てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

【コードギアス解説・考察】 映画『復活のルルーシュ』の感想② 個人的な不満点と映画の評価・感想

【コードギアス解説・考察】 映画復活のルルーシュの感想① 復活否定派やおかしな感想への反論の続きです。前回書いたとおり、個人的に不満だったことを中心に書きたいと思います。個人的に不満・違和感を抱いたのは、①ルルーシュがギアスを使ったこと、コードとギアス関係の設定が後付で変わったこと。②シャーリーが生き返るという新しい設定が盛り込まれたのに、それについて何ら触れられなかったこと。この2点ですね。

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目次

 

■不満を抱く理由、TV放送終了から時間が経ちすぎてハードルが上がってしまった

 コードギアスシリーズが続くことについて、強い不満を抱く人の意見を見ました。いわく、「もう、キレイに物語が完結したのに、制作側の都合で無理やり続きを作ろうとするな。余計な手を加えて下手に続編なんて作れば、せっかくの名作が台無しになる」と。
 たしかにそういう意見にある程度賛同するのですが、インタビューにもあったように、最初からシリーズ物を制作する。ガンダムが今でもずっと続いているように、コードギアスもずっと続けられるように、シリーズ化出来るものを作って欲しいと言われて作った。という前提条件があるので、シリーズとして続くことはもう、最初から決まっていたと(まあ、そういう事を考えても最終回がどうなるかという話は論ずるまでもないということですね)。
 売れたから、続編作ってまえ~という安易な発想で急遽続編が展開されたというわけではないのは確かですね。しかし、じゃあどうして、ここまで間が空いたのか?時間がかかったのか?と言われると、監督の谷口氏が続編映画を制作することを拒否していたのだそうです。次シリーズやるのならば、どうぞ次の監督さんがお好きに制作して下さいというようなスタンスだったのでしょう。また、ちゃんと本編でメッセージをすべて詰め込んだ。言いたいことは全て描いた。これ以上やると冗長になる。また後述するように映画という限られた枠で描ききるのは無理があるという要素もあるのでしょう。真相がどうであれ、いずれにせよ谷口監督が今回の『復活のルルーシュ』のような映画を作ることに反対だったので、ここまで時間が経ってしまったといったような話を見ました。
 自分が見た中で、ああたしかにそのとおりだなと思った新作映画への否定的な意見として「男女の恋仲、男女がハッピーエンドで結ばれるというありきたりの展開。いろんな愛の形による結末を描くような時代になったのに、凡庸中の凡庸的結末。これはいかがなものか?*1これが普通の映画・作品なら大して問題にもならなかっただろうが、名作コードギアスのラストである分がっかりした。また、TV放送終了から10年経って、ファンの期待が高まった分、この結末はいかにも肩透かし。ワクワクして待っていた分、がっかりした。もし、これが放送終了後3年程度での続編映画だったならば、特に何の問題にもならなかったと思う。長期間お預けを食らわせられた分、期待した反動でがっかりした。ファンにとっては残念な出来、内容だった」
 ―といったような感じの感想を見かけました。たしかにそのとおりだなと思いました。もし、さっさと新作映画として続編を作っていたとしたら、否定的な意見も目立つことはなかったのでは?と思いました。10年にも及ぶ長期間待たされた結果、ファンの中の期待のボルテージはいやがおうにも高まってしまった。そういう要素は確かにあるでしょうね。
 

■映画という限られた尺・時間の中での限界

 新作映画を制作して、続編・次シリーズにステップするために、このような続編映画を作ることに監督は反対していた。そういう話を聞いてさもありなんと思いました。2時間程度の枠で、コードギアスという作品に要求される項目をクリアした作品を作るのは難しすぎる。ギアスという能力モノの要素・ロボットバトル要素・恋愛要素・これまで築き上げた各キャラクターの人間模様&物語・後日談をたった2時間という枠に収めろと言われると相当難しい。尺的に無理がある。TVスペシャルで1時間や90分枠を数回、まあアニメの6話くらいの枠*2、下手したらワンクールくらい取らないと、余裕を持って満足行くクオリティで作品を作ることは難しい。
 客観的に見れば、可もなく不可もなくという評価になると思いますが、個人的に今回の映画の出来は、2時間ちょっとという枠を考えてあの内容、きっちり一本の映画として作品としてまとめられたという事実に目を向けると、監督の手腕を高く評価して然るべきものだと思います。あの内容を見て、きっとあれも語りたかった、これも描きたかったんだろうと思えました。いろいろ描きたかったこと、入れたかったエピソードがあっただろう。しかし舞台としてジルクスタン王国という舞台を設定して外枠を決めた以上、あれが限界だったのだろうなぁという気持ちになったので、文句をつけたり、マイナス評価をしたりするような気持ちには到底なれませんでしたね。本当に一つの映画作品の枠によく見事にまとめたなぁというのが個人的な感想でしたね。
 監督は「ルルーシュを描く」=ルルーシュの最後・結末を明確に描くということにこだわっていたように思えました。先に結論を言ってしまうと、コードギアス外伝としてスタートした初めてのシリーズ作である『亡国のアキト』がひどすぎたので、自分自身の手でルルーシュの結末をきっちり描いておこうという気になったのではないのか?と思えました。下手したら、続編というか続シリーズでルルーシュがおかしなことをする羽目になりかねない。おかしな描かれ方をする可能性だってある。だったら、そういう危険性をなくすために、明確にルルーシュのラストと次章での役割を明確化しておく必要がある。次章でのコードやギアスの展開・設定をある程度自分自身の手で描いて決めておきたい。
 ―どうもそういう懸念から、コードギアスルルーシュ編をきっちり完結させたというように思えました。『亡国のアキト』は本当にひどかった。どうしてアキトがつまらないのか、そういう理由を説明しているサイトがないか探している時に、要因として「ルルーシュがいなかったからつまらない。やっぱコードギアスは、ルルーシュが出ないとダメなんだよ」という意見を見かけましたけど、決してそうではないでしょう。そもそもコードギアスという作品・ストロングポイントを理解していないからこそ、ああいうわけのわからない続編・シリーズが作られてしまうのでしょうからね。長くなるので「どうして、亡国のアキトは失敗したのか」という話はまた別枠でいつか書きたいと思います。
 

■今後の続編、コードギアスシリーズは失敗する可能性が高い

 話を戻して、コードギアスシリーズが続くことについて反対する意見がありましたが、決して人気作品への便乗商法だったり、浅ましい思いつき。少年ジャンプみたいに作品の一貫性を無視した人気次第の延命連載&打ち切り商法ではないわけですね。しかし、個人的にはコードギアスシリーズが成功するかしないか?と言われると、成功よりも失敗する確率の方が高いと考えています。アキトというわけのわからない作品が作られてしまったことを考えると、サンライズ自体が、コードギアスという名作の要点・ポイントを理解していないフシがあるので、同じようなミスをまた繰り返した続編を作ったとしても、何の不思議もないですからね。
 谷口監督&大河内脚本というコンビだったからこそ成立した名作。その谷口監督が以後の作品を手がけない。インタビューでは、「谷口監督だったからこそ面白かった。谷口じゃなきゃダメだと言われないように」という話がありましたが、多分谷口監督の手を離れたコードギアスはクソ化すると覚悟しておいたほうが良いと思います。
 ルルーシュが出ないとダメではなく、谷口が手がけていないとダメ。これが一つのポイントになるのでしょう。次のシリーズをどの監督が手がけるか知りませんが、その監督がまず谷口の壁を超えられるかどうか。谷口より面白い作品を創り出せ!とまでは言いませんが、「谷口に及ばずとも、なかなか面白かったね」と言われるような合格点をクリアするかどうか。ウォール・マリア、ウォール・ローゼ、ウォール・シーナ、そしてウォール・谷口という最後の壁を乗り越えなられるかどうか。次の新シリーズではなによりもそのハードルをちゃんとクリアできるかという点がポイントになってくるのだと思います。新シリーズが2~3作続いて「谷口の壁」を超えられないのだとしたら、もうシリーズとしては死んだも同然になるでしょうからね。
 
