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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

ヨーロッパ覇権以前:もうひとつの世界システム(下) ジャネット・L.アブー=ルゴド著

例によって、再掲です。元は10/09に書いたものです。

じゅっ、需要はあるのか…?(^ ^;)

 下です。あ、書き忘れてたけど、黒字が己の感想で重要なところね。たまにどっちかわかんなくなって、普通に色字になってるけど。

 

ヨーロッパ覇権以前〈下〉―もうひとつの世界システム

ヨーロッパ覇権以前〈下〉―もうひとつの世界システム

 

 

  この続きですね。


第七章 マムルーク朝政権下のカイロの独占
 p3ナーシル・ムハンマド時、カイロ人口50万。これは間違いなく世界最高クラス。マムルークのシステムを維持するために多神教徒、異教徒の奴隷を必要とした。チェスタン人との間に生まれたものは兵士になれたが、現地女性との間に生まれたアラウード・アンナースは原理的に排除された。

 この事実ほど、当時の社会事情・国家事情を説明するのに最適な例はないのではないだろうか?支配者階級・階層とそこに住む、戸籍を持つ現地住民は原理的に別物であるのだから。異教徒・異民族を前提とする社会・国家では、欧州で誕生した国民国家という発想は生まれない。根本的に国民国家などというものが考えられないのだから、欧州近代化の流れについていくことが出来ないのは当然の流れ。

 多民族・多宗教・また奴隷を含む多階層。原理的に支配層と被支配層が同じ国家・国民というアイデンティティを形成することはない。国家より所属階層・階級にアイデンティティを感じる。そこにまず自己が帰属すると考えるから国家を形成するのにふさわしい規模で団結するのが難しくなる。欧州では辺境にあって相対的に多民族・異教徒奴隷などを階層として内包し無かった。発展に取り残されて貧しいからこそ近代国家・国民国家という発想が生まれ得たという流れが、欧州が近代化できて、その他諸地域がなかなか近代化出来なかったというのを理解するポイント
 p6チェルケス人奴隷の最大供給者としてのジェノヴァがあったが、イル・ハン改宗により内陸ルートが復活。ジェノヴァの意味がなくなる。*1ヴェネツィアとエジプトがインドルートを独占する。エジプトに食い込んだヴェネツィアは他の伊商人を排除。
 一、p10ユドヴィッチは協業はバビロニア時代に基づくとしても、コンメンダはイスラムに基づくとしている。イスラム受動的、イタリア能動的という図式などありえない。スルタンが一大資本家でもない。
 二、640年、アラブ人に作られたバグダードに並ぶ都市フスタート。十字軍の前進を阻むため火がかけられたが、その結果王都カイロが一般人にも解放され、アイユーブ朝では二つの都市が中心となる。
 p22ファーティマ朝は海洋勢力として始まるチュニジアからエジプトに海軍を移す。東地中海に進出し、戦う。イタリアが勝利をしても、紅海のインドルートに至る所を埋め立て、紅海ルートを使えなくさせ、インド交易を独占するに至る。船・公益の主体は国家ではなく、商人・個人であった。ファーティマ=どうしてもイスラム色が強い。ではアイユーブ=ヨブの選択は十字軍によって宗派対立が必然的に強まった結果で、イスラムでもキリストでも問題が出ないように中立色の旧約聖書から取ったということなのか
 p24カーリミー商人らの登場と重要性の増大は、軍事行動の規模拡大と一致する。カルカシャンデイーによれば、ファーティマ朝は紅海で商人を海賊から守るために五隻の艦隊を配備した。カイス(キーシュ)の支配者とフスタートを代表するアミールは、この艦隊を共同で監督した。アイユーブ朝においても保護は継続し、かつてヒジャーズやイエメンに軍隊を輸送するために使用された船を、紅海に移して配備、ファーティマ朝の艦隊よりも効果が大きかった。サラディンは、カーリミー商人への課税によって大きな利が得られるので、次第に彼らを支援するようになった。マクリージーは、彼らがなんと四年分の税を前払いした― と述べる。サラディンはまた、ヨーロッパ人をカイロと紅海から追い出そうとやっきになった。一一八二年に、アイユーブ朝治下で最大の危機に直面した。それは、十字軍が紅海に進出しようとしたのである。しかし、サラディンの紅海における勝利によって、カーリミー商人に有利な結末がもたらされた。一一八三年には、サラディンの甥であるエジプトの副王が、フスタートに有名なカーリミーのフンドウク(倉庫)を建設した。後に、商人たちは、つづいてアレクサンドリア、クース、紅海地域にもフンドウクを建設した。
 起源については諸説あるが、バフリー・マムルーク朝時代*2、特にスルタン、ナーシル・ムハンマドの治世、すなわち一三世紀の最後の一〇年間と一四世紀の最初の数十年間までに、きわめて重要になっていたことは誰もが認める。そのときには、インド洋の香辛料交易はエジプト経済の重要な柱となっていた。カーリミーたちは、明らかにイエメンとエジプトの間の香辛料交易を独占し、小資本家はマムルーク朝政府の経済政策のために課税と独占によって圧迫された。
 ラビーブは、基本的にはアシュトールに同意しながらも、バフリー・マムルーク朝時代初期におけるカーリミー商人の健全な成長を、商人自身の企業家としての技術と、初期マムルーク朝アイユーブ朝時代から引き継いだ自由取引のシステムに助けられたことに求める。黒死病の影響で14世紀後半に失墜。すなわち信長が近代資本主義を生み出すために独占資本家を育成したようなことは、この時代普遍的に見られるものであった可能性が高い。日本の信長のように、もしそのシステムを採用していれば、帝国主義のように外に向けて拡大・侵攻していくのは自然の理。そして印・中のような大国の場合、むしろ管理を強めて統制する必要がある。その後徳川政権が成立したように、むしろ明智の行動は必然といえる。光秀は家康のように管理貿易派だったみていいのだろうか?先進国ゆえ、戦争が理にかなわないから。欧州のように①辺境にあって、②経済が脆弱で、③絶えず交易をする必要がある―この条件を満たさない限り、近代資本主義システムのようなものが生まれない。西洋のその後の経済発展はこれに則っていたからこそだと説明がつけられるだろう。*3

