりジャンプシステムでしょう。作品のクオリティは落ちるとしても売らなきゃ話にならないのですから、テンプレ・石鹸枠・俺TUEEEE、ハイハイまたハーレムね。など何と言われようともあざとく売れる作品を狙っていくべきでしょう。
 前述通り、ジャンプ黄金時代を支えた鳥山明冨樫義博氏は異常にマンガがうまかった。バトルアクション表現が古典といえるほど洗練されていた。ああいう表現に巧みな作家を育てないといけない。マンガを読むのは小説を読むのではない、画の上手さ・何よりマンガ表現の巧さが大事。ストーリーは二の次三の次で、どうでもいい、別にストーリーづくりの上手い人と組ませれば良いわけですから。バクマンなんかでもそうでしたよね。今この時代に至って、サンデーで作画別々のマンガで大ヒットした漫画といえば?と言われたときにパッと思いつかないのは相当問題ですよね。少年マガジンなんかもう十年以上前から、作画分業制で、分けるスタイルが主流になってますよね。そういう方面から全然攻めていないのは正直疑問ですね。
 で、鳥山明冨樫義博に並ぶ存在が早々出てくるとは思えませんけども、彼らの経歴を参考にして、まずギャグ漫画の普通のストーリーモノよりも少ない15・16ページから連載させる(冨樫さんはラブコメスタートですけどね)。んで週刊連載の感覚がつかめてある程度して連載が終わった後に、本格的にバトルモノに移行する。そのまま軌道に乗ったらページを増やしてもいいし。画がうまい分普通のストーリーマンガの量を描くのが難しいとなれば隔週だったり、ギャグ漫画枠のページ枚数でも良い。とにかくバトル漫画表現が巧い描き手の育成をすべき。
 マンガ・画がうまい描き手というのはベルセルクの三浦さんなんかがそうですが、描き込みがすごい。上手い・下手はともかく、時間あげるから・無制限の条件で描いてみてと指示を出したときにいくらでもむちゃくちゃ描き込める人を選ぶというのも一つの手でしょうね。まあ、これは週刊連載では無理なので月刊枠で育てるタイプといえますが。

●作品の質は高くなくともパワーインフレ路線は誰でも楽しめる王道
 アベマで何回も幽遊白書やってますけど、パワーインフレ路線から、能力者路線へ一時期シフトしたんですよね。結局すぐまたパワーインフレバトル路線へ戻って、本来やりたかった探偵モノというべきか、ほんわかハートフルストーリー的な序盤の路線に回帰してそのまま連載終了したという流れがありました。
 冨樫氏のハンターハンターは言うまでもなく大ヒット作で、今のほうが面白いし作品の完成度・クオリティが遥かに高い。幽遊白書がバトルモノとしてはじめからスタートして、着地点が決まっていないことを考えたら当然ですよね。しかし、ハンターハンターは面白い代わりに内容が難しいんですね。シナリオ・ストーリーに簡単についていけない。話を理解するのに何回か読み込まないと、理解できない。ドラゴンボールも同じ。次から次へ強いやつが現れるだけで、完成度は高くないというか、テンプレ展開でダレる。しかし、話が単純な分理解がしやすいし、スッキリ楽しめる。何も考えずに読める。
 漫画に必要なのは後世に大傑作だ!古典的名著だ!と持ち上げられることでも、文学的評価を得ることでもない(まあそういう評価を目的にやってる人もいるのでしょうし、それ自体間違いでもないですが)。大衆に楽しんでもらうこと、エンターテイメントということを考えたときに、単純な勧善懲悪で一瞬爽快感を感じられればそれで良いわけですね。複雑な設定・壮大なストーリーで見るものを感動の渦に巻き込むことよりも、どんなバカでも見てわかる・楽しめることこそ漫画の本義。子供が楽しめるものこそ漫画。大人から子供まで、誰が読んでもわかるし幅広く売れる。薄利多売こそ王道ですね。そういう漫画の原点に立ち返ることが大事なのだと思います。

 ※余談―だからこそ刃牙がウケるわけですね。以前ストーリーの完成度がない。もはや作品として成立していないと、バキシリーズを批判し、どうして作品としてつまらないか分析したことがありました*11。しかし、そういう作品としての完成度とかそんなことはそもそもどうでもいいんですね。単発単発の思いつきで、脈絡があろうがなかろうが、前後のつながりに矛盾が生じようがそんなことはどうでもいい。満足する人は満足する。そもそもそんな高い作品の完成度・クオリティを求める人をターゲットにしていないわけですね、バキシリーズは。
 それこそ大衆店にいって高級寿司や懐石料理を要求して、ラーメン出されて海原雄山のごとく女将を呼べ!と激怒するようなもの。筋違いも甚だしいですね。バキは売れている。バキが雑誌を支えている。それで正しい、正義ですね。大正義バキ・板垣恵介師匠です。初期のバキがリアル格闘技モノ(と言って良いのかどうか、大猿と戦ったりしてましたし)路線で、その頃からのファンだったのでつい世迷い言を書いてしまいましたね。好きなバンドがある時期を境に路線転向して初期とは違う楽曲・作風になっていく。そして新しいファンを獲得する代わりに、古参ファンが批判するというあれですね。そういうものだと思ってください。古参ファンが何故バキを嫌うのか、その理解の一助になればこれ幸い。かといって、変に粘着して事あるごとにつまらないとか草生やして馬鹿にして文句をつけるようなことはしない。昔の路線が正しい!昔に戻れ!と言わない分だけマシな手合いとご理解ください。