 シリーズとして暗い未来が見える。だったら、もういっその事やらないほうが良いんじゃないの?という意見もあるわけですが、『復活のルルーシュ』でも回収されなかったポイントがあるので、続かないわけにはいかないんですよね。アキトで「青のギアス」や「時空の管理者」という重要な新概念が登場するものの、今回の作品でもそれらについてノータッチ。そして総集編で生き返ったシャーリーという、総集編最大の謎である「シャーリーの復活」についてもノータッチ。これは一体どうなのかなぁ…と思うところ。
 コードギアスシリーズとしてアキトも組み込まれている。①R2→②アキト→③総集編3部作→④復活―という段階を経て、謎が少しづつでも回収されていくどころか、復活で「Cの世界の崩壊」というまた新しい設定が明らかになる=謎が盛り込まれるということになってしまった。こういうのをなんと表現しましょうか、もやもやが残ったまま、次から次へと新しい話が展開してしまう。授業内容が理解できていないのに、授業がどんどん進んでしまって、新しい内容を教わる感覚ですかね?または金田一やコナンくんが、殺人事件を解決せず、次の事件・次の事件と展開して前のケースが放置されるという感覚ですかね。とにかくずっと引っ張られて、焦らされすぎて、観る側はすっきりしない。コナンくん出てきたので、コナンでいうといろんな殺人事件を解決しているのに、一向にメインストーリーである本筋の黒の組織の話が進まずにイライラするという感じでしょうか。さっさと黒の組織退治しろよ!「ワシじゃよ!新一」をさっさと捕まえろよ!という感覚でしょうか。
 全部が全部きっちり最後までやれとは言わないけれども、アキトでやった「青のギアス」やら「時空の管理者」という重要な概念は、ある程度は、説明しておけよという思いがどうしても拭えない。今回総集編を挟んで、シャーリーが死なない・生きて話が進むという新展開・謎が生まれたのに、それにも全く触れられないという展開で「エエッ!?」という感想が消えないんですよね。
 もし、シャーリーが総集編で生存していなければ今回の映画で、特に何の違和感も抱かなかった。ああ、やっぱりそういう結末になるんですねぇ~で何の違和感もなく終わるのですが、シャーリーが復活するという一大変化・一石を投じるどころか、巨岩を放り込むくらいのインパクトが生まれた。物語の大きな変化で新作映画にブレが生じてしまった。前々からルルーシュが復活する・コードを継承して生き返るという話は物語の端々で読み取れたし、散々いろんな考察サイトで語られてきたので、何らインパクトもなかったのですが、シャーリーが生存しているという一大変化で、話の軸がブレてしまった。今回の映画はルルーシュの復活というより、「シャーリーの復活」だったんですよね。個人的には。

■新作の見どころは復活のルルーシュではなく、復活のシャーリー

 今回の映画はルルーシュの復活よりも「何故シャーリーが復活したのか」という大事なポイントをちゃんとやってくれると思っていた。その疑問を解き明かしてくれると思って観に行った。謎がある程度解き明かされる、一から十までやってくれるとは言わずとも、半分か3分の1、せめて触りくらいはやってくれると思っていた。ところがシャーリーの生存についてはまるで触れられていない。完全なノータッチ。これで「???」という変な、妙に後味の悪い思いをすることになってしまった。
 次回の映画か、新作TVシリーズかわかりませんが、そこでシャーリーの生存について解説される。話が進んでいって謎が解き明かされるのだとしても、今回の復活でこの案件についてノータッチはひどすぎる。これでは、「総集編でシャーリー生き返らせる意味あったの?」と言われてしまう。総集編否定派の否定的な意見・マイナス評価を覆すことは出来ない。新作公開記念でアベマでやっていた放送を見ていたとき、否定的なコメントを散々見てきましたけど、「だから新作映画でシャーリーが活躍するんでしょ、重要な役割を果たすんでしょ」の一言ではねつけてきただけに、今回の扱いは少しショックでした。続編で、本当に「シャーリーの復活」が作品に活かされるのか!?
 シャーリーが死なない以上、現実が大きく書き換えられた以上、その生存には当然大きな意味が発生する。予想のところで書いたように、シャーリーの復活がより活かされないといけない。シャーリーがいることで、生きていることで、物語で必要不可欠な大きな役割を果たす。キーキャラクターとなって、八面六臂の大活躍をするからこそ、彼女が生き返った。そうでなかったら彼女を生き返らせる意味自体がない。生き返った彼女が、メインキャラとして重要な役割を果たさなかったら、「総集編でなんでわざわざ現実改変したの?なんで生き返らせたの?」と言われることになる。無駄・不必要なストーリー改変と言われる。テレビ版で名作として完成していたものが無駄に捻じ曲げられたということになってしまう。だからシャーリーが今後重要な役割を果たさないとは考えられないんですよね。
 他所様の考察サイトで、「C.Cがシャーリーにギアスを与えて、そのギアスの影響でルルーシュが生き返る」という考察を見ました。色々なシーンからシャーリーがルルーシュの死を事前に知っていたとか、個人的にはそれはどうかな?と思うところもありましたが、ルルーシュがシャーリーにギアスを与えるのではなく、C.Cがギアスを与えるという発想・視点はなかったので、なるほどそういう可能性もあるのかと感心しました。結果、普通にコードを継承して復活するわけですが、その考察をナンセンスだとか、大外れだなんてまるで思えませんでした。そりゃ誰だって、シャーリーが復活する。死亡から生存という大変化が起これば、彼女が何らかの重要な役割を果たすだろうと思いますもの。
 総集編3部作で大きな変更=謎をブチ込んでおきながら、その続編である新作映画でそれについて一切触れないとは、一体誰が思うでしょうか?いや思わない(反語)。
 

■総集編3部作が制作された理由

 そもそも、総集編いる?と思った人も多いのでしょうけどね。シリーズ化して今後も続編を作り続ける。そういうプランが制作側にある以上、どんなにこけても大体10年、4か5シリーズくらいはシリーズ作品を作り続ける。そうなると10年後、新規が「コードギアスシリーズって面白いじゃん、一番初めの作品ってどんな感じなの?」となって、源流であるはじめての作品に回帰する。ポロロッカ現象が起こる。ガンダムファンがファーストガンダムを気になって見てみようとするのと同じ構造ですね。
  新規ユーザーがルルーシュシリーズを見に来てくれる。興味を持ってチェックしたくなるとはいえ、テレビ放送版50話もめんどくさくて観ていられない。いくら前評判が高いとは言え、配信サイトで倍速で見たとしても、相当時間を取られる。50話もかったるくて見ていられない。また、何より大きなお友達は仕事が忙しくて中々アニメを見ることが出来ない。新作アニメを見ることで忙しくて過去の大作をチェックしている時間がないし、大抵の社会人・家庭人にはそもそもそんなに時間・余暇がないですからね。長時間の大作を見るということは、どんなに前評判が高くて面白いとしても、心理的ハードルが存在する。そういう長い作品を見ること自体を忌避するユーザーに向けて、とっつきやすい入り口として総集編を作る必要があった。総集編なら大体三分の一ですからね。それで面白いと思ってもらえるかどうかはさておき、「ああ、そういう世界観なのね」と大体のところを理解して貰う必要があった。そのための総集編なのでしょうね。
 そういう意味で総集編を今から作っておく必要があったという制作側のニーズ・都合は理解できるわけですね。そこで、シャーリーというキャラクターが本編では死んでいるということになれば 、つかみとしてなかなか面白いじゃないかとハマった人は、総集編と本編の違いを知るために、じっくり50話丸々見てくれる。コードギアス沼に沈めるための半魚人みたいな役割が総集編にあるというわけですね。
 そういう諸々の事情を推察しても、アキト・総集編・復活と続いて謎が放置された展開には疑問を呈せざるをえませんね。前述通り、ここまで謎を放置し続けると、「本当にその伏線回収できるのか」とか、「広げた風呂敷を畳めるのか」という話に通じるように、数多くのポイント・疑問点を上手く次作にきっちり活かせるのか?前述通り、時間が開けば開くほど期待値は高まってしまう。散々焦らして引っ張られた分、視聴者・読者のハードルはギュンギュン上がっていく。そのハードルを本当にクリアできる作品を作れるのか?視聴者は最低でもルルーシュシリーズと同じくらい、下手したらそれよりもさらに面白いものを要求するようになる。その期待値を上回る作品・名作を作れると本当に断言できるのか?このような懸念が拭えないわけですね。
 