 p29中世エジプトで重要なのは欧経済を支配した織物業。織物業と砂糖・菓子業が二大工業であった。国家が土地を管理し、交易に乗り出す。完全な国家の独占政策は一五世紀から。アミールが利益の上がる砂糖業に投資を初め、ブームとなる。
 p31賦役として労働力を投下し、商人との競争力は比べ物にならなかった。そして売れなくなったら強制的に購入をさせるのだった。不公正な競争状態が競争力をそいだ。一五世紀欧州のそれが発達し続ける中、ずっとシリア・エジプトは牛や水車を使っていた。欧州の砂糖業に対抗できなくなる。そして黒死病の人口減で衰退はどうしようもなくなる。 p33原材料そのものが買い付けられるようになると、欧州に織物市場ができるようになった。製品生産国から原料輸出国に転落してしまった。そしてティムールによってシリア人熟練職人が連れ去られてとどめ。①ヴェネツィアの攻撃的な交易政策、②黒死病とティムール―といった外的要因のほうがエジプトの理由として大きい。
 三、p37黒死病でカイロの人口は約四割減ったと試算する。エジプトの人口は1345年800万人だったが、1789年300万人に過ぎなかった*4ヨーロッパのように黒死病によって新開拓、発展がなかった。新しい土地で開拓するという土地の余剰、森がなかったために、よりイクターに縛られる農奴に転落するしかなかった。三つの傾向、工業衰退・自治的なカーリミー商人が国家に取って代わられ、エリート支配層が増大する。国家が衰退するとき、管理を強めて、自由な余地をなくす―国家や組織の典型的な衰退・崩壊のパターン。
 p39遠距離交易、排他的アクセスに依存するしかなくなる。逆に言うと交易独占が断たれれば、とどめになる。p44クジャラート、イエメン、カリカットともエジプトにポルトガルを排除するように要請したが、エジプト艦隊はアラビア海で破れ、オスマンに併合されるという流れになった。

第三部 アジア インド洋システム――その三つの部分
 p55一月に南の海流で、七月に東の海流が形成される。中国で言うと、一月に出発、七月に帰国ルートになる。
 p59西洋に美点があったわけではない。東洋が崩壊して、西洋はその残存システム、既存のルートに乗っかっただけなのだ。*5