 しっかし長い…。長いこと書いてなかったから書きたいネタがこんなに溜まってたんだなぁ(^ ^;)。また分割しよ。画がかけなくなる話もしたいし。

*1:グーグル変換でも出てこない…

*2:※参照―①週刊少年サンデー売上推移歴代発行部数ランキング | 漫画全巻ドットコム

*3:だもんでゲッサンやらサンデーSという雑誌を作ったわけですね。ジャンプ系・マガジン系という括りが出来るのに、サンデーはそもそもサンデー系と括るほどの媒体自体が最近まで存在していませんでしたからね

*4:
境界のRINNE 1 [DVD]/柿原徹也

アニメ面白かったんですけどね…。珍しいNHK作ということでも期待度は高かった。うる星やつらやらんま並とはいかずとも、そこそこ売上が見込めるという見通しがあったんじゃないでしょうか?うーん面白いんだけどなぁ…(二回目)。

*5:週刊少年サンデー 2018年16号

*6:作者の渡瀬悠宇さんが、少女コミックという媒体で掲載していた『ふしぎ遊戯』というヒット作を描いた人で少女漫画だけあって女性ファンがいる人。その女性ファンをつかんで、ラブコメが多いサンデーに取り込もうという戦略なんでしょうけどね。それ自体はいいやり方、上手いなと思いました

*7:八木教広氏は月刊ジャンプにSQという媒体、月刊誌でこれまで連載してきただけに、週刊連載はどうなのか、大丈夫なのかという心配もありますね。大抵逆ですからね。週刊で成功して、キャリアを重ねる内に体力的にきつくなってきたから月刊誌に移行というパターンが殆どですから。週刊のペースでギャグ連載はキツイ・もう出来ないと言われれば、それはもうしょうがないですからね

*8:

*9:※参照―週刊少年サンデー特集、新編集長・市原武法インタビュー (1/3) - コミックナタリー 特集・インタビュー

*10:※追記、この編集長は生粋のサンデー少年だったという事が書いてあったのを思い出しました。サンデーに必要なのは変革であって、古き良き時代に立ち返ることではない。先祖返りを求めた人事であるならば非常に危険ですよね。小学館やサンデー内での成績不振故の人事異動にすぎず、抜本的改革に繋がる人事ではないのかも知れません…。また、ジャンプがマンガを描くための無料アプリを公開していましたけど、そういう工夫・取り組みで新人を取り込もう、確保しようということをサンデーはちゃんとやっているんでしょうか?無料アプリはありましたが…

*11:

日馬富士暴行事件の解説⑤ 貴乃花「理事」への処分は正当、むしろ軽すぎる。貴乃花理事落選は当たり前の結果<後半>

 

―続きです。時系列的に理事解任騒動の話→貴乃花理事落選の話という順で行きたかったのですが、最後の文書の〆を考えて順番を逆にしました。チラ見する人でも興味があるのは何故貴乃花理事が落選したのかということの方でしょうしね。今回は貴乃花理事の落選と理事解任処分の話の2本立てになります。まず理事落選の話から。
 まあ、何故落選したのかというほどでもない。以前から書いてきたように、喧嘩・衝突ばっかしている貴乃花親方に協会執行部・主流派に逆らってまでついていこうとなる親方がそもそもいるはずがないだけなんですよね。角界相撲協会というのは基本互助会であって、お仲間の和を保つことが優先される。慣習や年功序列の論理を無視して身勝手な自己主張・行動をする貴乃花に支持が集まるはずがないだけですね。無理やり従わせるならばそうさせるだけの特別な力が必要。それがないなら衝突を避けて話し合いで相手の意向を最大限尊重しないといけない。衝突を最大限避ける配慮も調整・調停能力もない。であれば失敗する・支持者が出ないに決まっていますよね。
 対立事案があれば、なるべく角が立たないように話し合って妥協しようとするのが常識・普通とされる世界。そういう世界で真正面からどちらかが正しくどちらかが間違っているという図式に持ち込む人間に殆どの親方はついていけないんですね。これまで対立が起こらないようにギリギリの努力を重ねた結果、こういう事件になってしまったというのならば自分たちのリーダーを守ろうと行動する気になる可能性はありますが、そうではありませんからね。最初から衝突する気満々・妥協する気ナッシングですから、そりゃあみんなついていけないわけです。
 ハッキリ勝敗がつくようなことをする、政争で勝った・負けたということになれば永遠に政争が続く。勢力争いで業界がピリピリすることを好まない世界。まあ要するに状況・場が読めてないわけですね。勝負に必要な3つの分析、状況分析・自己(味方)勢力の分析・相手(敵)勢力の分析。そういう分析判断がぐちゃぐちゃだから味方・支持者が増えないし、離反していくのですね。今回の惨敗で貴乃花が嫌われている、支持されない・見限られたというよりも、根本的に対立の図式を持ち込んで話し合いをして物事を進めようとしない・解決に応じないその態度そのものこそが問題とされていると見るべきでしょうね(井沢元彦氏ならば、話し合い至上主義だ。「和」を乱したからだというところでしょうか)。無論、今回の事件で厳しい処罰を望まないものが多数派を占めていた。そもそも不祥事の公開そのものを望ましくないと思っていた親方が多かったということもあるんでしょうけどね。まあ、以下そんな話をしてみたいと思います。

貴乃花が理事に当選する確率は殆どなかった。しかし何故か貴乃花が理事に当選する!と煽り立てたマスコミ
 そもそも今回の理事選で貴乃花親方が当選する確率は低かった。というか殆どゼロに近いくらいありえなかった。今回の理事選での注目ポイントは、貴乃花立候補で何票彼に入るか。それでも親方の誰かが貴乃花の行動に賛同して票を入れるかもしれない。もしかしたら4~5票入るのではないか?というのが今回の理事選のポイントだった。そういう反協会・親貴乃花のスタンスを示す親方がどれくらいいるのかどうか?というのが今回の選挙のポイントだったんですね。貴乃花一門から二人立てた時点でどう考えても貴乃花理事当選の目はありえなかった。
 事前に無記名投票が記名投票になっていた云々という話があって、協会がそういう卑怯な方式に事前に変更したからだ!なんて話もありましたが、そうでなくても余り結果には大差なかったでしょう。公職選挙法のようなものがある世界ではないので、誰が誰に入れたとかすぐわかる世界ですからね*1。過去の貴の乱で一門を飛び出して当選したときも、当人が私が貴乃花親方を支持したと明言しましたが、そうでなくても誰が票を入れたかすぐわかったでしょうしね。
 不思議なのは、マスコミが貴乃花が勝つ!というような報道をしていたこと、ミヤネ屋とかフジテレビの安藤優子氏が出てた番組でしょうか?それなどで、まるで貴乃花理事当選が当然のこととして報じられていたことです。そんなことあるわけがない。なぜなら今回の理事選ではメンツをかけて「今回だけは絶対貴乃花一門に票を入れるな。入れた場合は破門にする」と各一門が徹底したはずだからです。一門や年長・先輩親方衆のメンツ、つまり組織のメンツを潰した、怒りを買った貴乃花に票が入るはずがない。二年年期ですが例年になく特別な意味合いを持つ理事選となった今回の選挙で、一門の意向に反発して貴乃花一門に票を入れるということは一門からの追放・破門を意味します。破門されて一門に所属しない風来坊の宿無し部屋か、新一門の設立か、貴乃花一門に移籍することになります。どの道を選んでも茨の道、そのリスクに見合ったリターンがどれくらいあるか?そういうことを考えれば、貴乃花親方・貴乃花一門と命運を共に出来ないですよね。
 これまで書いたように貴乃花親方の手腕に疑問符がついた。貴乃花一門が今後隆盛を極めて出羽海一門を超える最大派閥・一門になるとでも言うのなら別ですけどね。もちろんそういう見通しがあるわけでもない。前回の選挙で惨敗したように彼には多数派を形成する政治力がない。そういう人間についていくリスクを考えたら殆どの人間はそういう選択をすることは出来ないでしょう。

貴乃花シンパ、時津風系6親方の不支持
 週刊ポスト及びその系列だと思いますが、昔から「八百長」問題を取り上げて親貴乃花報道を繰り広げていました。女将さん効果で親方衆の半分は貴乃花支持だとか、不満を持つ大卒出の学士系力士達が新派閥を立ち上げて貴乃花一門に合流とか、時津風一門から錣山親方(元寺尾)ら3人が離脱した時、貴乃花一門へ親方衆が雪崩を打って合流・貴乃花シンパの増大が止まらない!みたいな報道をしていましたが、そんなこと普通に考えてありえないでしょう。貴乃花一門と命運をともにするという決意を持っていたら、離脱した3名の親方はそのまま貴乃花一門に即合流してますよ。即合流しなかったというのは不安要素があって、まだ判断を保留していることに他ならないに決まっているでしょうにね。何を言っているんでしょうかね。
 前回の理事選では、時津風一門から6名の親方が貴乃花一門へ票を入れた*2。しかし今回は一門を離脱した3親方すらも貴乃花一門へ票を入れなかった。貴乃花親方の行動を、貴乃花親方支持者・シンパすら否定したわけですね。言うまでもなく、今回の件で貴乃花親方の行動についていけなくなった。流石にそれはないだろうとこれまで貴乃花を支持していた一門外の6親方衆がそのスタンスにひいたわけですね。で、今回の選挙で一歩身を引いて票を入れなくなったわけです。
 勘違いしてはいけないのですが、これで15票持っていた影響力が消えてなくなってしまったわけではありません。あくまで「今回は」支持できなかったということです。次、また貴乃花親方が行動を改めたり、まっとうな姿勢になればその時はまた一緒にやりましょう、支持しましょうということですね。貴乃花派から中立派に今回は移ったということ。決して元の影響力を取り戻せないわけではないのです。流石にここから自分に近い準味方勢力である時津風系6人衆が離反する・嫌われるようなことをしないと思います(―そう思うのですが、テレビ出演などを見るとさらなる最悪もありそうな…、うーん。)。

■味方を増やすどころか減らした貴乃花の乱
 むしろポイントになるはこういう離反者を出しながら、他の一門から新しい支持者を得ることができなかったということ。政略結婚で味方にした陣幕親方の1票だけで、他の親方は誰一人として新しく貴乃花支持者にならなかったこと。味方からの反発がありながらも、中立・敵勢力から新しい味方を作り出せていたら、今回の貴乃花親方の行動は理解できない・支持できないと思う親方でも、それはそれとして理解をしてくれたでしょう。新しい勢力・派閥との関係構築というプラス要素が僅かでもあれば、今回の行動が自論とは相容れなくても角界で影響力を持つ貴乃花親方との手は切れないことになります。しかしそうではない。行動する度に敵を作り、味方の離反を招く。朝青龍ならずともそリゃあ、バカじゃねえのと笑っちゃうでしょう。
 結局、貴ノ岩の事件で彼が警察に行ったことは何の意味もなかった。親方衆の誰一人として彼の行動に同情・共感して、彼と一緒に行動しようという親方が出なかった。発信力・求心力という以前に、彼のやっていることが無茶苦茶ということに他ならないということですね。世間一般の価値観としてはともかく、貴乃花の言動は票を握っている他の親方衆からは異常なもの・支持できないものに映っているということです*3