■次シリーズ・新作でさっさと謎の回収をせよ

 そういうことを考えると、もっと短期間で復活を作っておくべきだった。思い切って復活→総集編の順番でも良かったのではないか?復活でシャーリーをいきなり出してしまって、「あれ?なんでシャーリー生きてるの!?」という展開にしてから、シャーリー出る出る商法で総集編でシャーリーがチラホラ出てきて、ネタを提供するという方式にしたほうが、復活のテーマがブレなかったと思うのですよね。
 復活の次に新シリーズが始まることは決定しているわけですから、さっさと新シリーズをやって、これ以上期待値ハードルを高くしないようにすべきでしょうね。予想のところで書くと長くなるから止めたんですが、シャーリーはキーキャラクターとしてどういう役割が自然に思えるかと言われると、ルルーシュに付き従う形がベストだと思います。「何度生まれ変わってもルルを好きになる」と言った最期に、ルルーシュが「もし生まれ変わったならシャーリーのために…」と言ったように、二人が一生寄り添うのが自然な流れ。
 ―となると、ルルーシュ・L.LがC.Cと一緒にギアス回収に動く上で教団のようなものを作る。これまでのギアス研究組織は嚮団というものでしたが、二人の組織は以前のような組織とは違って、ごく小規模のものとなる。基本的にはL.LとC.Cのツーマンセルなわけですが、やはり何名かの信頼できる部下がいないと、ギアス回収云々のミッションはこなせない。そこで実働部隊だったり、ルルーシュと現場のつなぎ役として大事な役目をシャーリーがこなす。ジェレミアが忠臣として働くことを考えると、アーニャもついてくる可能性が高いでしょうね。個人的に、シャーリーはルルーシュとC.Cの神官とか忠実な部下になるという役割があって、そういう形で活躍をすると思ってたんですよね。無論、それを描くと映画で尺をがっつり取られてしまうので、描くことは無理。それを示唆する何か、シーンをちょいちょい挟んでくれると思っていたんですが、そういう示唆すらなかった…。まあ、それが当たっている推測かどうなのかはさておき、次作で本当にちゃんとシャーリーの復活を活かしたものを作ってくれるのか!?高まったハードルを超えてくれるのか…。かなり心配なところですね。最悪なのが、ただ生き返っただけでおしまい。「時間の管理者」云々関係で生き返っただけという展開ですね。流石にそれはないと思うのですが…。

■設定変更への不満

 最後に、一番始めに触れたギアスとコードの設定を変えたことについての不満の話をして終わります。どうして今回Cの世界が壊れたことで、イレギュラーが発生してルルーシュがギアス能力を持ったまま復活したことについて不満なのか。それはそういう後付をやると何でもありだからですね。別にコナンくんのような推理モノではないので、読み手側がラストの展開をちゃんと推理したらちゃんと当てられるように作る必要性はないわけです。とはいっても、初期設定で条件付けられたものを、あとからホイホイ変えられると見ている側が予想する楽しみがなくなる。こういう能力・こういう制限があるなら、きっとこうなるだろうという枠組みがあって、それをきっちり守るから受け手側は爽快感を感じる。予想を裏切る展開があったときでも、無理くりな超展開でないからこそ「ああ、そう来たか~。今回はこういう展開になったのか~」と盛り上がることが出来る。
 まあ、ゲームのルールみたいなものですね。後付変更は裏技やバグみたいなものであって、基本的には許されざること。そんなことがゆるされるのならば何でもありじゃないか。そんなことがありなら全て作り手のさじ加減じゃないかとなって興ざめしてしまう。
 Cの世界が壊れた、それによってイレギュラーが発生したというのは、わからない話でもない。しかし、コードとギアスという関係というのはこれまできっちり条件づけされていたこの作品のメインの設定のうちの一つ。それをあとからいじるのは個人的にかなり気に入らない変更ポイント。ルルーシュがコードホルダーとして復活したからには、ルルーシュからギアス能力は失われていないといけない。そうなるからこれまでの世界観、コードの継承話というストーリー・物語性が維持される。コードホルダーでギアス能力者・ギアスユーザーといういいとこ取りは「なんだそりゃ?そんなこと言ったら、なんでもありやんけ!」と思えてしまう。別にルルーシュがギアス能力を喪失していても、今回の映画のような活躍は描けたはず。それが尺的に厳しくなるなら、前に書いたように新キャラがギアス能力を持っていて、そのギアスを有効活用する形にすればよかった。ルルーシュが司令塔で、ギアス持ちの新キャラをコマとして戦えばよかった。
 

■より作品を面白くしてくれる・盛り上げる設定変更ならばよし

 個人的に「なんでそんなふうにしたのかなぁ…」と思いつつも、「そんなのご都合主義だろ!変な設定改変するな!」という思いがありつつも、それを許容することは全然余裕でできます。設定改変があまりよろしくないことだとしても、それによって次の物語がこれまで以上により面白くなるというのなら一向に構わない。話を面白くしてくれるポイントになっていたというのなら、構わない。「Cの世界の崩壊」というのは、一応これまでのストーリーからいって、ああそういうことだったのねと納得できる話。であるならば、まあ十分許容できるライン。むしろそれを活かして面白い話を描いてくれれば、「なるほどね。だからこういうふうに設定を変えたのね。良い変更だった。流石!」と称賛するでしょう。なので、Cの世界の崩壊とルルーシュのギアス能力保持・コードホルダーがかつてのギアス能力を復活させて使用できるというこれまでとは違う2つの変更が物語をより面白くするポイントになるのなら、全然許容範囲内。
 いくらルールを守ろうが、作品としての一貫性を保持していようがなんだろうが、つまらなかったら意味がない。創作物とはエンターテイメント。面白いかどうかが作品の絶対的な基準。つまらなかったらそこに何の意味もない。たとえご都合主義だろうがなんだろうが、その変更が作品をより面白くしてくれるものなら大歓迎。論文なら学術性・正確性というものが問われますが、当然コードギアスはアニメ・エンタメであって論文ではないわけです。面白いかどうかが創作物の要点。
 ちょいちょい触れてきましたが、結局の所、今回の映画の評価というのは、次作で面白いものが作れるかどうかにかかっていると思います。新シリーズが、新作が、きちんと今回の謎ポイントを見事に描いて読み手に爽快感・驚き&感動を与えてくれるかどうか。ハードルを乗り越えた評価を与えるにふさわしい作品を新監督が作れるかどうか次第になると思っています。

