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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

『中国古代国家と郡県社会』呼んだメモ

中国古代国家と郡県社会 (汲古叢書 (62))/汲古書院

 特徴として、十回以上専制国家論・西嶋&木村説の否定が出てきますね。諸論文をまとめたからそうなっているんでしょうけど、それを知らずに読んだらどんだけ執拗に否定したいんだとビックリしそうですね(^ ^;)。

 顧炎武は『日知録』「郡県」で、秦始皇帝から郡県制が始まるという説に対して、県は既に春秋から見られると否定。秦が設定した三十六郡には、これまでの魏の西河・上、趙の雲中と雁門と代、燕の上谷・漁陽・右北平・遼西・両東の郡がふくまれていたとする。また漢代の郡県制がその下部に郷里の人を任用し中央と地方の協力が上手く行った理想的な時代だとする。

 増渕龍夫「春秋戦国時代の社会と国家」では、軍事・祭祀の族的な社会秩序が君主の私的な人的結合によって解体されていき、家父長的な家産官僚へ繋がると。また「先秦時代の封建と郡県」で顧頡剛の説を退けて、晋と楚の県大夫が世襲であると論じた。春秋時代の県は氏族的結合が強く、直轄地と理解することは出来ない。すなわち、春秋の県と秦漢の郡県制を同一直線で結びつけて考えられることは出来ない。

 では郡県制はどうやって出来てきたのか?郡県制成立の論理として出来てきたのが、個別的人身支配や新県・国家単位での水利事業などによる古代専制帝国論。増渕は「中国古代国家の構造」(六十年代を代表する総括となっている)で、晋・秦・斉・楚などで滅ぼした国や中原諸国を圧迫する形で県の設置が起こり、新しい統治方式になる。が、県もまだ官僚制化されてはおらず、次の段階が必要になる。君主権力の強化はウイットフォーゲルの言うような水利事業ではなく、山林藪沢の物産と新県の設置。君主権力の強化による氏族結合の解体は官僚制の成長をもたらすだけでなく、同時に土豪中心の郷里秩序の成長ももたらした(また、水利事業での新県の統治原理を旧県にも及ぼしていったとしているが、これは木村「新県」の概念をやはりある程度取り入れたということなのだろうか?専制国家という用語もあるし)。君主は氏族結合の解体のために、土豪の成長に力を貸す。それは渠・新県ではなく、淮水上流や漢水などでの陂(ため池)のような小規模なもので、旧県で行われた。

 楊寛の『戦国史』いわく、戦国でも貴族に封君をして特権を認めていた。趙や秦では相を中央から派遣して、封君の兵権を掌握していた。伝統的に世襲だったが、三晋・秦・斉などでは世襲が少ない。そして楚の鄂君のように経済上の特権を持っていたという。
 ―ということを考えると、呂不韋や嫪毐の場合は辺境故か、就いた官職故か、はたまた中央から派遣された相を抱き込んだかで、兵権を持っていた。かつ商売云々で巨大な利権を持っていたなどが考えられますな。郡県VS封建の構造に否応なくなっていったと見るべきかな。

 氏が説く「郡県社会論」(とまで言えるのかな?)はその上の州をも加えた州郡県社会論とも言うことができそう。むしろ、そちらの州郡論の方が漢から唐に至るまで長いスパンで捉えることができそうなのでぜひ聞いてみたいものなのだが、それに手をつける予定はないのかしら?

 一章、鄭国渠で作られた新県はない。それを統括する水利事業機構もない。鄭国渠は大臣主導、呂不韋失脚後精査されたが続行。その目的は櫟陽の開発。関係ないけど呂不韋の宰相のところの記述で、王騎や麃公・蒙驁などが将軍になっている。世代的にこの三人と呂不韋がつながっていて、大臣会議でコネがあったと見られるから、この三人が軒並み死んだことのほうが呂不韋失脚には大きかったんじゃないかな?いっこ下の世代の将軍や、若い将軍は呂不韋以外の次期宰相と繋がっていただろうし、誰かはわからないけど。
 郡の元になったのは内史。内史が鄭国渠という複数県にまたがる事業を手がけていた。内史の初出は「戦国策」の応侯・昭王の時だが、史記では書かれていない。史記の初出は嫪毐の乱のそれ。
 他国の郡制は秦の軍政・民政を統括するそれとは違う可能性がある。秦は郡レベルでの広領域の機構を整えた。三晋の影響はあったとしてもここが決定的に異なる点。関中開発=内史・諸県機構で、その経験を下にして、周辺に同じような機能の郡が設けられた。内史が先でその後に南郡が設けられたと。