■不祥事はどの部屋でも抱えるリスク、そこに手を突っ込んだ貴乃花についていく親方はいない
 多かれ少なかれ、各部屋ではなんらかの問題を抱えている・力士が不祥事を起こすリスクが有る。例えば大砂嵐の運転のような事が起こりうるわけですね。そういう時、親方としては弟子を守ってやりたい、部屋を守りたいとなるわけです。そのためにできるだけ被害が小さくなるように動くもの。そういうふうに協力をするというのが暗黙の了解として角界に存在する。貴乃花親方はそれを破った。
 前述通り、敵対勢力ならともかく味方側に近い伊勢ヶ濱親方の力士・日馬富士を殺した。ということは、綱紀粛正の手は止まらない。何か不祥事があれば即力士を殺しに来るマッド親方として力士やその他親方の目には映る。味方サイドにさえ粛清の手が及ぶというのならば、こんな厳しい規律を持つ一門に自分が入った場合どうなるか?怖くて仕方がないでしょう。何かあったら不祥事に厳しい貴乃花一門の力士なのにそんなことしていいのか、またそんな甘い処分で良いのか?と言われるわけですからね。そして処分や規律の厳しさもさることながら、他の一門の力士を攻撃する≒他の一門と抗争をためらわないわけですからね。これでは貴乃花派として足並みをそろえて行動しようという親方が減るのは当然でしょう。
 前述の時津風系6親方としても、貴乃花一門に入りたくないとは思っていないでしょう。ただ、貴乃花一門に合流することで各一門・親方の反発を招くのならば御免こうむる。それこそ時津風一門から「独立はともかくよりによって貴乃花一門に行くだと!この裏切り者共が!」と敵対関係を招くのならば、相当な覚悟を必要とするでしょうからね。新一門・貴乃花一門に合流すること=裏切りではなくて、むしろ旧一門時津風系と、新一門貴乃花系との架け橋になる。移籍が自身や部屋にプラスとなるからこそ、貴乃花一門に移籍したいわけです。マイナス要素の方が多いとなるならば合流をためらったり、やっぱり辞めたと決断を変更したりするのは当然でしょう。
 また一門参加をためらうのは親方以前に人間として自然の反応でしょう。改革をしたい、貴乃花の志に共感する。が、しかしその後もうまくいくという保障がない・勝算がない。となれば、部屋を運営する≒中小企業の責任ある経営者として経営する部屋・企業を守ることを優先するのは当たり前。大事な弟子・社員を守るために行動するのは当たり前。どんなに意志・理念、志が正しくとも先立つもの・現実の生活を守る保障がなければ人はついてこない。貴乃花に票が入らなかったことはいちいち説明するまでもない、当たり前すぎることですね。

 前回も書いたように、政治というのはどういう結果につながるか想定して動かなければいけない。その結果が今回の貴乃花一門の勢力半減です。前回は貴乃花一門貴乃花系から3名の理事を輩出したわけですが(貴乃花・山響・伊勢ヶ濱の3理事)、今回は阿武松・山響親方の2名。一門ではありませんが一門外の貴乃花シンパから離反者を出して惨敗になりました。こういう結果をもたらした警察行き・警察への被害届を提出するという行為はやはりありえない行動・暴挙だったわけですね。
 貴乃花一門の最大の目的は、協会を改革すること。まっとうな組織を作り上げることだったはずです。そうするためには何をしなければいけないのか、そして何をしてはいけないのか、そういう政治的計算の元から打算に基づいて行動しなければいけない。それを怠って感情のまま暴走した彼が将来的に大改革を成し遂げることは不可能に近いと言っていいでしょう
 感情のまま暴走する、周囲の意見を聞かずに行動する。これでは今ある一門の存続すら危うくなっても何ら不思議ではないでしょうね。

 結局これまでの主張・分析の延長上にある話になりましたね。これまで書いてきたことと余り変わらないですね。なので読んでてあんまり面白くなさそう(^ ^;)。まあでもそういうこれまでのおさらい・復習をした所で今一度貴乃花親方の行動はどうしてありえないのかという話をしながら貴乃花理事への解任という処分の話をしてみたいと思います。


―ここから話のパート②貴乃花理事への処分の話。理事解任では処分として軽すぎるという話になります。
■被害者側が処分されるのはおかしいというおかしな反応
 貴乃花への処分についておかしいと思う人があまりにも多くてむしろそのことに驚いています。組織の論理から言うと何もおかしいことはない話なのに何故このような反応が多いのでしょうか?とても重要なポイントなのでそれについて触れない訳にはいかないでしょう。
 「貴乃花の乱」はなぜ勝ち目がないのか?日馬富士事件を組織力学で読む ―こちらの記事にあるように、普通の組織の論理から言えば貴乃花のやっていることは異常であり、違反行為です。相撲協会前近代的な組織であるというのなら尚更です。特に取り上げて説明することもない自明のことだと思うのですが、これを理解できない人が意外に多いようなので、引用しました。これが一番簡潔&的確に説明していましたので*4営利企業がその会社の利益を損なう行動を取った人間を処分するのは当たり前、そういう理解でかまわないでしょう。ただ、こちらの記事ではどちらかと言うと、貴乃花親方はまっとうな態度・対応だとしても会社の利益を損なう行為だからという論理で説明しているのでその点は今回の事件とは少し異なるのですけどね。まあ、あくまでわかりやすくするための例えなのでそれは些細な話ということでおきましょう。