■個人的な作品への評価

 ―ということを書けば、結局今作の評価は保留で、次作次第というオチになるかと思いますが、個人的な映画の評価は?と言われたら、そりゃ100点満点ですよね。多くの人が今作を見て「同窓会だった」と表現したように、ファンにとっては動いているルルーシュ達、その後が見れるだけで満足。ゼロレクイエムで皆が望んだ世界で、どういうふうに生きているのか、実際に生きて動いている画を見れるだけでそりゃ満足しちゃいますもの。沼に沈められて半魚人化した人間にしてみれば、久々に彼らに会えた喜びで謎の喜びの舞を踊って歌って、宴を開くってなもんです。
 疑問や不満があっても、映画という尺制限の中でしっかり一つの作品を作り上げてくれたこと。コードギアスというこの素晴らしい作品を世に送り出してくれた谷口監督に尊敬の念、敬意を表せざるをえませんので。谷口監督やこの作品に関わった大勢の制作スタッフ皆さんに、本当に有難うございましたという気持ちでいっぱいですね。このような素晴らしい作品を作ってくださった人たちにどうお礼を言えばわかりませんが、一連の駄文をもって感謝の意を捧げたいと思います。

アイキャッチ用画像

今、こんなコラボ?商品あるんですね。ルルーシュテディベア…そういうのもあるのか!ゼロマスクはついてないのかな?ギアスにハマったおじさん・おばさんが子供のプレゼント用に作ったのかな?確かに買ってあげたくなりますね。

*1:ちなみに個人的には、男女の恋愛関係で終わったとは捉えていません。無論、別にルルーシュとC.Cの二人に男女の恋愛関係があってはならないとか、そういう関係性が存在していないと言いたいわけではなくて、二人の絆はそれを含めたもっと大きな絆・関係性で包括されている。共犯者という枠組みがあるように、二人は特別な人間関係で結びついている・紐帯があると考えたほうが適切だと思います。長い時間、苦しい戦いを共に乗り越えてきた戦友に近しいものがあると。これを語ると長いし、いまいち自分で整理しきれていないのでこんなところで。

*2:6話って書いたけど、6話じゃ大して変わらないですね。1話=30分じゃなくて、24分位ですからね。3時間位の尺を取るなら8話か9話くらい必要ですね

【コードギアス解説・考察】 Re; 「繰り返し構造」の解説補足②

―の続きです。前回は作中で語られた「昨日の世界」「今日の世界」「明日の世界」についての解説をしました。初めに語ったように、コードギアスという物語・作品では「繰り返し」(繰り返す)ということが非常に大事なテーマとなっています。前回は、そういう話をしたわけですが、では、なぜ「繰り返し」が大事なのか?ルルーシュがゼロ・レクイエムでもたらした「明日の世界」とどう関わってくるのか、そんな説明・解説をここでしてみたいと思います。
 前回述べた通り、シャルルの「昨日の世界」とシュナイゼルの「今日の世界」では変化がなくなります(シュナイゼルの「今日の世界」では多少はあるんでしょうけどね)。日常の「繰り返し」による積み重ねが否定されます。しかしルルーシュの「明日の世界」では、それがこれまで通り続く。人が「繰り返す」ことで、自助努力によって、未来を切り開いていく世界なんですね(まあ、いちいち解説するまでもなく、普通に見ていればわかる当たり前の話なんですけどね。わざわざこんなにダラダラ書いて解説する意味あるのかってレベルになるんですけども)。
 前二者の世界では、変化・努力・「繰り返し」は否定されます。押し付けられた理想の下で、人々は選択の余地なく・否応なくその世界で生きていくわけですからね。しかし何度も解説したように、ルルーシュの世界・「明日の世界」ではそうではない。これまでどおり人々の自由意志による選択の世界、「繰り返し」の世界になります。―とまあ、だいたいそんなことを前回書いたわけですが、今回はその「繰り返し」構造・「繰り返す」ということの意味を更に掘り下げて解説していきたいと思います。

 

[目次]

 

■変化なき平凡な毎日の積み重ねの上に明日はある

 「繰り返し」の果てに明日がある。一日一日、同じ毎日の「繰り返し」の果てに明日があるわけですね。平凡な、時に退屈とも思える毎日の繰り返しの果てに未来がある。何の変哲も無い凡庸とも思える一日の積み重ねの果てに成功・成果はある。一日、一時間、一瞬を大事にすることで成果、未来はある。まあ特に強調して言うほどのことでもない、当たり前すぎるほど当たり前のことですね。
 同じ単調な毎日を繰り返すことに人生はあるーと、以前どこかで書いたがするのですが、ちょっとどこで書いたかわからなくなったので、今一度改めて書いておきました。
 そして、当然毎日同じことをただ繰り返すだけではなく、そこには変化が含まれるわけです。エヴァンゲリオンなんかでもホメオシスタスとトランジスタシスという話がありましたね。維持しようとする力と、変化しようとする矛盾した力が同時に働くというように、人は同じ毎日を維持しながらも、より良いものに変えるために自分にとって新しく好ましい何かを取り入れようとする。もしくは好ましくないもの、悪いものをなくそうとしようとするわけですね。そうやって人は違うもの・変化を求めて生きていくわけです。
 生きていく上で同じ毎日を繰り返すとしても、少しづつ変化がある。幼稚園から小学校、中学校・高校・大学へと進学していくにつれて、似たような生活を繰り返すとしても少しづつ変化していく。就職して仕事をするようになり、会社に勤めるようになって大きく変わるとしても、根本的な部分は変わらない。学友が仕事仲間・同僚に変わったり、付き合う友人が変化したとしても、友人と遊ぶこと自体に変化はない。共通の趣味を持つ人と交流する・サークルで遊ぶこと、地域の人々と関わって交わること、恋人と遊ぶことなどといったサイクル自体に変化はないわけですね。学友との勉学というものが、同僚と仕事というものに変わるだけで、大まかなサイクルに変化はない。結婚して子供を産んで新しい家庭を築くということになると、親になって子供と共に生活するようになると、そこに大きな変化が生まれますが、そこからはまた新しい環境下での同じ毎日の積み重ねになります(もちろん一般論であって、この形態から離れたパターンをたどる人生もいくらでもあるでしょう)。
 一見、何の変化もない単調な毎日、退屈な毎日の中で、自分のなすべきことを積み重ねたものにこそ明日がある。アスリートなんか典型的、わかりやすい事例ですね。毎日の鍛錬・練習で少しづつ身体を強くしたり、技術を覚えていき、ある日花開き一流選手の仲間入りをする。元から才能があろうがなかろうが、花開くまでに長い時間かけた積み重ねがそこにはある。そしてその努力が大舞台、オリンピックやプロスポーツの最大規模の大会での勝利・優勝という形で結実する。アスリートなどは誰から見てもわかりやすい称賛の場・舞台がありますが、一般の人にはあまりそういうハレの舞台というものがありません。
 だからといって、自分は凡人だから、そんな大舞台もないから、何もしないなんていうのは論外なわけですね。どんなことであれ、毎日の努力・鍛錬なくして結実することはない。実を結び、花開くことはない。成功や幸せのために毎日を大事にするというのは当たり前すぎるほど当たり前のことですね。鴨川会長的に言うと、「努力したものが成功するとは限らない。しかし成功したものは皆すべからく努力している」というやつです。
 

■人生における繰り返しは毎回同じ、教訓が生かされるとは限らない

 1期をR2で「繰り返した」というのは、その積み重ね・努力の結実というものを表現したからと見るべきなんでしょうね。人生という長いスパンを考えれば分かる通り、人間は毎回毎回成功するわけではない。一度失敗して学習して成功することもあれば、その反省から対策を練って挑んでも、違う要因からまた失敗することもある。またこれまで上手くいっていたのに、今度はダメになってしまうということもある。だからこそ以前解説したとおり、以前はダメでも上手くいったパターンもあれば、逆に今度は上手くいっていたことがダメになったパターンもある。プラスの「繰り返し」だけでなく、マイナス・失敗した「繰り返し」の事例が見られるわけですね。
 この「繰り返し」構造を理解した上で見ると、ルルーシュやスザクが、何度も何度も試行錯誤を繰り返して、失敗を乗り越え犠牲を払いながらも、努力の結果好ましい成果・答えにたどり着いたということがわかりますよね。
 そして作品のポイントになるのが、全く同じ形で繰り返さなかったこと。何度も「繰り返し」失敗や苦難を乗り越えるということを言いたいのであれば、本当に1から10までなぞらえる話にすればいい。ところが実際はそうならなかった。なぜ、そうしなかったのか?全てなぞらえなかったのか?
 

