書評― 経済はナショナリズムで動く/中野 剛志の続き
国益を言い換えただけじゃね?
で、終わってしまうんですよねぇ(^ ^;)。国家という政治単位が厳格に存在して、それをもとに経済を行われているなんて当たり前の話でしょ?まぁ、あとがきでもアタリマエのことを書いただけ、と書いてあるんですけど。これを書いたことで、どういう新しいこと、筆者独自のこと
が言えたんでしょうか?
察するに経済政策・理論に普遍のものなどない。グローバリズムというものは幻想で、そんなことに惑わされずに、日本は日本のあったやり方を行えばいい!―ということなのでしょうか?もし、そうならそんなことアタリマエのことで、己も賛同します。ただ、構造改革についてなのですが、小泉改革が行ったものは失敗に終わったものも数多いですが、根本の理屈は間違いではありません。筆者は次のように主張します
社会・歴史・経済構造が大きく転換しつつあるときに、旧来構造を維持しようという行為が成功した例はないのです。
問題なのはサッチャー政権のように、改革で痛みが出たとしても、それに変わる新しい成長産業なり、構造が生まれ、それが失敗や損失を補うということなのです。市場の原則は退場と新規参入です。小泉改革の真の問題は、退場が中途半端に終わり、新規参入が殆どなかったという点なのです。日本の真の、最重要な問題は改革がしにくい、構造転換が行ないにくいという前提・風土にこそにあるのです。日本の歴史を見ても、改革(そして成功)の例は数多くあっても、『旧来構造を破壊する』改革を戦争なくして行なったという事例は殆どないのです。
批評をするならば、それまでの流れ・前提がどういう状況にあったか、ということを説明しなくてはいけません。生物学で進化にジャンプはないという言葉を聞いたことがあります。生物の進化は、必ず前後から段階を追って説明が出来るという意味です。政治も同じように、これまでのステップ・段階を受け継いでおり、そこから改革を行なったわけなのです。その流れを受け継いで行なっている以上、小泉改革があのような中途半端に終わったのはむしろ必然といえます。小泉・竹中氏のみに全てを押し付けようとする論者は、歴史の流れを無視しようとする卑劣な論者だといわざるを得ません。
真の問題は①経済理論の原則が通用しない日本経済であり、②そのような欧米原則で生まれた理論を乗り越えて、日本経済独自の論理を打ちたてていないこと(日本経済型では、このような改革が正しい!というモデルがないこと)こそが真の問題なのであります。この二点を抑えていない、そこを前提に出発していない経済論を己は基本的に信用しません。
結局構造改革ダメ!日本の素晴らしい日本wayで行け!で終わってしまうのでしょうか?日本のオリジナル、強みを活かすのはもちろん当然重要であり、大事なことです。しかしそれをどうやって活かすのか!?という政策提言のほうこそが重要であり、そちらの分析なくして本論の主張の妥当性も何も判断できないのではないか!!
筆者と己のスタンスが異なるとはいえ、もし納得できる経済政策・成長戦略が述べられていれば己も、その素晴らしさや先見性を賛美いたしますが、それがないのでは、何のために筆者が筆を執ったのかわかりません。オチのない漫才。犯人・トリックの説明なき推理小説といった感が否めません。あるいはデート後、いよいよこれからのときに、明日朝早いから帰るねといわれる感じでしょうかΣ(゚∀゚;)
アマゾンレビュー評価高すぎだろ・・・ワロタ
で、昨日の産経かな?東谷さんが一面で小泉改革の否定、小沢氏の言う「普通の国」が国連への主権移譲だとかいう的外れな主張をしていました。ただ時の政権を的外れに批判するだけで、ジャーナリストですか…
そんなことでこの先生きのこれるんですねぇ~楽でいいですね。