てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

『日本の一九八四年』から引用 言論の自由について知っておくべきこと

過去記事の再掲です。元は10/12に書いたものです。

 そういえば、今の非実在青少年とか、単純な表現規制の話だけではなく、セックスから快楽を取り除いて管理しようとした愛情省。ポルノ課が設置されていた状況と似ていますね。まさに日本は『1984』の世界なりけり。

 さて、前回書いたように、この書であった博士のすばらしい説明があったのでそれを引用したいと思います。

「政治倫理」はまやかし
 一九八三年の日本においては、「政治倫理」なるものを巡って、一大論戦がなされ、それが未だに続いている。こんなたわけたことをしていると、間違いなく、凶暴戦士のごときビッグ・ブラザーに、日本デモクラシーは、呑噬(飲み込まれること)されつくしてしまうことだろう。
  「政治」の「倫理」、これほど奇妙なことは、またと考えられない。「政治」と「倫理」とは、元来、水と油のような関係に立つものである。近代デモクラシー社会においてはミネラルウォーターとガソリンみたいな関係にあると言えよう。政治と倫理(道義)とが元来、水と油だと言っても、儒教的な考え方では、ある意味で「政治」と「倫理」は近いと言える。政治と倫理(道義)との間には、若干のきしみはあると言うものの(例。孔子桓公管仲の解釈、憲問第十四。〈岩波文庫本十六節、十八節〉また孟子の湯武放伐論〈『孟子』巻第二、梁恵王下〉)。両者はお互いに裏打ちしあっている。儒教的世界観のうえに立つならば、あるいは、「政治は最高の倫理である」ということが言えぬでもない。また、政治指導者=君子は「一人」でなければならないということになる。
 もっとも、この「聖人」「君子」という言葉のもつ意味は、本場の中国では、日本人が考える意味とは、いささか、いや大いに違った意味に用いられている。すなわち、「聖人」とは、政治制度を作った人(すすんでは、社会構造を作った人)という意味である、「君子」とは、政治指導者ないし官僚として、かかる制度――礼楽という――を維持し機能せしめる者のことを言う。しかし、日本人の儒教誤解、すなわち、日本人が儒教的であると考えているものが、実は、儒教的でも何でもないこと、これは、日本の一九八四年を考えるうえでも大事なことなので、ここではこのくらいにしておくが、後で一寸くわしく触れることにしたい。
 しかし、近代デモクラシーにおける政治観、人間観は、これとは全く違う。
 近代デモクラシー社会においては、「政治」に「倫理」をもとめてはならないのである。
 と、ここまではっきり断言すると、たいていの人は、とまどう。猛然とくってかかる人も多い。若千、敷衍する(くわしく説明する)必要がありそうだ。

 

「倫理」とは何か?
 倫理(道義)は、善(Good)を求める。善をもとめてやまないというのが、「倫理」の要求である。デモクラシー政治は、善をもとめてはならない。それは、全き「善」とまでは行かないところの「フェア」(Fair)をもとめる。また、フェアをもって、「政治」が正常に機能しうるための前提ともしている。
 Fairは中学校一年生のリーダーにも出てくる単語である。いや、フェア・レデイとか、フェア・プレイだとか、幼稚園の子供だって知っている言葉である。しかし、政治との連関において用いられるとき、これほど訳しにくい言葉もない。また、政治学的、社会学的に、これほど含蓄のある言葉も鮮異(殆どない)。また、この言葉を理解することが、デモクラシー理解の第一関門である。しかも、マスマミも、大多数の学者評論家諸君も、あまりよく理解していないようである。
 まず、何と訳すか。Fair は、「公正」などと訳されているが、では、「公正」とは、どういう意味か「公平」と言うこととはいささか違うということは、誰でも理解されよう。では「公正」とは、公の正義ということか。という意味だとすると、これはれっきとした誤訳だ。「フェア」とは、所謂「正義」とは、たいへんに政治学的意味を異にする言葉であるからである。
 そもそも「フェア」とは、全き「善」にまでは行かぬところのこと。言ってみれば、「ややよい」「かなりよい」というくらいのことである。「まあ、我慢できる」くらいのところである。
 では、「ややよい」「かなりよい」とは、一体、いかなることなのであろうか。
 まず、このことを理解するための一つの補助線としての、アメリカの大学あるいは大学院における成績評価を考えてみる。どの大学でも同じ方式を用いるのではないが、その例として、ABCDEF方式がある。これを言葉であらわすと、AはいわゆるExcellent卓抜(とびぬけてすぐれていること)、BはGoodよし、Cはフェア。それ以下のDはBarely passedスレスレ合格。Econditionally passedお情け合格。そして、FがFlunk不合格だ。ABCまでは、大手をふっての堂々たる合格だが、Cのフェアは、その中では最低。A卓抜でないのは言うまでもなく、Bよしというところまでさえ行かない。それがフェアの位置である。
 デモクラシーズにおいて、政治がもとめ、また、それが正常に機能しうる前提とするフェアは、このレヴェルである。
 ではなぜ、この程度で満足するのか。
 なぜ、もっと上の「よし」や「卓抜」をもとめないのか。答、そうしないとビッグ・ブラザーが、現われてしまうからである。フェアのレヴェルでとどまる禁欲ができなくて、さらにその上が必要だなんていうと、ビッグ・ブラザーと言う魔神は、ソロモンの封印を喰いやぶっておどり出てしまうのだ。