■「繰り返し」構造の外にあったオレンジ・ジェレミア卿は、コードギアスという作品のテーマの体現者(インカネーション)

 この疑問を理解するのに最も適した事例がジェレミア卿こと、オレンジ卿ですね。なぞらえる形だったら、彼はクソ雑魚ナメクジ、噛ませキャラとして瞬殺・フルボッコにされて、さらなる改造を施されて心中or水没というパターンを辿るはずなのです。創り手側がそのようにしなかったこと、そのママ同じ形でいじられ&笑われキャラとして描かなかったことに当然意味があるわけです。
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( 1期ではオレンジ畑を耕せと言われたり、紅蓮の輻射波動を受けて瀕死になって使えないやつ扱いされた挙げ句、人体実験で改造人間にされてオシマイでしたね。「おはようございました」とか「後ろをバック!」とかの名言を吐く完璧なネタキャラでした)

 1期の「繰り返し」路線にあてはめていたら、ネタキャラとして顔芸の一つでも披露してあっさりやられるとなるはず。しかし実際は、ご存知の通りルルーシュの忠臣としてずっとルルーシュに付き従い、目覚ましい戦果・功績を上げるわけですね。最終的には最後の戦いで、ラウンズの中で最強のナイトメアと言われるモルドレッド(ハドロン砲などの火力と装甲の硬さが突出しているだけで最強ではなかったかな?)と戦い、見事勝利を収めるという大活躍を見せるわけですね。
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(爆発するジークフリートの中に小型のサザーランドを仕込んでおき*1、自爆戦術で勝利を収めるという劇的な勝利に大興奮しましたね。オレンジ好きすぎて無駄に画像貼りまくってますがご容赦を(笑) (_ _) ) 
 ダメ人間(実際はちゃんとした実力者でしたが)から、忠義の士・英雄へと劇的に作中の中で評価を高めたオレンジことジェレミア・ゴットバルト。「繰り返し」構造から外れて、見事なまでに成長・進化し、成功を収めた。望むべき結果を手に入れた。「負の繰り返し構造」から脱して、「正の繰り返し構造」・望むべきルートにたどり着いたわけですね。これがポイントの一つ、彼もスザクやルルーシュと同じように、どんなに辛くてもバカにされ笑われても努力の結果、這い上がって望むべき道を切り開いた。望む世界を、未来を手に入れたのですね。同じ日常を繰り返しながら、努力の果てに積み重ねた変化の上に結果を出す。オレンジというキャラクターこそコードギアスのテーマを体現・インカネーション(化身・受肉)した人物と言えましょう。

 

主義主張は立脚点によって容易に変化するもの

 見事な戦いっぷりと忠義心から忘れられがちですが、彼は純血派というレイシストであり、日本人を人間とみなさず(みなした上でかもしれませんが)、人狩りに興じる人間のクズ。汚物は消毒だぁーとヒャッハーする手合いと同じ、典型的なクソ野郎だったわけですね。スザクをクロヴィス殺害の実行犯に仕立て上げて、疑似クーデターで実権を掌握しようとしていたり、クロヴィスの葬儀を取り仕切ることでさらなる出世をしようとしたり、家柄・貴族であることを鼻にかける嫌なやつだった。だからこそカレンにオレンジレンジされるシーンで視聴者がプークスクス&ざまぁと溜飲を下げる事ができたわけで。そういった元々クズ人間だったという要素を見落としてしまうとわからなくなってしまうんですよね、創り手のメッセージが。
 ブリタニアの皇族を守るという彼の主義主張と関係なかった頃は、ただのクソ野郎に過ぎなかったのが、ルルーシュが皇族だとわかると手のひらをころっと返した。皇族に仇なすゼロを執拗に付け狙う狂人が、忠犬オレンジ公として一心不乱に忠義を尽くし、戦場で輝き続けた。スザクに次いで頼りになる欠かせない存在にまでなった。ゼロ・レクイエムに最後の最後まで付き従った唯一人の人間ですからね。
 しかし、日本人・イレヴン視点から見てみると*2、最後まで「オレンジ野郎!オレンジ畑でも耕してろ!」と憎まれ、蔑まれる存在であったことを見落としてしまうとわからなくなってしまう。立場や状況が変わったからこそ、最高の頼りになる忠臣として評価を高めましたが、逆の立場だったら味方の時は全く使えなかったくせに裏切って敵になった途端、無茶苦茶強くなるという最悪の人間。RPGの小ボス・中ボスで出てきたキャラが味方になると途端に弱くなるやつかな?と思わせる感じの人間ですからね。
 なぞらえるのが基本構造でありながら、このように敵の底辺から味方の頂点にまで上り詰めるという全く異なる展開を見せるものも当然あったわけですね。敵だったものが味方に、味方だったものが敵にと、全く立場が真逆に入れ替わったのは、勿論彼だけではありません。ジェレミア卿・スザク以外にも黒の騎士団、そして何より皇帝となったルルーシュですね(そしてゼロ=ルルーシュを憎むニーナ)。これまで述べたとおり、人生だって単純な形で全く同じようには「繰り返さない」。時には劇的な変化が起こるもの。そういう性質を示唆しているように思えますが、ここで言いたいのはそれだけではないでしょう。人間は、その時の状況・立場によって、視点によって、主義主張はいかようにも変化しうるものだということですね。
 

■正義も主張も人の数だけある。誰が正義で誰が悪か、誰が正しくて間違っているかという善悪論・正誤論は無意味

 黒のキング=ゼロが、白のキング=皇帝にママ入れ替わったように、敵対する者でも、所詮立場が異なるということに過ぎない。どちらが正しいとか、間違っているとかそういう善悪論がいかに意味のないものに過ぎないかというのを、如実に示していますよね。この敵・味方陣営の劇的な入れ替わりは。最後にスザクとカレンが戦うシーンがあります。
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「私達のすれ違いに決着をつけよう」と戦い、「組織に入って中から変えようといっても、組織に入れない人間はどうしたらいいの?それが間違っているってどう言ったらいいの?」と言っているように、カレンは半分ブリタニア人の貴族なので組織に入ることは出来たでしょうが、間違ったやり方で支配したブリタニアを認められず、テロ組織に参加した。何よりその他大勢の日本人ははじめから組織から排除され虐げられたわけですから、なおさらそういうものに参加しようとは思えなかったのでしょうね。
 スザクは「組織に入るしかなかった人間はどうする?」と言っているように、生まれながらの名門で存在自体が特別な出自を持つスザクにとって、組織に入らないということはありえない。生まれたときから既に選択の余地のない運命に巻き込まれていたと言えるスザクにとっては、他に選択肢がない。そういうことを考えれば、二人共初めから自身の性格の問題という要素があれど、選択の余地がなかったと言えます。
 立場が違うものが最後にぶつかり合って、お互いの主張をぶつけ合うわけですが、当然、どちらが正しい・どちらが間違っているという話ではない。お互いとも主張があり、正義がある。異なるそれをぶつけ合っただけで、決してどっちが正しかった・間違っていたなど断ずることは出来ない。そこにあるのは戦って、負けた・勝ったという事実、生き残ったか死んだかという事実だけなんですね(たまにスザクが正しいor間違っている。カレンが正しいor間違っているといった類の話をする人を見ますが、根本的に読み取れていないとしか言えないですね。そもそもそういう次元の問題ではないわけですから)。*3
 そもそも論で言ったら、スザクもカレンもルルーシュもジェレミアも、作中のキャラは全員悪逆非道のクソ野郎ですからね。スネに傷のないキレイ子ちゃん、正義・善の士・キャラクターなんてそもそもこの作品ではいませんからね(いるとすればユーフェミアくらいですかね?)。そういうのは問題にならないというか、結果を出す上で、正義や善という誰もがそう有りたい。キレイな主義主張のまま望むべき大成功・結果を出して人生をキレイに終えることなんて出来ないという、人が人生を生きていく上で当たり前のことが描写されているだけですからね。*4


■「繰り返し」構造=「繰り返さなかった」構造でもある

 「繰り返し」構造があるからこそ、「繰り返さなかったこと」についてもまた注目が集まる。焦点があたることになるわけですね。先に論じたオレンジもさることながら、一番のメインはやはりルルーシュとスザクの二人。スザクとルルーシュというライバル、親友でありながらも対立せざるを得ないという悲劇の構造は、ある意味すれ違いを克服してわかり合って手を取り合うことが出来た(目的のために手を組んだだけで、わかり合ったとは言えない可能性もあるので、一応ですね。それでも一つの目的のために共闘するという友好的な関係は築くことが出来たので)。
 この男同士の問題、男と男の友情という関係性では、対立を乗り越えることが出来たが、カレンとスザクという同じ日本人のエースパイロット同士というライバル対立は克服することが出来なかった。1期のラストでわかりあえなかったルルーシュとスザク二人のすれ違う悲劇をこのパターンでなぞらえたともみなせますね。何から何まで世界を思い通りにする、人と分かり合うというハッピーエンドよりも、悲劇を克服出来なかったパターンをきっちり差し挟んでくるのがまた憎い演出ですよね。
 典型的なハッピーエンドとしては、悲劇を克服した事例としては、支配者と被支配者という図式で対立したブリタニア(人)と日本(人)ということなんでしょうね。この図式も、ユフィとスザクに始まって、ジノとカレン。そして何よりヴィレッタと扇死ねで対立する構造が変わって、乗り越えられていったとみなすことが出来ますね。一応シュナイゼルと黒の騎士団が手を組んで憎きルルーシュ皇帝と戦った。共闘したことでも絆を築いたとみなせますからね。
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 扇とヴィレッタが結婚する写真で右側がヴリタニア人で、左側が日本人や中華連邦の人間、インドのラクシャータもいますね。敵対してきた陣営同士の人間が結びついた、わかりあえた象徴としてこの二人の結婚が最後に出てくるわけですね(そういうメッセージを込めるために、扇とヴィレッタが恋に落ちて結ばれるというプロットだったのに、なんにもしてないくせに褐色美女を嫁にして孕ませて、首相という座に迄上り詰めるとは…と視聴者の憎しみをダモクレスや皇帝ルルーシュ以上に集めてしまうという…(笑)。監督も脚本もまさかこういうふうに受け止められるとは夢にも思っていなかったんでしょうねぇ(^ ^;) )。
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 何より最後のシーンで扇首相とナナリーが握手をしているシーンが象徴的ですよね。もし「繰り返し」構造ならば、再度ヴリタニア側のイレブン虐殺という展開になるはずですからね。言うまでもなく、そういう負の繰り返し構造を打破して、正の好ましい繰り返し構造・ルートへと導いたということですね。
 まあ、まだまだいくらでも「繰り返し」構造と逆に「繰り返さなかった」ことで視聴者に伝えたかったこと。監督や脚本の主張・メッセージを読み取ることが出来ると思いますが、時間の都合上、今回はこんなところで。というかかなり忘れているので思い出したら、また追記したいと思います。

 長いのでシーン対比の解説を分割しました。続きはこちら→ 【コードギアス解説・考察】 Re; 「繰り返し構造」の解説補足 1期と2期の対応シーン:スザク救出劇とゼロ・レクイエム&ルルーシュ≒ユフィ

※19/3/27分割、加筆修正。&シャーリーの話追記。 
 忘れていた。シャーリーの話を追記しておきます。何よりシャーリーが死ぬ時に言ってましたよね。「何度生まれ変わってもルルを好きになるから」と、シャーリーがそう言ってたところでわかりますよね。せっかく忘れさせてくれたのに、記憶をいじられてもまたルルを好きになった。もし次生まれ変わることになったとしても、何度でも何度でもルルーシュを愛する(※ちなみにここでシャーリーが言ったことは、孤独なルルーシュを支えたい・助けたい・守りたいということですね)ことになるだろうって。シャーリーはやり直しても成功出来なかった、結果にたどり着くことは出来なかった。でもルルーシュを愛して死ぬことになった結果ついて微塵も後悔することもなかったし、恨み言一つ残さなかった。ユフィも同じ、スザクに「あのルルーシュのくそったれ野郎にはめらたけん、スザクどん。おいどんの仇をとってくりゃれ。あいつの首をとって墓前に捧げてつかあさい」なんていう恨み言を一ミリたりとも吐かなかった。自分の行動・結果に後悔せず、愛する人のことを心配して死んでいったわけです、だからこそヒロインとして輝いているわけで。「土の味」のところで、ルルーシュはスザクに一切言い訳をしなかった。全て自分の責任だと一切合切の出来事・行動の結果について責任を引き受けた(政治的に言うと、政治家として結果責任を引き受けたということですね)。かのように自身の行動の結果をすべて引き受ける覚悟こそ未来を切り開く非常に重要な精神なわけですね。

 何度でも諦めずに立ち向こうと。そしてそこで起こる出来事の結果について責任をすべて引き受けること。それこそが大事だというメッセージは非常に素晴らしいですよね。だからこそ名作として輝き続けるのでしょう。

*1:今頃気づきましたが、これ小型のサザーランドを仕込んでおいたんじゃなくて、V.Vとの戦いのあとでサザーランドを埋め込むことで補修していたんですね。第二次東京決戦の時に既にサザーランド搭載型になっているの今更知りました

*2:ルルーシュブリタニア側の一部も敵に回ったのでブリタニア人でも憎んでいるかもしれないですけどね

*3:※無論、勝利・敗北のあとの戦後処理が拙い・巧いという話が出てくるものですが、この作品では、最後の決戦でそういう拙いことをするケースが見られないので特に触れる必要性もないかと思います

*4:という背景があるので、STAGE21「学園祭宣言」でユーフェミアが行政特区日本の構想をぶち上げた時、ルルーシュはブチギレするわけですね。自分が大変な努力をして、自分の手を汚してまでようやく積み上げたものを、必死に作り上げてきたものを、キレイ事ばっかり抜かすアマちゃんに台無しにされたわけですから。善意から生まれた悪意・悪事であるだけに、なおさら怒りの火に油が注がれたというわけですね。 
  何の苦労も知らない皇族サマがなにナメたこと抜かしてんだ!とブチギれるわけです。お前に俺のような汚れる覚悟があるのか!卑怯なこと、悪事に手を染めてまで人々を救おう・結果を出そうという覚悟があるのか!善意で世界が平和になるなら苦労しねぇんだよ!このお遊び感覚のおままごと皇女がと!だからこそ「汚れてもらうぞユーフェミア!」となって、自分を騙して銃で撃つ卑怯者になってもらうつもりだった。結果、卑怯者と糾弾されて表舞台から消える・失脚する。最悪日本人に殺されるというプランをルルーシュを持っていたという話の展開だったんですよね。自分はある種ユーフェミアを「殺す覚悟」があった。しかしユフィは逆に「殺される覚悟」があった。だからこそルルーシュはそのユフィの思いを知って、心を打たれて方針を変更したわけですね…(涙)

【コードギアス解説・考察】 新作映画『復活のルルーシュ the Re;surrection』についての事前予想というか雑感

 こんなちょいネタ書くために久しぶりにブログを更新しましたが、まあ、そんな大した話でもないんですが、気になったので書いておきます。コードギアスは本当にハマったアニメなので、劇場版商法で足を運ぶことがない人間ですが、制作会社の思惑にハマってホイホイ観に行こうと思ったので、事前に観る前にどう思っているかということを書いておきたいと思いました。