 八代弁護士が目についたので、彼を引き合いに出させてもらいます。何回かテレビで見かけたことがあって、まともなコメントをする人だなというイメージがあったのですが、今回の事件では非常に違和感のあるコメントを発していました。端的にいうと貴乃花理事寄りであり、反協会のコメントをし続けています。彼は有耶無耶にされるから親方は警察に行ったのではないかということを言っていたのですけど、そもそも有耶無耶にされるとは一体何なのでしょうか?理事会や、理事長へ直談判しても、有耶無耶にされるなんてありえない。あるとしたら直に身体拘束をする=監禁とか、弟子や関係者などを協会から追放するというような脅迫しかないでしょう。そんなことをするはずもないし、あったとしてもそれを告発すれば、誰が聞いても貴乃花を支持するでしょうからねぇ。
 言った言わないの水掛け論を排除するために、テープレコーダーを持って録音をしておけばそれは避けられるだけですし。貴乃花親方が警察に行くという覚悟を決めた時点で有耶無耶にされるなんてありえない。*5

■理事解任でも直近の理事選出馬可能は事実上の無罪放免。これでは組織のルール違反の処分にならない。貴乃花への処分は軽すぎる
 貴乃花理事への処分がくだされた時、なんで被害者が処分されるんだ!被害者が処分されるなんておかしい!みたいな声が非常に多くて、こういうことが世論で大きな声を持っている・強い意見になっているところを見ると非常に薄ら寒い思いをします。政治的に損をするから大事にすべきではないという損得の論理の問題とは関係なく、組織の規則・ルールを破った人間が処分されるのは当然。それは事の是非とは関係がない。適切な行為であるなし関わらず、誰が見てもルールを破ったことには変わりないのですから何らかの処分が下るのは当たり前でしょう。ルールが間違っているからルールを変えるべきだというのなら理解できますが(というか殆どの人が現行ルール・システムがおかしいと思っているでしょう)、処分自体に文句をつけることは筋違いでしょう。今回の処分はむしろ軽すぎる。理事としての責任をまっとうしなかった以上、処分が下るのは当たり前
 個人的には無期限理事(選立候補)資格停止がふさわしいと思いました。野球賭博事件のとき、当時の時津風親方阿武松親方にそれぞれ5年間と10年間の昇格停止処分が下りました。それになぞらえてこれくらいの昇格停止処分が妥当だと思います。両親方とも4年で処分は解かれたので、この事例に倣って2~3年の資格停止処分にして実際は1~2年で処分解除。つまり一回理事に就けないことにするくらいの罰則が適当に思えました。しかし実際の処分は解任のみ。すぐ直近で行われる理事選に立候補できないこともない。事実上の無罪放免でした。このような軽い処分でもおかしいという反応に疑問ですし、むしろ組織のガバナンスという点で組織のルール違反者・反乱者に対して重い処罰を下さないことのほうが問題であると疑問の声が上がるべきでしょう。そういう主張をする論者がいなかったことの方に強い違和感を感じましたね(貴乃花のやっていることは正しい、しかしルール・規律違反には変わらない。厳格な処分を下し、かつ相撲協会もまた組織構造及びそのルールの改正をすべきとセットで主張すべきですね)。
 貴乃花は親方としての地位を全うするために、理事としての仕事を意図的に覚悟を持って放棄したのだから処分される前に辞めてしかるべき。それならまだしも覚悟の上、信念の行動という意味で一貫性があった。ところが自分は悪くないという一点張り…。解任よりも辞任のほうが組織との衝突を避けられる、弟子を守るという主張・持論を通しかつ組織への最低限の筋を通す・組織の論理と折り合いをつける。それならばまだ理解も出来たのですが…。この事件で貴乃花への処分に文句をつける論者も貴乃花も、どちらも態度や姿勢に論理的一貫性が見られないんですね。これは今後の情勢を考える上で非常に怖い所。

■処分されたのは貴乃花「理事」で貴乃花「親方」ではない
 そもそもなんですけど、貴乃花「親方」が処分されたわけではないんですね。貴乃花「理事」が処分されたわけで。このことについて「二つの身体」という言葉を用いて説明していた記事がありましたけど、あまりうまくないので取り上げませんが、単純に兼職・兼務しているんですよね、相撲界の親方という立場の人間は。
 部屋を運営する親方でありながら、同時に相撲協会の役職を兼ねるという特性が相撲協会の人間には存在します。ですから、今回の件も警察に行った「親方」が処分されたわけではなく、事件の解決・事態収拾に全力を上げて取り組む必要がある「理事」としての職務放棄が取り上げられているわけです。行ったことではなく、行ったあとの対応が問題の焦点なわけです(もちろん行った事自体も問題とされてはいますけどね)。*6
 わかりやすく昨今話題の大谷くんで言うと、ピッチャー大谷とバッター大谷は矛盾することがある。日によってピッチングに専念するあまり、ピッチャーとして見事相手打線を抑えても、バッターとして4タコでまるでいいところがなかった―そんな日があることは珍しくもないでしょう。それをもってバッター大谷が打てないからスタメンを外れるとか、数字が落ちたので年俸が下がるとかそういうことがあると思います。しかしそれはピッチャー大谷としての評価や査定ではない。ピッチャー・バッターの別と同じように「理事」「親方」もまた別。
 今回の出来事も親方・理事という兼職故に、どちらかを取ればどちらかが犠牲になるというだけの話。協会の体制・システム的にそういう矛盾することが起こりうるシステムにそもそも成っている。そして親方としての立場を取って、理事としての立場を犠牲にしただけの話ですね。それで当然処分を受けたに過ぎない。おかしくもなんともない話。ピッチャー大谷が危険球で退場となった時、なんでバッター大谷も退場しなくちゃいけないんだ!と言うようなものですね。
 まあ、でも普通に協会の聴取に協力したり、スケジュールの調整で、今こういう状態で後援会への説明、被害にあったお店へのお詫び、警察への二回目の相談・報告云々があって、それが○日に終わるので、その後に協力できますとか、色々協会と一緒になって全力を上げて問題収拾に動けばよかった話。普通に行動していれば、まず処分されなかったでしょう。