第八章 インド亜大陸――すべての地に通じる道
 p66ローマの輸入超過、金貨がインドに流れる。
 p75インドの拠点クジャラート、ホラズムをポルトガルが陥落させたときクジャラートへ馬の輸出を絶った=軍事兵器。そして1509年マムルークエジプトと共同でデイーブで、ポルトガルに敗れているのが深い関係にあったことを示す。
 p78一二五八年バグダード陥落で、カリカットがカーリミー商人の交易ルートとなって、一三世紀半ば台頭する。で、アラブ=インド連合により中国船は排除されるようになった?
 中国の国内要因だけではなく、巨大なジャンク船交易を排除しようというアラブ=インドの思惑が左右していたのか?明以前から積極的にすでにインド港にまで中国船は進出していた。しかし1430年代を最後に鄭和の大艦隊に代表されるように海洋進出は止み、政治的空白が生まれた。
 p81市場価格より安い価格で製品を購入できる条約を押し付け、他の船にポルトガルの許可証を買うことを強制。ゴアやコーチンで支配権を握るとカリカットは衰退した。
 p82十一世紀タミル人商人はチョーラ朝の支援を得て商業会社を組織。シュリーヴィジャヤまで進出する。十二世紀にはイスラム商人に取って代わられる。国内農業制度と関係があり、その点在する農村の徴税組織的な役割を果たすことに集中、そちらのほうが利が大きかった故、海上交易に熱心ではなかったのか?その後の軍事封建国家ヴィジャヤナガル朝は交易より農業を重視した。スタインいわく、土地と人を支配し、灌漑システムを整備する。農民社会=ヒンドゥー教組織であり、その受益者地域君主バラモンチョーラ朝という構造。
 ちょっと外れて、インド社会について、東南インドが人が土地に固定されておらず、北インドやマラバールと違い武人が支配カーストに同一化されることがなかった。こういうことをそう論じて、なるほど、なるほどと納得してインド社会の違い、その当時の構造、制度、多様性を理解して納得して先に読み進めることができる読者がいったい何人いるのだ?そんなにインド通が多いのか

 p86インドの織物業は考えられているより、西洋・中国に劣るものではなかった。チョーラ朝の織物業の仕組みは正確にわからないが、産業基盤の拡大と、富裕な商人の登場は間違いない。
 p87ナガラン=商人組織に地方税を納めさせる代わりに、政治・経済・宗教の監督権を与える。
 p88交易により利を得るチョーラ朝。しかし商人の台頭により、脅かされるようになる。タミル古代以来、十三世紀ほど都市部が重要になった時代はなかった。西部のムスリム商人より、国内勢力、ヒンドゥー教寺院を中心として都市化は進められた。中央集権確立としての、寺院建設。この建築によって職人、労働者を集め活性化させる。
 p89、1350年が重大な分岐点。北トゥグルク朝の瓦解。1398年ティムールによって金銀が持ち去られる。新興ヒンドゥー国家ヴィジャヤナガルの台頭。首都がデカン高原であり、南インド初の軍事封建国家で交易にあまり出ない。外国人兵士に軍備と忠誠の代償に支配や交易を認める。一四世紀以後国内に重点が置かれ、ヨーロッパが来るまで、南インドで海が重視されることはなくなった。
 p93インドにおける諸王朝・勢力は交易にそもそも熱心ではない。輸出超過であり、ほっといても勝手に海外勢力が富を持ってくるから。海上を重要視するよりも、そちらはアウトソーシングして国内の農業生産力や地産拡大に力を入れる、リソースをそちらに注ぐほうが理に適っているだからこそ西はムスリムに、東は中国に海上覇権が移った

第九章 海峡と瀬戸
 p110世界システムが興ってくる七~十二世紀におけるシュリーヴィジャヤが中心的な役割を果たすのに、その世界システムが頂点に達する十三世紀後から十四世紀初にかけて、史料上シュリーヴィジャヤが消滅する矛盾。マラッカ、ジャワ勢力の成長だけではこの衰退は説明がつかない。十一世紀後半宋が進出し、十四世紀後半、明が撤退するまで海峡地域の小王国軍は記録上消滅している。つまり中国の交通独占、仲介者としての役割を失って、地域は玄関口から属領となった。中心・中核=インド・中国の言いなりになる。むしろこれまでそうなってこなかったほうがおかしい。中継交易、農産物とインド・中国の製品の原材料を供給するだけの存在となった。