 二章、領土国家というだけでは説明がつかないことがある。他国の領土の道を借りて進軍する事例があること。封君による封国が飛び地となっていること。そしてしばしば国境と関所の開閉が外交上の問題となっていること。
 その問題は、首都を中心とする領域支配と交通路による分散地域の支配という二形態になっていることで説明がつけられる。王畿の領域支配と旧集落・邑を統括していくという二元方式は秦以外でもおそらく同じ。勿論関所も。
 交通要衝・関所を抑えていくという話で転換期は孝公時代の咸陽遷都。恵文王と王号を称するようになってから、畿内機能の強化が始まったと考えられる。昭王によって内史機構が整備される。注目すべきは、戦国中期までは都の両端に県を設置していたのが、内史制以後はそれが関・関所に取って代わられること。領土を拡張、東進する度に関所を抑えていくのがポイントになっている。黄河以西を抑えてから、首都咸陽よりも櫟陽の最前線としての重要性が高まるわけだが、天下統一をするにあたってさらなる最前線としての拠点地は必要なかったのだろうか?黎陽なのか?

 三章、兵馬俑の軍隊は京師の一般軍隊すなわち中尉の軍隊で、役割は都城と陵墓の防衛、そして巡行。確かに巡行というものが持つ意味合いを考えれば巡行に携わった人間を守り手として兵馬俑のそれにするのが妥当か。
 「耕戦の士」、緊急時に兵士として徴収することもあれば、逆に精兵のみに絞って還すこともあった。良民の男子を爵を通じて徴兵する。このようなシステムが秦の強みであり、統一の要因となった。が、他国・六国にもこれを導入すると、徭役が軍役扱いとなり、重い負担と感じられたはず。これまで兵士とは無縁の人間が組み込まれて反発もあったかもしれない。陳勝劉邦も郡県の軍事系統を利用している。秦のシステムを他国に導入したのが却って反乱のアシストになっている。また楚の制度に戻したということは、この秦の爵制的秩序、良民=兵士も放棄したということになろうか?であれば、当然システム的には秦=漢に敵わないということになるだろう。
 内史=中尉の関係は、郡だと太守と都尉になる。まず内史は軍政優位から始まり、しだいに民政機能を整えていく。郡県もこれと同じ。封邑は「都官」によって管理され郡県制と同じ扱いをされていた。これは秦が郡県制を中心として封邑が少ないという特色の一つ。反乱を見るに父老や豪傑と接触をして民政の掌握が図られている。彼らの支持を取り付けない限り、軍政・兵士は掌握できても、民政は掌握できない。爵を通じて農民男子を兵士として掌握しても、集落内の地方秩序は自立性を失わない。

 四章、鄂君啓節や交通路、それを通じての楚の歴史。よくわからないのでカット。懐王の時代を司馬遷は衰退期としているが、鄂君啓節の領域は軍事拠点を含めて楚の歴史上の中で最大。むしろ懐王の時代こそ最盛期と看做すべきですかね?それは言いすぎかな?
 同じく五章、包山楚簡も細かすぎてわからないのでカット。封邑の中に県レベルのものがあり、事件を処理する官名や区域の名称に統一がなく、秦の郡県制のように一本化されていなかった。郡県制レベルの広領域の統治システムが未整備で、大小の封邑を含む社会と。事件を処理するのに盟証が必要というのが法治の真逆と言えるのかな?貴族などに対抗する必要から発生した習俗なのかも。郡による統括が出来ないというのは軍政→民政というステップもさることながら、文化や慣習に隔たりが多い、多元的過ぎてまず民政的にまとめられなかったとかなのかな?漢の郡国制では斉にも楚のように、列侯の候国が多く置かれたのを見ると、楚と似たような機構だったのかもしれないと。
 同六章、項羽(項梁か?)は秦を滅ぼして郡県制を合わせようとしていた?懐王を除いたのも楚の制度ではなく、郡県制導入の妨げになったからか?楚と西楚を同一視してはいけないのではないか?項羽にも王国封建で終わりではなく、封建のちに郡県制へ移行の視点があったんじゃないかな?南郡も楚→秦→項羽で楚→劉邦で秦(漢)なのかな?そんなコロコロやってたら大変だろうし項羽のときにそこまでいじらなかったのでは?郡国制は六国よりも西楚覇王体制の継承と。