 

デモクラシーは不自然きわまりない制度
 いかなる政治制度でもそうだが、「近代デモクラシー」は特に、ぬきさしのならないほど多くの矛盾をかかえこんでいる。例えば、一方に「多数決原理」があるかと思えば、他方には、この原理の毒素を緩和する(neutralize)ために、「少数意見の尊重」の原則がある。また、もう一つ重要な例をあげれば、デモクラシーズにおいては、国権の最高機関たる国会を構成する議員は、各特殊利害(地域、階層、職業、宗教、イデオロギーなど)の代表でありながら、それと同時に国全体の代表でもある。ではもし、国全体の利益と、特殊利害とが衝突したときには、議員は一体、どう行動したらいいのだろう。
 そして、近代デモクラシーは、不自然この上ない政治制度でもある。このことをよく認識することは、何ごとによらず、「自然であること」をもって尊しとする日本においては、重要なことである。
 ここに「不自然」とは、人間自然の本性に悖るということだ。この意味において、近代デモクラシーは、すぐれて非人間的な政治制度である。
 良心の自由、言論の自由、結社の自由……(他人の)権利の尊重……等々。近代デモクラシーが作動し機能しうるために必要な部品のうち、何一つとして、人間生得の感情と衝突しないものはない。
 たとえば言論の自由。他人が貴方を批判しようと非難しようと、黙ってこの意見にも耳を傾け、あの意見も尊重しなけれはならない。かつ、この反対意見の発表のために十分のチャンスを与うべく努力しなければならない。
 これは生得の不人情である。
 英国の大宰相兼ベストセラー作家ディズレイリーは、「人間は、媚態(flatteryこびへツらうこと)を好む動物である」と言った。誰だって批判されたり非難されたりするのは嫌だし、こんなことを公に主張するとは、まことにけしからん奴だという気になるだろう。日本人なんかとくにそうであって、公に批判でもしようものなら、十年の友情もいっぺんでさめて、仇敵みたいにいがみあうようになることが珍しくない。いや、たいがいそうなることは先刻ご存じのとおり。まして、見知らぬ者が批判でもしようものなら、良いも悪いもてんで開く耳をもたぬ。だから日本には、公の討論という土壊が出来にくい。
 「言論の自由」ということがすでに、これほどまで人情を逆撫する。
 しかし、いくら感情が昂ぶっても、そこをぐっと堪えなければならない。これには自制がいる。もちろん、この「自制」は、生れながら備わるものではあり得ない。教育、社会化(社会生活のために必要な規範、技術を習得すること)の過程において身につけなければならない。このように、「自然の人情を押えこむ」ための訓練をしないことには、「言論の自由」ということは機能しえないのである。*1
 