■被害者なら何をしても良いのか?ダメに決まってる
 被害者が処分されるのはおかしいという感情論は、被害者なら何をやってもいいというのでしょうか?被害者である以上、特別な措置が取られるのは当然。それは貴ノ岩の休場による降格はないということを見ても明らか。しかし普通の企業でもそうでしょうが、交通事故のために暫く通院で休むことは認められても、怪我が軽かったにも関わらず必要以上に休んだり、怪我の状態=通院に必要な治療期間を知らせずに、勝手に業務をせず帰ったりしたら業務怠慢で処分を下すのは当然でしょう。理事としてすべきことがある。トップとして最大限組織に奉仕しなければならない職務にある以上、職務が出来ないやむを得ない理由・事情があるのならばそれを説明すべき。その説明をせずに協力しないというのならば、処分対象になるのは当たり前ではないですか。被害者であることは錦の御旗とはならない。にもかかわらずさも官軍のような振る舞いで相手を賊軍認定して一方的に殴りつける貴乃花理事の言動の方こそおかしい。「錦の御旗を握っている自分の思うどおりに行動せよ、自分の主張に従え!」という態度を取り続ける貴乃花理事のほうが異常でしょう。
 被害者であるという論理はそれはそれでいいとしても、協会の調査や事態収拾に協力しないというのはまた別の問題。となればこれはこれで不祥事収拾という業務の怠慢で処分を受けるのは当然。被害者側であるということとは全く関係がない、論理的因果関係がない話。一体何を言っているのかわかりません。

■一体どこから連れてきた謎の池坊評議員議長
 あの池坊さんという変な人が出て来て対応をしたから事態をさらにややこしくしたという一面は間違いなくあるでしょうね。礼を失しているとかわけのわからないことを言っていましたが、礼儀やマナーの問題ではなく純粋にルール違反ですからね。理事としての職務怠慢・責務の放棄=ルール違反で処罰するで十分。「親方としての貴乃花氏を処分したのではありません。それについてはノータッチ、我々が問題としているのは理事としての貴乃花氏であり、及び理事の責任・職務の放棄です」とだけ明言すればよかった。それなのに余計なことを言い出したから話がややこしくなってしまったと思います。朝青龍のときの内館牧子氏のように変な人間をどこかから連れてきている傾向があるように思えますね、相撲協会*7。 
 そりゃ新米・後輩理事が上司や先輩に従わずに自分勝手な理屈で動いていればカチンと来る。礼儀の概念がない、長幼の序がないモンゴル人かお前は!と彼らが憤ってもおかしくはない。しかしそういう感情は本来表現すべきものではない。およそまっとうな組織が役職につけるべき人間ではないですね。そもそも相撲協会は内輪の仲間だけで動かすもの、阿吽の呼吸で忖度しあって組織を回してきたという経緯があるため、内部衝突自体余り経験がない。「まあまあ、ここはひとつ」でカタがついてきたのでこうなるんでしょうけどね。

 今回の一件をムラ社会の論理で、ムラ社会に逆らったからこそ、貴乃花親方が処分を受けたという主張をしているものもありましたが、筋違いも甚だしいですね。ムラ社会の独特の論理、反社会的な論理に逆らったから処分を受けているのではなく、貴乃花理事の方が自分勝手な理屈で組織の論理・都合を無視して職務放棄しているのですから。
 この筋違いな暴論、熱狂は何に基づくものなのでしょうかね?理解できないのですが、時津風部屋の暴行事件による不審死で抜本的な対策を取っていないことによる過剰反応故、協会許すまじ!協会憎し!なのか?それとも一般社会におけるイジメ事件が発生した際、まっとうな対策を学校や職場が取らない。こういう時必ず有耶無耶に処理されるものだという背景がある故に、それと同じ風に今回の事件を捉えて、いじめをした加害者&それを許した協会に厳罰を下せ!ということなのでしょうかね。まあ、そういうことはたしかにありますし、わからなくもないのですけど、今回の事件の背景・構造は明らかにそういう一般論と同質に考えられないもの。そういう解説しているものを見たことがないので、やはり知らないが故の反応ということなのでしょうか…。

貴乃花はどうすべきだったのか?
 それはともかくとして、反貴乃花論者が書いた文と捉えられるのも本意では無いので、最後にまとめもかねて貴乃花親方・理事がどういう行動を取っていればよかったかを書いて終わりたいと思います。
 ①貴ノ岩への暴行事件を知ったら、伊勢ヶ濱親方・八角理事長及び他理事へ報告をする。
 ②場所前の処分を望んだものの、場所前に処分が行われなかった。ここで怒るのではなく、伊勢ヶ濱親方や八角理事長へ最終確認を取る。何故場所前に何らかの処分をくださなかったのか?もう警察に行く準備をしてあると告げる。
 ③ここでおそらく伊勢ヶ濱親方が正式に訪問&謝罪、八角理事長も理事会で処分を検討する。
 ④場所中であるがゆえに、場所後に正式な処分を発表・実行する、二場所休場なら二場所休場で落とし所を決めて、場所後にそれを発表・処分。
 ⑤一件落着、チャンチャン。