 というか追記した時に、書きましたが、総集編だと思って観に行かなかったんですよね皇道とか。シャーリーが生きているとか本当最近知って、最後の3作目だけでも観に行こうかと考えたら、もう近場で公開しているとこがなかったので諦めたくらいです。で、公開終わってから、3作チェックしたので気づいたこと、気になることを書いておこうかと。ギアスブロガーとして書かねばならぬ、何事も。ギアサーの姫として、姫サーのホモとして(意味不明)。

 映画とか、もう何年も観ていないんですよね。5~6年前かな?観に行ったの。観に行くきっかけがないと本当観に行かないですね、映画って。どうしても観たい作品なんてまずないですからね。しかし、コードギアスが新作映画をやるとなったらそりゃあ行くしかないでしょと。

 

■ 新作映画では「繰り返し」構造が否定される

 で、前回からの続きですが、ここで書いたように、 『コードギアス』という作品は、「繰り返し」構造になっている。「繰り返し」ているという事実を指摘したわけですが、総集編3部作映画ではなぜかシャーリーが生きている。これについてどう考えるべきなのか?シャーリー生存ルートということなのか、それこそシュタインズゲートの違う世界線という概念から、世界が修正されたみたいに考えるべきなのか?

 まず、我々にとって言えることは、新作映画はこの「繰り返し」構造を否定したものになるということですね。コードギアスが巧いのは、今回の新作映画・劇場版を劇場版商法だ!と否定できないことです。というのも、コードギアスという作品が、「繰り返し」構造で2期50話で完結した。もしもう1期、続編を作るとしたら、R3でもV3でも、OOでもSEEDでも∀でも、シリーズ名はなんでもいいですが、作るとしたら、25話で同じようになぞらえて作らないといけない。もう一度「繰り返し」構造に当てはめて作らないといけない。それがどれだけ難しいかは言うまでもないでしょう。そして何より、もうその「繰り返し」が理解されてしまった以上、興醒めというかコードギアスの売りである作品のヒキと次回の急展開・驚愕の展開というものが無くなってしまう。人気・魅力が半減とはいかずとも、かなり損なわれてしまうことになるのは間違いないでしょう。

 だからこの「繰り返し」構造を否定するのは当然すぎるほど当然すぎる結果ですね。

 「時空の管理局」が時間をさかのぼって過去を変えた、死者を生き返らせることも自由にできるとかなんとかかんとかありますが、そういう話を置いといても、シャーリーが生き返った結果から、間違いなくこの「繰り返し」構造は明確に否定されることになりますね。

 総集編がカットの雨あられで「えーここカットしちゃうの~」ということがあったかと思いますけど、尺の都合という他に「繰り返し」を意識させる部分のカットという意味合いも大きかったのでしょうね。1期と2期の出だしがそっくりな展開であるのは、誰が見ても一目瞭然。その2期の出だしをまるまるカットしたというのはそういうことなんでしょう。多分、繰り返し展開で残されていたのは最後のシーン。ユフィの虐殺とゼロ・レクイエムくらいでないかと思います。流石にここをカットすると話自体がわからなくなるので、カットして「繰り返し」構造を否定するというのは不可能でしょうからね。あとは、ロボットアニメにふさわしく見栄えする戦闘シーンを極力残すようにしたというところでしょうか。

 新作カットとしてディートハルトを殴ってボコボコにしたと思われるカットがありましたが、報道屋・政治に介入して歪曲しようとするものに対する批判のメッセージが追加されていましたが、そういえば、実はコードギアスは報道の問題とバットエンドという視点があるという話をしていなかったなぁと思い出しました。書いてる時間は勿論ないので、新作映画を見たあとにでも書きましょうかね。*1

 また、最後にルルーシュが死ぬシーンで、過去の思い出・回想がフラッシュバックしていくシーンが、現実から過去へとさかのぼっていくのではなく、逆になっていた。総集編映画では、過去から現在へと順になっていくように変わっていました。また、過去に帰って一からやり直すというメッセージが否定されたことからも、明らかだと思われます。新しい展開、新しい物語、新章突入!ということが想定されますね。

 

①シャーリーの生存*2

②繰り返し・なぞらえたパターンが殆どカット

③フラッシュバックが過去にさかのぼるのではなく、時系列順に展開

 

 ー以上の3点を考えると、新作映画では「繰り返し」は起こらず、新編ストーリー・新章展開になる可能性が強いと思われます*3。マリアンヌという最強のラスボスがより強くなって復活してくるパターンが有るのでは?と思ったんですが、PVなんかを見ても、どうも普通におニューの敵キャラ・勢力登場&バトルで終わりそうですね。マリアンヌ対決も観てみたいんですけどね、ジェレミアが戦うかどうか迷いそうですし。

 余計な話ですけど、ジェレミアはマリアンヌがCの世界で滅ぼされたのを知らないままだったのかなと思ってましたけど、最後のゼロ・レクイエムでルルーシュの望みをただ優先して聞き入れたのではなく、マリアンヌの悪事を聞いて、ゼロ・レクイエムのプランに賛同したんでしょうね。純血派で身分・出世のことしか考えていなかったヴィレッタが最終的に愛によって信念・主張を変えたように、ジェレミアもルルーシュの想いに触れて、純血派という思想も皇帝・皇族への忠義という思いも、ルルーシュという個人に対する忠誠へと昇華していったと考えるべきでしょうね。

 アーニャとのラストバトルも、過去のマリアンヌとの決別を意味する戦いなのでしょう。キャンセラーで記憶を取り戻したアーニャが恩義に感じて、ジェレミアのみかん畑・農業を手伝うという絵だと思ってましたが、ジェレミアの贖罪でもあるのでしょうね。マリアンヌによって人生をぐちゃぐちゃにされたアーニャ、マリアンヌという人間に忠義を捧げていたジェレミアにとって、間接的に自分が彼女を傷つけたも同じ。その彼女を支えてあげようという人間、柑橘類の鑑ですね。まあ、そんなことを考えると、そこまで悩みもしないんでしょうけどね。

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■個人的に気になるポイント・見所

 で、新作映画で気になるポイントとしては、シャーリーの生存でルルーシュの想いは一体どうなるのか?シャーリーとの純愛物語となって、C.Cは放置なのか?

 stage15「喝采のマオ」で「シャーリー、お父さんのことはすまなかった。もし生まれ変わることが出来たら…君に…」(多分、「一生をかけて償いをしたい」とでも言うようなセリフが続くのでしょう)とか、そういう事を言っていたので、この伏線を回収する。

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 またturn13「過去からの刺客」でシャーリーが「ルルを守りたい。取り戻してあげたいの、ルルの幸せを。妹のナナちゃんも一緒に」と言ったこと。シャーリーがルルーシュを守り、妹のナナリーと平和に暮らせるような努力をしてハッピーエンドにたどり着くという展開になるのか。そしてルルーシュがシャーリーの死に際して、「死ぬな!」というギアスをかけた。

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この願いがギアスという能力を通じて、シャーリー復活に繋がったのかという点が気になるポイントですかね。

 そして最終回turn25 「Re;」で、ナナリーが「目を開けてくだい、お兄様」と言ったこと(願い)が、ルルーシュの復活となって繋がるのか、「私はお兄様だけでよかったのに、お兄様のいない明日なんてそんなの…」(この後に続く言葉は、「一体何の意味があるんですか?/何の意味もないじゃないですか」でしょう)という言葉通り、ルルーシュの復活で兄と幸せに暮らすというナナリーの願いが果たされるのか?