えげつないのがフェアの精神
 かつてアメリカで、マッカーシズム*2の嵐が全米にふき荒れ、多くのアメリカ人が社会的に葬り去られたことがあった。
 とことんまで「良心の自由」を守りぬこうとする人びとは、マッカーシズムに果敢な反撃を加えた。これは、マッカーシズムの暴風雨圏にある当時のアメリカにおいては、勇気のいることであった。しかし、「自由」は、守りかつ戦いとるもの。ニューヨーク・タイムズに、ワシントン・ポストに、猛然とマッカシー上院議員を非難し、彼のやりくちを攻撃するいくつかの意見広告がのった。しかし、これらの「反撃」においては、自分の意見を新間にのせるだけでなく、マッカーシー上院議員がさらに、これらの非難を再反撃するスペースをもまた買切ったものであった。
 敵にも十分の反論のチャンスを与える。
 これぞ、フェアFairというものである。
 と言うと、たいへん立派に聞こえるが、そう大したことではない。
 日本人はよく、これぞ武士道の精神なんていうが、近代デモクラシーズにおけるフェアの精神は、「武士道の精神」とも違えば、「汝の敵を愛せよ」と言うこととも違う。デモクラシー諸国において、自由に闘わされる言論において、誰も汝の論敵(論争の相手)を「愛して」なんぞいない。「相身互い」と言うのでもない。この種の「隣人愛」ほど、デモクラシーの正常な作動を妨げるものはない。誰もが、与えられたルールの範囲内で相手を論破するために、ありとあらゆる論争技術を総動員してよろしい。あらゆる策を弄してよい。
 相手の弱点にはつけこまなければならない。相手の失策は、とことんまで利用しなければならない。
 このように、「言論の自由」とは、すこぶる、不人情なものである。業の深いものである。
 しかも、そうやってくれないことには、デモクラシー政治は動かない。言論の場において、誰もが、この上なくえげつなく、きわめつきに業深く論戦をくりひろげないことにはデモクラシーは、トランスミッションが切れた車みたいになってしまう。
 これぞ、フェアというものである。 フェア以下であってもいけないが、フェア以上であってもいけない。善や卓抜なんぞもとめると、デモクラシーは死ぬ
 政治におけるフェアにかなり近いものをもとめるとすれば、スポーツにおけるフェア・プレイのフェアだろう。
 選手はみんな、与えられたルールの範囲内で相手を打倒すべく、ありとあらゆる手段を行使する。ルールの範囲内なら、ポクサーはどんなに相手をひどくなぐってもいいし、相撲取は、どんなに相手をはねとばしてもいい。いや、そうしなければならない。相手が気の毒だなんて、側隠の情など起こして手加減でも加えようものなら、これは八百長。これがはびこったら、ポクシングも相撲も、成り立たない。
 これが、フェアプレイの精神。
 政治におけるフェアとは、こんなものだと思うといい。
 政治とは元来、異なる主張、異なる立場、異なる利害をめぐっての凄絶きわまりない戦いである。


 ―と、まぁこのように政治倫理、賄賂や汚職についての考え方をスポーツに対するファールで説明すればよかったんですね。こうすればうまく説明できますね。小沢事件のようなものというのは、デモクラシーというスポーツにおいてまぁ、良く言ってファールに値するかどうかの話なわけですね。
 己が今回の小沢事件を明らかにルール違反だと見るのは、本来フェアな立場・レフリーである検察が後からルールを変えるからですね。たとえばサッカーやバスケットボールではファールをして注意をして累積警告によって退場させられます。そして今回のケースはファールかどうかかなり微妙。でもまぁ、笛を吹くのはわかると。ところが、このファールがかなり微妙でうーんどうかな?っていうくらいのファールにもかかわらず、一発レッドもしくはディスクオリファイをだして、退場させようという明らかに異常な判定を下したから、むちゃくちゃ怒るわけです。
 これは田中角栄のときもそう。彼は極悪非道レスラーのようにいつも汚いプレーをする選手だった。しかし、だからといってそのときのプレーがファールであったかかなり微妙で、しかもほかの選手もしていた、かつもっとひどいことをしている選手がたくさんいた。しかも彼だけに笛がなった。その田中という選手は最優秀プレーヤーだった。だからまぁ大変だった。こう説明することができますね。

 そして、審判がおかしければ、観客もしくはその試合を見たスポーツ紙(一応、本当のスポーツ紙ではなく、メディアの例えのことです)もおかしい。そうだ審判良くやったと。普通では考えられない反応をする。民主主義社会では考えられない反応をする。こういった場合、うーん今回の件はどうだろうか?というスタンスから始まって、冷静に是非を論じて、判断を下せばいいのに、ここぞとばかりにプレーヤーをたたく。この反応は学級会のウンコもらしですよ。いや、一番おかしいのはウンコ行ったことですね。いや、なんで学校でウンコしたらあかんねんって話ですよ。何が正しいかどうかわからず、空気でウンコ=悪として、魔女狩りにする。だから、許せないんですよね。民主主義のかけらもないです。

 だから、己が文部大臣なら、まず排便の自由を確保しますね(笑)。教師はまず、ウンコの自由を確保しろ。ウンコいく自由すら確保できないなら、そういったルールなきルールを変えられなかったら、民主主義社会なんて永遠に得られませんよ。ウンコするなという伝統主義を打破できなかったら、日本社会は永遠に全体主義社会です。ウンコ社会です。「ウンコ社会日本」ですね。

 そしてもうひとつ一番まずいのが政治家をまるで悪徳商業の人間のように、報道すること。いまだかつて授業やテレビで政治家がカッコ良い職業として扱われたことがあったでしょうか?政治家=悪いやつというイメージが植え付けられていること。これは間違いなく日本社会最大の癌ですよね。これで官僚支配に貢献しているんですから、この罪の大きさはゲッペルスと同じですね。

 

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

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*1:旧ブログでは分割していましたが、再掲で一本にまとめました。

*2:共産主義に同情をもつ人びとをアメリカ社会から追放する運動。マッカーシー上院議員が主唱した故に、こう呼ばれる