 ―本当、これだけで終わる話だったのに、何故キレてしまったのかわからない。「なんで場所前に処分しなかったんだ!俺をナメているのか!」とキレてしまったのでしょうか?説明したとおり、八角理事長も伊勢ヶ濱理事も貴乃花理事は怒らないだろうと考える合理的理由がある。理事長のイスを狙うのだとしたら当然我慢して然るべき所なのに…。場所中での被害届は、他の親方・理事・力士の顰蹙を買ってしまうのに…。本当に認識能力がおかしいとしか思えないですね。そもそも場所前の処分が当然と考えていたのならば、八角理事長や伊勢ヶ濱理事に「例の件はどうなってますか?今の進捗状況はどのくらいですか?今はどの段階にあるのですか?」と確認をすればいいだけ。部下はどちらなのか?上司はどちらなのか?どっちが先輩でどっちが後輩なのか?どっちが新米理事で(以下略)。そういうことを考えれば尚更ですね。自分の思うとおりに事態が進んで当然というメンタリティは一体どこから来たもの、何由来なんでしょうか?
 おまけとして⑥で日馬富士をたらしこむということも考えられますね。そもそも改革を望む貴乃花理事は同じく自分たちの地位向上・改善を望むモンゴル派と本来相性がいい。大勢力を築く上で、孤立しがちなモンゴル派を自派閥に組み込んでしかるべき。国体云々の概念からモンゴル人を受け入れられないのかもしれませんけどね。
 それはともかく、モンゴル派をコントロールできるようにする上でも、この機会に日馬富士を取り込むことを普通は考える。白鵬が気に食わないのなら尚更ですね。日馬富士を取り込むことでモンゴル派閥を割ってコントロールできる。日馬富士貴乃花親方の父・先代貴乃花を尊敬して相撲を始めたといいます。そういう点でもアプローチしやすい背景があります。
 それこそ、今回の事件を機に「オイ、日馬。お前俺がなんで怒っているかわかるか、殴ったことを怒っているんじゃない。今回のことでお前が相撲を取れなくなったらどうするんだ!せっかくここまで来たのに、引退することにでもなって相撲が取れなくなったらどうするんだ。お前は相撲が好きじゃないのか?現役を退いて初めて自分が相撲が本当に好きだったということがわかるんだ、俺もそうだった。こんな下らないことで力士人生を終わらせたら、一生悔いが残るぞ!何より、ここまで育ててくれた伊勢ヶ濱親方がどう思うんだ!おかみさんも、応援してきてくれた後援会の人にも申し訳が立つか?立つわけ無いだろう。お前を一生懸命応援してきた人たちが悲しむんだぞ、怪我ならともかく不祥事で引退してどう説明するつもりなんだ!このバカタレが!」と説教して、理事会や記者会見などでは、今回の事件は弟子の教育不足だった私の責任でもあります。責任は私が取り、理事を辞任しますので、どうか休場で許してやってくれませんかと頭を下げる。
 謹慎中、出稽古で日馬富士に指導をして、日馬富士の稽古姿勢を褒める。「お前ら横綱があんなに練習してるんだぞ?お前らそれで強くなれるのか?横綱以上に練習しないで一体どうやって横綱になるつもりなんだ?」と自分の部屋の力士にはっぱをかける。またウチの父はもう超えた。今後はもっと精進して、日馬富士のようになりたいと言われるように頑張りなさいとリップサービスをする。
 で、休場明けに日馬富士が見事優勝して日馬富士が優勝インタビューで感謝の言葉を述べることで完璧ですね。「まず、自分が馬鹿なことをしでかして、親方・部屋の皆、関係者皆さんに迷惑をかけたことを深くお詫び申し上げます。自分にできることは相撲だけなので、土俵の上で勝つこと、こうやって優勝することで少しでも罪滅ぼしができればと思って今日まで頑張ってきました。自分のしたことは決して許されることではないですけども、その思いで今日まで頑張ってきました。これが少しでも恩返しになったら嬉しいです。」
 で、インタビュアーが今の喜びを誰に伝えたいですか?
と聞いた時、泣きながら「自分が間違いを犯した時、自分が過ちを犯した時、貴乃花親方が自分を叱って…。すいません…(涙)。自分の責任だとおっしゃって、親方は何も悪くないのに、自分をかばってくださって…。その後も色々目をかけて指導をしていただいて。本当感謝してもし足りないです。ありがとうございました」と、日馬富士が応えたら完璧ですよね。んで、土俵を降りた後、貴乃花親方に泣きながら挨拶して貴乃花親方がウンウンと褒め称えてやる。そういう絵が報道されたら、親方としての人気は天に登るでしょう。冲天貴乃花ですね。
 そういういい話を人は放っとかないですから、取材がありますよね。「私は何もしてませんよ。彼の努力が素晴らしかったんです。今でも横綱の努力を見習えとうちの力士に言ってますから。あと20回は優勝できるから、今後も相撲道に精進してがんばりなさいと言いましたよ。私は本当に何もしてません、伊勢ヶ濱親方の指導の賜物ですよ。私も伊勢ヶ濱親方を見習ってああいう優れた力士が出るように頑張らないといけませんね。優勝の後に駆け寄ってきてお礼を言われた時は嬉しかったですけど、先に私のところに来ちゃ駄目ですよね(笑)。そういう所がまだまだですかね(笑)。私じゃなくてちゃん伊勢ヶ濱親方にお礼をするんだよと言いましたよ、ハハハ」。とでも応えたら日馬富士伊勢ヶ濱親方も貴乃花親方の心酔者・信奉者になったでしょうね。角界でも「貴乃花親方は凄い」の声で満ち溢れたでしょう。
 アクシデントを活かすか活かせないかはその当人の器量の問題ですけど、まあそういうものがないんでしょうね…。 この事件をどうすれば上手く活かせるか?そういうことを考えて行動して、求心力を高めないといけない。そういう発想が根本的になくて、自然と自分の思うように物事が進んでいくと考えている。そうして物事が思う通りにならないと怒り出す。なんか非常に我儘で信長チックなんですよね。無論信長はビジョンも実力もあったので、我儘やりたい放題出来たのですがそういう実力が彼にはない。鳴かぬなら鳴いたら鳴いたでブチ切れ時鳥とでもいいましょうか…。実際、信長も実力が伴わない弱いときには強者への配慮を欠かしませんでした。改革を実行する新規参入・新興勢力は当然勢力基盤が弱いもの。その弱者が強者の振る舞いをする矛盾・愚挙が彼にはある。こういう喩え、戦国武将的な喩えをするのはあまり好きではないのですけども、鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥的な忍耐・我慢だったり、鳴かせてみせようホトトギス的な巧さや人たらしだったり、そういうものがないとダメなんですよね。改革を実行するためにはそういうことを理解して、そういう能力を身に着けてほしいですよね。

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*1:というかそもそも無記名投票でなければ貴乃花を支持できないという時点でもう駄目なんですけどね

*2:※参照―時津風一門離脱の3親方、貴乃花親方支持せず : スポーツ報知

*3:無論、角界の変わらぬ体質・昔の体育会系的な上下関係に暴力的な指導というものが根深いこと。暴力根絶が未だに出来ていないことを世間に知らしめるという効果はありました。が、少しづつ地道な対策・改革を積み上げて変えていくというまっとうな手段を選ばず、手っ取り早く内部告発して現執行部を引きずり下ろしてしまおう。自分の思うように組織を動かそうという姿勢では外部の支持は集められても内部からは強烈な反発を招くものですよね。

*4:ただし、最後の一番の被害者は貴ノ岩というのは違うでしょうね。下らない騒動に巻き込まれて、自分たちが好きな相撲がまたイメージが悪くなって苦しむ人々でしょうね。まっとうな親方(そんな親方いるのか?というのはおいといて)や相撲協会に属する人々、相撲ファンに場所中の力士こそ、本当の被害者でしょう。

*5:かなり前に書いたパートなので、今頃になって意味がわかりました。ああそうかうやむやにされるというのは、要するに刑事罰・処分を下せ。世間に公表せよ。そうするのが一般社会では当たり前―そういうことを言いたいのですね。んで、貴乃花親方がいくら相談してもそういう裁定が下ることはなかったから独断で動いた。その行動を良しとしたいのか。それでも結論は変わらず、一回相談して理事長に報告する。それでも処分はしないという言質を引き出す。で、警察に行けばいいだけですね。そこは以後の文章と何の整合性の問題も引き起こさないのですけど、ポイントは今回の事件だけ特別に便宜を図って隠蔽したという話ではないことですね。
 横綱、興行のスタープレーヤーだから組織ぐるみで今回だけ特別に不祥事を公表しなかったという話ではなく、全力士・親方の不祥事をそもそも公開しないという透明性の低い組織であるということ、これがまず一つ。次に、貴乃花親方はそういう組織の流れに逆らう清廉潔白な人士ではないということ。貴乃花が前々からそういう協会の腐った流れ・前近代的傾向に憤っていて、とうとう堪忍袋の緒が切れた。そういう事情背景であるというのならばまだしも、彼自身もその制度によって守られてきた不祥事を起こしてきた側の人物であること。そういう理解が八代氏にはないということでしょうね。そこを見過ごすと話がまるでわからなくなる。彼は決して不祥事に怒りを爆発させた正義の士ではない。良くないこととはいえ、角界では暴力は日常茶飯事であり、自身も同じことをしている。にもかかわらず、何故かブチ切れて警察に行った。ポイントはそこにあるんですよね。要するに詳しいことを知らないので「暴力事件の被害者と加害者」という大きな絵の一番目立つパート・真中部分しか見ていなからそういう誤った認識をしているということですね。この話はラストで書く話だったので今書いちゃうと前後のつながりがおかしくなるので注にしました。貴乃花親方は暴力と無縁の清廉潔白な人士ではない。これが今回の事件のポイントですね

*6:「親方」と「理事」という二面性があることがのちのち大事なポイントになってくるだろうということで途中からかなり気をつけて「貴乃花親方」と書くか、「貴乃花理事」と書くかその都度その都度、文脈にふさわしいように使い分けていました。しかしどっちでもいいときが多くてうーんどうしたものか…となることが多く、あとでどっちでもいい時は単に「貴乃花」とすればよかったなと気づいたのですが、もうめんどくさい&後の祭りだったので、名称の書き分けは諦めました(笑)

*7:ググったら今上天皇陛下の再従姉妹で元新進党公明党の人なんですね…。全部比例当選で創価学会員ではない公明党議員とかすごい謎キャラですね…