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 また、stage3「偽りのクラスメイト」での折り鶴を千羽折ると願い事が叶うというくだりで、ルルーシュがナナリーに願い事を尋ねた時、ナナリーは「優しい世界でありますように」と言いました。

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ナナリーの願い事は「優しい世界」でした。「創らねば…。ナナリーだけでも幸せに過ごせる世界を…」とルルーシュは心の中でつぶやいたわけですが、救うべき・守るべき対象がどんどん拡大されて、最終的に対象が全人類・世界まで広がったわけですね。

 ルルーシュは「お前の目が見えるようになる頃には、きっとそうなっているよ」*4とナナリーの問いかけに返して、ナナリーと指切りをします。目が見えるようになったナナリーに、「優しい世界」を見せてあげるという約束を果たしたわけですね。

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 でも、「焦らなくても大丈夫だよ、俺はどこにも行かないから」「俺は嘘はつかないよ、お前にだけは」と言っているのに、姿を消してナナリーの前から消えていなくなってしまったし、ナナリーに嘘をつきまくったので、指切りの約束通り針を千本飲むかどうかですね、見どころは(笑)。

 

■よりハッピーエンドで皆救済される大団円エンドになるのか!?

 より視聴者に爽快感というか、ああよかったよかったという結末。ハッピーエンドにするのならば、C.Cとルルーシュのコードが失われる展開になりますよね。コード保持者である限り、C.Cとルルーシュが永遠に生き続けるということしかなくなる。シャーリーもナナリーもそういう辛い思いを見続けるという展開になるとは少し考えづらいような…?

 スザクも共に罰を背負ったことになったわけですが、新作映画でその罰がコード放棄で贖われ、スザクも偽りの英雄ゼロの仮面を被り続けるという罪や呪いから解き放たれるという、さらなるハッピーエンド展開になるのか?シャーリー生き返ったんだからユフィもなんとかなるんじゃないの?と思うのも当然なので、そういう展開があるのか?

 谷口監督が新作発表PVみたいので、ルルーシュが復活して登場することを明言してますので、シンクー(星刻)の「死ぬ死ぬ詐欺」みたいに、ルルーシュ「出る出る詐欺」みたいなことはやらないかと思います。映画一本できっちり完結するようなことを言ってましたので、無駄な引き伸ばし&引き伸ばしで、実は三部作でした~。ルルーシュ登場は次回!また見てギアス!はやらないと思います。まあ、仮に出る出るやっても完結まで観に行くと思いますけど。

 コードギアスというドル箱をそう簡単に手放せないから、また三部作で劇場版商法では?という声もありましたが、「時空の管理者」とか「青のギアス」とか、コードギアスという世界観・舞台で色々な謎や設定がまだ残っているので、舞台や世界観をそのままにして、アキトみたいな別のシリーズで続きをやるのでは?と考えています。

 なんとか公開前日ギリギリに書き終わることが出来た(笑)。公開日の2/9には観に行けないですが、その翌日には観に行きたいですねぇ~。

 

※追記:事前予想ですら、書き忘れていたことがあった(^ ^;)。当たり前すぎることかと思って書かなかったという要素も多少はありますが、まあ一応。ちゃんとネタバレにならないように配慮して書いていますのでご安心を。

 「ルルーシュの復活」で間違いなくルルーシュが出て来る。が、最初に(早いうちから)何のもったいぶりもなく、ババーンと出してしまって、「日本人よ!私は帰ってきた!」的に、ルルーシュがでた~~とやって、あのルルーシュが事件を解決していく。カッコいいルルーシュを描くのか。それとも、みんなで頑張ってルルーシュの復活を手がけて最後の最後でようやく、ルルーシュが復活のパターンなのか。復活させたルルーシュを取り囲んで、皆して喜ぶ。ハッピーエンドの後日談話をチラホラやって、よかった×2的な話になるのか。

 ―といった、大まかな2パターンが考えられて、そのどちらになるのかという事前の気になるポイントがありますね。というのも、ルルーシュが復活する=コード継承でコードホルダーとなった今、ルルーシュはギアスが使えない。ギアスによる絶対遵守の力がない以上、指揮官としての知略・戦略しか頼れるところというか、見せ場がない。「コードギアス」と言いながら、作品の売りの一つであったギアス能力がないということになる。お約束・おなじみのギアス能力によるギアス無双、言う事聞かせて操るギアス芸が見られないことになる。

 まあ、別にギアス能力なくても、さすがルルーシュ!さすルル!は描けることは描けると思うんですがね。そういうギアスなしのルルーシュ、わさびの入ってない寿司、ネタがのってないお寿司=シャーリーみたいな感じになるのでは?という懸念があるので、ルルーシュが出るのは最後の方になる。ルルーシュよりも他のキャラが主体で話が進んでいく展開もあるように思えます。

 また、気になる点として、コードホルダーのルルーシュがジルクスタン王国と戦う上で、普通に戦って何の問題もなく勝ちました。余裕でしたーとなることは考えにくく、多少は苦戦する。そこで既存のキャラの誰かにギアスを授けるのでは?という予想が当然出てきますよね。例えば、カレンとかシャーリーに、ギアスを授けることでその新しいギアスを使うことで、勝利を収めるというパターンですね。

 勿論、ルルーシュのこれまでの歩みを考えると、ホイホイカレンやシャーリー(他の誰でも良いんですが)に、勝つために、未来や世界のためとはいっても、ギアスを与えるかと言われると疑問。その前提をどういう理由でお互い、与える側と与えられる側が乗り越えるのか。そしてその結果、どういう未来が訪れるかということですね。やむを得ず強制的にギアスが与えられてしまった的な展開も考えられることは考えられますかね。やらなきゃ死ぬ、一か八かギアスを授けたとか、何らかのイレギュラーで「うっかりギアス」みたいに「うっかりコード継承」に続いて「うっかりお授け」とか。

 一番有り得そうなのが、新キャラですよね。コードホルダーのルルーシュが、新しいキャラクターを連れていて既にギアスを与えている。んで、ルルーシュの言う通りに動いて、敵をギアスでバッタバタやっつけてEND。んでもって、コードギアス新シリーズの主役、もしくはキーキャラクターとなって出てくるとか。これまでの物語のまとめと同時に新シリーズのつなぎという展開が一番有り得そうに思えます。

 あと、まだなんかあった気がしますが、思いついたら追記します。※追記、ああ、そうそう。前の記事読み返して思い出しましたが、ルルーシュとスザクの対立はすれ違いという悲劇は乗り越えられたけども、ブリタニアと日本人&その他の対立も解消されたけど、スザクとカレンの二人の対立、すれ違いという構造は原作では最後まで解消されなかった。映画で当然二人のエースパイロットが出てきて、共闘するはずですから、そのすれ違いがどういう着地点を見せるのかという見所もありますね。神根島のようなお色気シーンがあるのか!?R2でカレンが捕虜になったところで、カレンがスザクを対戦格闘ゲームばりにボッコボコにするようなシーンが見られるのか!?注目するポイントの一つですね(笑)。

*1:「力の支配」の否定の話とか、本当作品解説で大事なことを書いてない。結構重要と思えることでも書いてないこといっぱいあって笑えますね。(^ ^;)

*2:最初、幽霊的な何か。そういう可能性も考えて、実はやっぱり死んだまま。幽霊のシャーリーが、勝手に喋って勝手に行動しているだけという某有名映画のような可能性も考えたんですけど、普通に会話しているのでその可能性はないでしょう。

*3:そんなこと言ったって、タイトルに「Re;」が入ってるじゃないか。繰り返しを象徴する「Re;」が入ってるのはどういうことなんだ!?という思いがありますが、そんなことは知りません(笑)

*4:どうでもいい話ですけど、創り手(監督・脚本)が言葉遊びが好きな人だと思うんですけど、「目が見えない」・「目が見える」という言葉は「女神」とかけてるんですかね?マオも多分、魔王をもじった名前なんでしょうね。偽魔王との対決を制して、本当の魔王となった的な