 宋の時代から明まで東南アジアのかなりの範囲を中国の勢力(影響力の方が適切か)圏内においていたのだとしたら、不自然な西域拡大、西方へと拡大された図から、南方へと大きく舵を切ったのだということがわかる。大陸国家中国モデルと海洋国家中国モデルとして捉えることができるかもしれない。そしてその海洋国家モデルは宋という一時代にしか登場することがなかった中国史上極めて特異な時代であると言える。ならば明の海禁にも両者のモデルを並存できない以上、伝統的な大陸国家型に切り替えると言う意味合いから捉えたほうがすっきりするであろう
 p111属領の定義を、外部の決定・力によって内部の政体がそれに抵抗することができないとするなら、この地域は中国の属領であったとみなすべき。七世紀のシュリーヴィジャヤの台頭は朝貢と関係があるだろう(4~5世紀くらいから南朝との交易があって、唐の統一と関係があるとみなすべきだろう)。中国の一貫する南下の歴史から考えれば、島嶼部への中国の政治影響力の拡大は必然とみなすべきであろう。つまり明という時代はそのカウンターパート、反撃の時代。長江以南の勢力から始まって北方勢力を駆逐したのがまさにその典型。つまり、もし宋のように長江を防衛ラインとしたのなら、中国はより南方へと向かって東南アジアまでその南北ラインが押し下げられた可能性もある。これは清朝成立時にも同様で、南に割拠、あるいは海洋型国家の併存ということになっていれば、東南アジアは中国人勢力の進出で一気にパワーバランスが塗り替わっていたであろうことは間違いない*6
 p113南宋から元にかけて、交易相手に従属関係が求められなくなった。シュリーヴィジャヤ帝国の役割が小さくなる。彼らは海賊になって、パレンバンは海賊の巣として有名になった。明になり、再び朝貢貿易によってシュリーヴィジャヤは再興するだろうと思われた。マレー年代記の系図を見るとマラッカの創始者はシュリーヴィジャヤの跡を継ぐ、パレンバン王家の血筋となっていた。イスラムに改宗したイスカンダル・シャー(アレクサンドロス)はマラッカを交易の中心地とするのには成功したが、朝貢貿易を独占することはできなかった。小王国にもはや中国は幻想を抱かなくなった(?どういうことかな?)。
 p117ジャワ十二世紀後、マラッカは富・商業においてシュリーヴィジャヤを追い越し、十四世紀には領域でシュリーヴィジャヤを追い越す勢力に。十三世紀後半、商業的ネットワークから、三分の一がイスラム化。
 p123所詮仲介勢力に過ぎず、独自で世界システムの核としての役割を果たすようなことはできなかった。独自の海軍勢力を備えたことは一度もなかった。ではなぜ、ヴェネツィアジェノヴァとの共通の問いになるが、この地域は東南アジア商業勢力として統一された政治協同体(≒国家)にならなかったのだろうか?統合されれば十分中間勢力として存在感を発揮できるのではないか