 二編一章、治水であって生産関係云々ではない。前漢武帝の大規模な工事も北辺に輸送するため。灌漑は副次的なもの。水利技術・思想・運営機構が整備されたと言っても、それを古代統一国家の基礎条件とするのは適当ではない。
 王景や召信臣のように太守が水利などの決まりを調停して、そ子での取り決めを民に守らせようとしている。遊び道具を巡ってケンカした子供の仲裁をする先生的な感じか。法令を末端に押し付けて守らせるよりも、自生的な秩序を確認してそれを見張る慣習法の方がうまくいきやすいので当然の流れだろう。郷里秩序=慣習法と看做すとわかりやすいかもしれない。

 二章、黄河下流域への自然的な集落発生。流民を防ぐためにその安定化に力を入れた。それが災害を広げた。宋や清と違い中央に黄河治水の担当官がない。後世は徴税と雇用による治水だが、漢は徭役。戦国・秦漢は黄河下流域の集落は定まってなく、人口の移動があった。これが後漢末のポイントなのかな?
 明帝紀の詔に、黄河の堤防について左が強ければ右が破れ、右が強ければ左が破れ、左右が強ければ下が破れるという志村けんのコント*1のような話がある。初めは兗州が主に被害を受けて堤防を強化したら、冀州のほうが主に被災するようになり、また冀州の堤防強化で、下流の地域が被災するという流れと。王莽の黄河改道で宋まで変遷なし、中国歴代六大変遷の一つに数えられていると。後漢では大雨の氾濫くらいで大規模決壊なしと。
 救済・賑恤がメインであって、生産関係のための灌漑などが緊急の課題となっていない。前漢賈譲いわく、黄河の氾濫のあとで民が肥えた土地を求めて集落を形成することを報告している。なるほど、エジプトのナイル川のあれみたいなことが中国でもあったのか。黄河の決壊で冀州の被災以降、黄河以南~淮水以北への人口流入か。被災・人口移動に相関性があるなら、袁紹曹操の治世で冀州に人口流入しているということなのかな?

 三章、穀物は災害時などのために取っておく、基本地産地消で税を輸送するという発想はない。滎陽の敖倉は、後漢首都洛陽で近く&領域内なため河南尹の管轄に。大司農に太倉令や運河関連の水利官があることを考えると前漢では大司農所属か?大司農と河南尹は漕運で繋がったか?河東郡に二つ大倉あり。黄河穀物管理は大司農管轄にあったとみなせる。中尉=執金吾も軍事・労役の観点から輸送を担う。太守治所と都尉の治所が違うことがあるが、これは民政・軍政別、二元支配の発想から。要所の都尉は太守の権限を凌ぐ。武帝時代の酷吏がいい事例。おそらく武帝以降この二重方針も一元化されて消えていくだろう。後漢末期に都尉の二元性にしなかったのは、爵で良民支配・皆兵のようなことがとうてい無理だったからだろう。

 四章、水利の話。細かすぎるのでパス。後漢首都が遷って、右扶風・左馮翊の人口が減っている。京兆尹と合わせて約120万。董卓の遷都及び強制移住は首都長安の機能強化か。
 五章、漢代の地域区分として、関中及び司隷・関東・南陽から淮水一帯・呉・蜀の五つの地域分けをしているが、どういう基準でどれくらい常識として通じていたのだろうか?諸侯王・列侯・大姓の反乱、光武帝の時、青・徐・幽・冀州の郡国大姓の反乱は諸侯王が多かったから。特に琅邪郡。琅邪郡=列侯の土地柄というのがポイントになるのかな?
 六章、四民月令。豪族の農民経営のためのものではない。当時の政治学説が反映されている。乱れた吏治を教令で治めようというもの。郡県制が民政重視とその乱れという流れにあるのがわかる。「腐敗」とかそこら辺が少し引っかかるが。法令化された故にいちいち伝えられるものではなくなり、農業技術などの部分のみが斉民要術で残った。
 水利事業・労役など話が細かすぎですね。まあ、史学の人・院生さんにはそんなことないのでしょうけど、門外漢にはついていきづらい話が多かったですね。理解できないならいちいち読んでないで、さっさと飛ばせよという話なのですが。

 前漢に比較して県が削減され、県の規模が大きくなり少ない官吏で統治することになる。軍事→民政→自生的秩序に委ねる=豪族というパターンかな。貧富の格差。労役を税で賄えるものとそうでないものが出てくる。

*1:志村けんがタンスの右の棚を閉めると、左の棚が勝手に飛び出して開く。その左の棚を押して閉めるとまた右の棚が出て来る。で、両方閉めると真ん中の棚が飛び出してきて顔面を打つというやつ。若い子は知らないだろうけどw