第十章 絹の中国
 p128ウェーバーの言うような中国の儒教による商業に対する一貫した態度、固定化した事実はない。「資本主義的」生産と交易は中国人の情勢と見解によって変化した*7
 p135十一世紀北部中国の製鉄に使用された石炭の使用量は、十八世紀の大英帝国の70%に相当する。さらにエルヴィンは北部中国→金→モンゴルと製鉄技術が伝わり、鏃に金属を使うことによってモンゴルの軍事能力が大幅に上がったとしている。
 p136金からモンゴルに変わって、製鉄業は衰えるようになる。モンゴル人の支配地に入った一二三四~一三三〇までの間南部への逃亡や、徙住で河南行省の人口は86%落ち込んだ。明らかに軍事重要品のコントロールではないか?征服した以上必要なくなる軍需製品との関係をぜひ検討しなくてはならないだろう。さらに北部独立自営業、主戸はモンゴル封建領主、封戸に取って代わられた。自由労働から非自由労働に、大衆市場は拡大する鉄生産地に。北部中国の鉄産業は自由労働と自由市場の消滅が元崩壊まで続いた
 p139中世絹から陶磁器へ主要輸出物が変わる。需要以前にパラスト(船のバランスを取る重しみたいなもののことね)として最適だった。輸入がかさばるのに対して、輸出物は高価でかさばらないものが多かったから。
 p140毛織物では農業用地と放牧地が対立して、農民が追い出される。輸送が楽なので製造業と産地が分離する。対して綿や亜麻は違う。土壌のために豆と輪作しなくてはならなず、労働力が必然的にかさばる。絹は日々近接して働く必要があるので、必然的に農業都市を生み出す。そして家族が基本単位となる。
 p144ギルド・独立取引「行」。政府は彼らから安く買い、高く売ることでコントロールをした。市場未発達なときは必要。政府が商人から買うときは市場価格より安く買い、売るときは高く買い取らせた。独立商人階級が大きく統制・活用される時期と宋・元移行期は重なる。そしてこれはファーティマ朝からマムルーク朝へのそれと同じで、よそ者による軍事支配。中央集権社会が貨幣と信用の条件を定める社会では独立したブルジョワ階級が発達しない。租税収入を中央へ納めさせる手段として商人を使おうとしたのだろうが、国家の是認する紙幣によって、それに対抗できるような資本蓄積の発達は無理だった。強力な中央集権国家の存在が資本主義発達の妨げとなることを説明できるだろうか、国家を新設、誕生させる上でどこまでも統制力を伸ばす。統制力こそ国力といっていい。国家の衰退・崩壊とはその統制力の衰えとイコールであるから。しかし経済についてはそうはならない。その法則にいち早く気づいた西洋のシステムにこそ注目すべきだろう。
 p148紙幣による同一通貨は外国との両替比率を設定することになり、外国と国内商人との仲介者として政府が大きな役割を果たすことになった。蒲寿庚は泉州最後の市舶司。蒲=アブーの音訳。1280年モンゴルに協力。対宋戦で役立ち、海軍司令官に取り立てられることになる。北京のムスリム知事アフマドなどムスリムは広範に居住していた。他の異国民より賢い存在であると認識されていた。
 p154百万人都市杭州。世界システムの核とならずに衰退した。明による海上交易の放棄がその理由だが(一四三三年完全に海上交易を放棄)。おそらく初めて中国で黒死病が発生した。朱元璋は一三四四年両親と兄弟二人を腺ペストで亡くしている。
 p155中国が海上から撤退した理由として、儒教や官僚による商業の統制では不十分。
 p159、1420年安南での中国艦隊の敗北、1428年トンキン撤退にいたる。海上撤退はこの敗北によって、戦力増強か撤退かを選ばされた結果。国内の経済的な困難によって不可能になった。
 私的な商業はどこでも横行するもの。そしてそれが理にかなうとわかって初めて、公の手中に収めようとする=管理下において利に預かる、または優秀な国家が財を得て福利に使う。そういう観念が成立しているのではないか?世界的な交易ルートが止まる、滞る。そうなるのは人が減る。人口減少によって農民なり、都市の職人の待遇がよくなるのではなく、整備されたシステムがある以上開いた農地に交易の人口は吸収されてしまうのではないか?本来農村からあぶれた余剰民が交易都市に出て行って、商業をやる。農業をやれるなら農業に回帰してしまう構造こそが世界システム衰退の理由ではないだろうか?そもそも商業で安定していく体制が整備されたてで、交易に参加する人間自体が多くないことこそ真の問題ではないか?明も後期には交易で利を上げられるような環境になっていただろうが、密貿易のようなもので莫大な利を上げられるような環境にあって、交易に目を向けようという気にならなかったのではないか*8

【結論】 第十一章 13世紀世界システムの再構成
 西洋の興隆というよりは東洋の断絶および衰退と言った方が適している。
 p168十三世紀世界システムは現代のそれとは劣っていても、十六世紀世界システムと大きく劣っているものではなかった。組織・量・実行の仕方で決して劣ったものではない。十六世紀になっても目覚しい進歩はなかった。生産様式・取引技術など変革はない。西洋の制度と文化だけが勝利を収めたなどということはありえない。それぞれのサブシステムは交易を前提とした社会組織を発展させ、社会を再編させていった。交易による都市の規模拡大が何よりそれを裏付けている。
 一定のサイクルにスポットを当てた研究がある。しかし中東も中国もインドも別のサイクルで動いていた。人口減少により、農業生産の再強化と都市化進行の鈍化。よって余剰生産物が交易に流れ出にくくなる。
 p173十→十三世紀にザイトゥン・ブリュージュ・トロワ・カイロなど都市が拡大している。
 p179「乗っ取り」、「交易に伴う略奪者」=ここの論理が良くわからん。西欧諸国の海賊行為のことか?
 p182ウェーバー説の否定。東洋の文化・環境が商業に不適切な環境をもたらしてきたどころか、事実はむしろ逆。そのような環境にあって商業は発展していた。彼らに欠けていたのは自由な資源であった。*9
 p186再構成、興隆と衰退、おそらくウォーラスティンの話だろうが、わけわからん。

 冷戦終焉期にあって、どのような世界の現状認識をして、どういうシステムが好ましく、対抗する要素が何で、どういう方向に世界が行くべき―などといった論点がない。結局良くわからん。十三世紀世界システムの存在、では六世紀は?ローマ・漢が成立したときは?更なる過去視点が必要になる。どうして六世紀に、十三世紀になってできたのか?蒸気機関ができてからの支配という考え方はおそらくそうだろう。では何故海洋ルート・海上交易に大々的に乗り出す勢力が出なかったか問うべきではないか?重要なのは世界的な交易に基づく、一国の国際化。国際化に伴い社会構造を転換させることと、その交易ルートが断ち切られ、国内再編成に基づく閉鎖国家化。歴史の流れはこの繰り返し*10。そこにこそ注目すべきではないか。西洋だけがバランス・オブ・パワーという環境で一国化、世界と切り離して生きるという閉鎖化がなかった*11。それが西洋が東洋をしのいできた理由ではないだろうか。 *12

*1:奴隷といえばアフリカ人を奴隷にして売買した欧米を連想するが、アラブ圏・中東圏でも当たり前にあったということを見逃してはならないでしょうね。まあ農奴という言葉があるように、容易に奴隷階級のようなものは社会内に作られ得るということですね。今の社会で言うと不安定な人々は半分自由民半分奴隷で、名付けるなら社奴・国奴ですかね?実際には社畜という言葉が蔓延していますけどね、

*2:トルコ系マムルークが政治権力を握っていたマムルーク朝前半期、一二五〇~一三九〇年

*3:印中と日本では経済規模が段違い、前者の管理貿易が当然だとしても、日本はそうではない。徳川政権が必然的なことを書いているがちょっと違う。日本の場合、国家を統一するようなリソース・国力がそもそもない。ただ未開拓地があって、江戸を開いて百万人都市を作ったように、開発に力を注いで専制君主化には成功した。そのようなパワーを利用して、海外に打って出ていたらとか考えると色々面白い

*4:400年経って人口が倍増どころか半分以下。これではその後の国際的な地位低下も当然か

*5:既存ルートの担い手が衰退するのと進出のタイミングがうまい具合に重なったという天啓ですかね。まあずっと進出しようと長年交易ルートを探っていたので、天啓というのは少し違いますかね。

*6:―と書いているけども、南宋が国民を移植して支配を求めたかというとそうではなかったし、積極的な貿易・交易国家というだけでとどまることも十分あり得るか。まあ英蘭などとどう戦うかは興味深いところだか

*7:ウェーバーは固定的には見ていないと思うが…。あくまで思想・宗教的土壌を考えると、西欧やその後の米のように近代資本主義が自発的に発生し得ないということを述べただけですからね

*8:今見ると、何言いたいかよくわからないな(笑)。まあわからなくもないんだけど

*9:ウェーバーはそんなこと言ってないんだけどな…。むしろウェーバーの研究は西欧諸国社会以外の先進的な国家・社会でどうして西欧のような近代資本主義が生まれ得なかったのか?というものですからね。前近代的資本主義の発展、経済の興隆についてはどこも西欧よりも凄かった・進んでいた。なのにどうして?というのがウェーバー説なんだが、西欧最高や!論者に都合のいいように解釈されてきた流れでもあるのかな?やはり。こういう誤解があまりにも多いのは

*10:グローバリゼーションとローカリゼーションの繰り返し。一国再編はナショナライゼーションとかのほうが良いのか?

*11:無論、探せば小さい事例はいくらか見られるのだろうけど

*12:今回はそこまで誤字・誤変換とか少なかった。5つ以下だった。╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !