てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

『莊子 外篇・雑篇』 読んでの気づきとか考察メモ <後>

新釈漢文大系〈8〉荘子 下巻/明治書院

*1
 ※例によって長いので分割しました。いつものようにタイプミスの誤変換・脱字の修正と読み返してのちょいちょい修正・追記をしています。今回は、ああそうだこんな話があったっけとか、こういう事も言えるのかな?とか追記をしているので、暫くはこの記事コロコロ変わると思います。前半はこちらです→『莊子 外篇・雑篇』 読んでの気づきとか考察メモ <前>


 第十五刻意 必死な行動、言論での仕官も隠遁もダメ。呼吸法などによる自彊術もダメ。何もしなくてもうまくいくのが聖人。水のたとえで、静的な水が出てきても動的な水の話は余り出てこない。あっても余りポジティブ・+なものではない。身体論的に言えば前者の静は無論のことで当然論じられているのだが、後者の動・激しいエネルギーをも備え持つ水という物の本質を語りきれてない。片手落ちの感があるように思える。「秘蔵の宝剣」天地万物に精神がある。純粋でまじわらせない。天真のまま欠けないのが真人。天地感応のロジックと一緒。じゃあどうすんの?修行しないの?という話になってきて、天才しか実現不可能ということになってしまう。
 第十六繕性 道世相喪、古の隠人は積極的に隠れたのではない。言が受けいられないときだけそうした。ハマれば大活躍するがそういう世でなければ身を安らかに保つ。昔の志というのは出世を意味するのではない。立身出世の行動・言論・学問への否定。哲学・宗教性強し。
 第十七秋水 河伯と北海若の話があり、名篇とされているとか…。本当にそういう評価なのか?孔子が衛・匡において囲まれてもひるまなかった(文中では栄人であるが、衛人とする説もあるとか)。恬淡としていた。孔子へのプラス評価は多い。公孫龍が莊子に戸惑う話、魏公子牟との対話。この魏公子は後にまた出てくるが、田子方も魏の文候に話をしているシーンが有る。覇者としての文候だけでなく、公子の話もでてくるのは土地柄・思想上道家と結びつく要素が多いのか?それとも興国期の文候と傾国期の公子の違いというだけでたまたまかな。*2弁論術に対する宇宙論宇宙論で煙に巻くという対抗策は当時有効だったとみなすべきか。故に陰陽家の発展・伸張。邯鄲の歩、莊子にも見えているわけだが、邯鄲の歩というのはいつ頃から見受けられるものなのだろうか?三国に分裂して、胡服騎射で強国になった辺りから雅な土地柄になっていったのか、それともそれ以前からそういう要素があったものなのか?(燕の若者が雅な歩を学びに来たわけだが、燕の地・人の事例は少ない。ひょっとしたらこれだけかも。)
 莊子が楚の仕官を断った話。恵施のいる梁へ訪れた話、濠の上の話。―計、5か6程のエピソードがあるわけだが、一貫性がない。最初に抽象的な話をして、適当に話を詰め込んでいくのがパターンなのか…。*3
 第十八至楽 立身出世・富の否定。万物造化、死生にこだわらない話。余人に出来ると言えるだろうか?当然無理。ここまで極端な思想を見ると、ある種の快楽主義と言える楊朱の裏返しとすら思えてくる。妻の死に平然としている莊子とその相手に出てくる恵施。最初恵子との問答を見たときは、道の概念を理解しない典型的な理解できない人間のように思えたが、むしろ莊子の思想・学識の深さを理解しているからこそ莊子も彼との付き合いを好んだ。問答を挑む好敵手・論敵というより、良き友人のように思えてくる。現実政治の話にこだわる恵子ではなく、莊子の言う道を理解しつつも、その深淵を知ろうと人間の理性の限界を理解しながら論戦する。自分のスタンスは崩さず、莊子の思想を探る。一連のやり取り、関係性を見ると、半ば遊びながらツッコミを入れて知的遊戯を楽しんでいるように見えてくる*4。(髑髏、死者との問答がある。これも楚の地。また海鳥の話があり、勘違いした鳥の養い方の話がある。これは魯候)
 第十九達生 人の精=天地万物の精と同じ。精を保ち極致に至れば、天下の化育をたすける。尹喜・函谷関の令と列子の話。*5
 楚の林での佝僂・せむしの蝉取り*6、船漕ぎ、養生(船こぎと養生は孔子が出てくる話であり、これもまたプラス評価での登場)、木鶏、水泳、名工、馭者。すべて忘我の境地で物を忘れる集中状態となる。名人・達人・天才の話だけのほうが上手く収まるのに斉の桓公の妖怪の話などが入ってくる。病を忘れたから治ったということか?いずれにせよこれでまた章・一つの篇としてうまくまとまらない、スッキリしなくなる。(名工は魯の人間で、馭者の技を見せる相手は魯の莊公でひと目見ただけで失敗を予見するのが顔闔)
 ※追記:田開之が養生の話をするところで内においては~外においては~と言う話をして、孔子の言を引いて内を養って籠もるな、外を養って現れるな。枯れ木のように無心に中央に立て。内外両方で調和をすべきだ。かくあれば至人の名を極められるとしている。この「内と外の論理」というのは往々にしてよくでてくる話で、この「内と外」というところに着眼点をおいてしっかり読むべきだったなぁ。もう読み疲れたからやらないけど(^ ^;)。そもそも莊子がいちばん初めにしている大事な分類分けが<内篇>と<外篇>だったし、そこに注目しなければならなかったですね。
 蒼天航路曹操は陣形を完璧にしない、きちんと整えない。必ずどこか一つ外してくるなんて話があったが、そういうふうな発想があるのかもしれない。完璧に整えて論理の整合性や完成度の高さを目指すよりも、このように必ずどこか崩す。わざと整わないように外して作っているのかもしれない。不完成・未到達の美みたいな。戦場・戦陣においては、どんな事態でも対応できるようにあえて完全な形にせず以下用にも動けるようにしておく柔軟性の維持ということでわかるが、書・テキストとしてこれはどうなのだろうか?後人の補完・文献の散逸を想定していたとか?ラストの孫休の話も理解が俗人には難しいという主張を加えたから全体としてのテーマ・主旨がよく分かりづらくなる。前フリ・今回のテーマ→具体例→オチ~みたいな流れが全体を通じて共通しているというのならばいいのだが。鳥をもてなすには鳥が好むものでもてなすのが正しい。人と同じやり方、食事・酒では鳥も困惑してしまい、やがては衰弱死する(この鳥のたとえ好きですね)。道の思想も同じ、理解し得ない人間に深遠な道の話を説けば戸惑い迷ってしまう。
 
 第二十山木 市南宜僚が魯候に出家を誘う話。衛の大夫・北宮奢が衛の霊公のために鐘をたった三ヶ月で完成させた話。道に従って強制しないやり方。
 春秋時代における道家の有効性、道家思想の人間が統治技術を持っていたという話。官僚制以前、法治以前の社会では労役は強制。強制労働に近いそれは当然能率が落ちる。それをしないだけで上手く行ったということなのかな?こういう道家の民を効率的に使役するというのは妙術、優れた統治・使役技術として映ったはず。故に春秋初期・中期頃には道家という思想が為政者からも注目されていた可能性は十分に考えられる。まあ莊子的というよりも黄老的と言えるのだけれど、両者が未分化・枝分かれしていない時期・段階であり、どちらからも道を弁えたものとして映っただろう。ある一定の時期・段階までは為政者や官吏層から注目されたものの、法治社会・官僚制以降はそちらの方がより能率が良いものとなって、通用しなくなり駆逐されていったという流れともみることが可能だろう。
 道家思想の消失と道家思想の集大成者莊子の登場 莊子の活躍した期間が大体春秋から戦国時代へと移行する期間だったということと併せて考えると、そう見るのが自然に思える。丁度道家思想が為政者・統治階級から魅力をなくして、その言説・及び論の説得力を失っていった。社会から道家思想が急激に消えていくという時代背景があったことを考えると、断末魔の雄叫び・最期の煌めき、集大成として莊子思想が生まれたと考えることも出来るかもしれない。あまりにも社会や政治への無関心・関係性の無さは、社会から消えいく道家思想というもの故だからか。無意味・無価値・くだらないから消えるのではない、世の中が間違っていてその真価が理解できないからだ!そんな腐りきった今の社会に何の価値もないわ!というメッセージ・テーマ背景を考えてみると、反骨精神が通底していることがわかるし、世の中への痛烈な批判・皮肉・警鐘が読み取れるだろう。
 道家思想には終末・末法の世という発想、警鐘と救済というものがない 面白いのは、当然こういう真理・道を理解しないというのならば!必ず世は滅ぶ!終末は近い!末法の世じゃぁあ!という風になっていくはずなんだけれども、そのメッセージ性が非常に薄い。もちろん、道なき政治は危険・失敗するということは枚挙に暇がないくらい出てくるのだけれど、逼迫したものではない。この世の中への警鐘という点でもまた消極的。危機を煽って、救済を売りにして宗教は伸びるものだがそれがない。そしてそれが出てくるのが言わずとしれた道教の時代。莊子は「亡天下」を論じていない。それこそ後漢末期や晋朝の崩壊で中華自体が消滅するような発想・天下が滅ぶという考えが彼の中に一ミリもないことがわかる。せいぜい、秦や楚といった戦国の七雄レベルの一国の崩壊・消滅。そういう時代背景だったことも道教のような宗教・教団の誕生につながっていかなかった要因だろう。*7
 墨家道家の衰退と名家・法家の伸張。では儒家は? 莊子が春秋から戦国時代の過渡期に活躍した思想家だったという話に戻して、時代が経るに連れて*8墨家道家政治及び統治技術から名家・法家政治及び統治技術へと移り変わっていったという流れ、時代背景があったと推察出来る。そういう話になってくると、当然、儒家儒教はどうだったのだろうかという疑問が出てくる。孔子孟子荀子は言わずもがな、呉起(呉子)ですら曾子の弟子だった。呉起は任侠の性質が強く、立身出世が主体にある人物なので、少し異なるようにも見えるが、こういう人物が儒家からスタートしていることがポイント。先鋭化する孟子のそれは別としても、変化・変容にこだわりがないというか、窓口が広く色んな人間が学んでいたこと。法家や兵家思想の端緒という要素を持っていたことがポイントだろう(まあ、言うまでもなく法家も兵家も儒以外のものを端緒とした物はあって別系統の法家・兵家思想はあったのだろうけど)。道家と同じく韓非子に代表されるような法家の時代になるとその思想の有効性・有益性は後退し、漢の時代まで雌伏の刻を過ごさねばならなかったという流れ。あ、そうか荀子は結構すぐ登場してきた印象だったけど、戦国末期なのか。素直に儒家→法家として、荀子を代表例に出すだけでよかったな(笑)。大義名分というか理想が実現するはず!と信じて疑わない孟子と、法の論理を唱える荀子に時代の変化・進展を読み取ることもまた出来ますね。
 消える道家と根付く儒家 道家思想が大々的な思想基盤・担い手がいなかったのに対し、儒家は統治階級に伝播していった。豊富なテキストの存在以外に、冠婚葬祭のような儀礼に食い込んでいたのが連綿とした知識の伝承に役立ったのだろう。結婚・葬式は現代でもビジネスとして成立するくらいなのでその意義は想像しやすいだろう。まして葬儀の意味合いが大きかった古代において、結婚が血縁による同盟を意味する時代においては言わずもがな。そして地域秩序の祭祀、祭りや位階の叙任などに関わることで発言力や影響力を保持し続けていった。思想よりも儀礼の端緒ということで孔子儒教が国教に選ばれたと言ってもあながち間違いではないだろう。
 
 孔子が陳・蔡間で囲まれた話。これも莊子のツボなのか、よくでてくる。太公任がひけらかすから危難を招くのだという話があるが、その話自体は別としておいといて、この危機・苦難において、孔子の行動方針・政治方針が変化したとすると面白い。他人の指摘があろうがなかろうが、このような結果で以後、孔子の集団から先鋭性が失われたという可能性は充分あるから。孔子も道を重視した生活をするようになり、自然に交わり暮らし鳥獣すらも孔子を恐れなくなったという一説がある。まあブッダの話と同じですね。悟りを得たと。明言こそしないものの、道家的にも孔子を悟りを得た、道を学んだ聖人(道教的には至人や真人というところか)だという意識がある。また、君子之交淡若水ということを孔子は学んで成長したという展開になっている。おそらく時代や土地によって、道VS儒のようなものがあったり、逆に道と儒を融和させようというものがあって、その両者が混交して、方針がどちらになるか結論が定まらないまま、このようにテキストにまとまった結果なのだろうか?孔子・莊子・孔子・莊子と話が交互に出てくる(魏恵王に莊子がなんで先生は病んでしまったのか?という話)。莊子>孔子という能力・人物の差を見せつけたいわけでもないように思える。むしろ、陳・蔡の危難と鵲のエピソードを併せて、孔子と莊子には共通性がある、学習して同じ悟りを得たと言いたいように見える。
 莊子の鵲(かささぎ)を捉えようとするエピソード。ハンターハンターで、獲物を捉えようとする時が一番隙が出来る瞬間なので、その瞬間を狙って獲物を仕留める・攻撃するという話に似ている。処世訓として戦国時代当時においては大いに参考にされた、士の心を掴んだ話ではなかろうか。最後に、陽子という秦の人間が、宋に行った宿屋で美人よりもブスのほうが愛されているという話
 第二十一田子方 魏の賢人田子方が魏の文候に東郭順子のことを話、文候が東郭順子に感じ入る話。莊子は釣りをしている所、楚の威王に招聘されて断った話があるが、周の文公・太公望と対蹠的な話。これも人物や器量の違いではなく、単に時代が変わったから。道家思想を備えた賢人が魏の文候のようにたまに賢君を感動させるだけ。溫伯雪子(楚の賢人)―魯の形式主義・形骸化の話。莊子が魯の哀公と面会して、魯に一人しか儒者はいないとか、宋の莊子が語るのが特徴的か。真人は何をせずとも自然にそうなるという話。であれば自ずと凡人には限界があることになってしまう。周の文王が臧の地で太公望に会い政治を任せた話がある。何もしなかったために人々は互いに譲り合い党派は自ずと解散していった、自然と政治が上手く回ったという話。宰相のような政治を総覧する立場のポストがあり、そのポストを誰が占めるか、どの国のどんな派閥の人間が占めるかで利益関係が大きく変わる。故にどんな立場の人間でもない全く利害関係のない第三者に任せたという話かもしれない。政争が発生しないために各々の職分を全うするだけになったということではなかろうか。まあ、何れにせよ古代・政治制度の未熟な段階において通用することであり、官僚制度が発達するとそんなことは起こりえないだろうが。(百里奚、秦(虞)の人の牛がよく肥る話。宋の元公の画工の話。孫叔敖が三度令尹(宰相)になり、三度職を辞して恬淡としていた話。徐無鬼でまた孫叔敖が出てくるので一応メモ。楚王と凡国の君主の話)
 第二十二知北遊 不立文字・真言の話。知らない者の方が知っている。究極は忘れ去ること。田子方で出て来た東郭順子が莊子に問う。道は糞尿にある。真人・至人とも言うべき東郭順子より莊子は更に上にあるというエピソード。最期は前述通り、孔子が道を話して終わる。最初の方は孔子についてマイナス・負の話もあったが、最期は孔子自身が道を理解し諭すというところを見ても、最終的には孔子が道の重要性を理解し、学んだということ。だからこそ孔子は凄いのだと称えていると理解できる。孔子を通じて儒の権威を取り込もうとしたと先に書いたが、孔子をある種の道家の至人・真人にすることで、儒家達に道を学ばせようとした、道の重要性を説明したとも考えられる。各地に広まる儒家達が興味を持ってサブテキストとして学んでくれればしめたものというところか。ある種の托卵戦術なのかもしれない。(楚の帯鉤工人の話)
 
 <雑篇> 第二十三庚桑楚 老子の教えを実行する庚桑子の話。実り・大きな仕事の達成。恵み=儲けをもたらすものは偉人とされる。でその土地の人達から、社而稷之=神格化されて祀られるという流れになる。庚桑子はくわばらくわばらとばかりにこれを拒否。利を与える存在としての聖人なんて偽物、待っているのは破滅の運命といういつものパターンで弟子たちを諭す。これを聞いて大いに感じるところがあった南榮趎は教えを請い、老子のもとで修業をすることを勧められる。老子のもとで「十日自愁」、初めて具体的な修行をするエピソードがでてくる。衛生之經―衛生の常法という学ぶべき内容が述べられている。宇泰定者,發乎天光―宇とは心宇、心のある所。
 第二十四徐無鬼 魏の武候、愛民は民を害する。民のため=自分のためだからやってはいけない。民のために軍備を止めるというのは民のために軍備を増強する論理と表裏一体で裏返せば同じことになるから。宋の元君が鼻の先につけた白土を斧で削り取る名人芸を見せてくれという話を引き合いにして、恵子を称える話。彼なくして自分の論説も最早生きることはないと語る。ここにも莊子が恵子を良きライバルだと認める話がある。彼以外ともに語り合えるものがない。(黄帝が童子が教えを受ける話、滎陽・泰隗山は泰山のことか?呉王がすばやさを鼻にかけた猿を殺す話。)
 孔子が楚にいった時、楚王が酒宴を設ける。孫叔敖執爵而立,市南宜僚受酒而祭―爵を持つ者と酒を受けるものが別。市南宜僚が酒を地に祭る。そもそも爵位制度は宴・祭と不可分で何を入れるかと言ったら酒しかない。祭酒=議長・司会進行役のようなものか。
 孔子を引き合いに出して名目を争う儒墨の否定。この儒は儒家後学の徒、魯の儒家は唯一人の話と同じ偽物のことを指しているとあるが、本当にそうなのか?孔子と儒は別だったのではないか?本当に儒家儒学儒教を前面に出していたと言えるだろうか?述べて作らずのようなメンタリティで、ただ先王の教えを説いているだけの孔子に儒こそ最高の思想であり、我こそは儒学の大成者じゃぁ!という意識はなかった気がする。
 物と物、人と影は離れないが、人の本性は簡単に離れてしまう。耳・目・心は本性から離れやすく一度離れると中々元に戻らない(其反也緣功,其果也待久―その反るや功により、その果や久しきを待つ)。己の知性・実力・能力を宝とするが故に競争・禍いを招くと。身体論的にはそのとおり、では世の中・社会・国家にとっては?となる。そして時間が掛かるにせよ功を積めば元に戻れる、本性を取り戻して至人・真人になれるというのならば、それをすべきということになるはずなのだが…。
 第二十五則陽 則陽(魯の人)が楚王に推挙を求める話。故郷の国都を見るだけで嬉しくなる。故郷を離れた人間の心情、当時の人間の多くが仕官で立身出世を目指して故郷を離れるという時代の潮流を反映した話。とはいっても殆どの人間は故郷で人生が完結していたと思われる。せいぜい春秋レベルの国都の範囲ではなかろうか?柏矩が斉に行く話、罪人が磔にされているのを見て、一体これは誰の罪なのか?知こそが罪を作ったと嘆く。解説に孟子の主張とは少し違うが、民に恒産なくして恒心なしの論に近いという。こういうように探せば申しの主張を意識したような話が拾おうと思えば、拾える。見つけ出せるのかもしれない。(魏の恵王と恵子の問答。孔子が楚に行く途中の宿で市南宜僚に出会う話。はくぎょく衛の賢大夫)
 第二十六外物 詩礼を以って冢を暴く根拠とする、冢荒らしをする儒。魯に儒服多しと同じ偽物というがそうだろうか?その話とはこれはまた少し趣を異にする話だと思える。この当時の儒というもの、他者視点でも自己主張でも、むしろこういったいい加減なインチキな集団・人間が多分に混ざったものでないのだろうか?儒自体が下層の巫祝儀礼集団であったことを考えると、むしろかなり質が低いものであったとするほうが自然に思える。孔子以降、儒学集団が台頭・伸張していって初めて質が改善されていったのではないだろうか?それこそ孔子が登場する以前は宮廷や大都市の祭祀儀礼以外は儒教のそれで包括されていなかった。儒教的な論理や儀礼がまったくなかったとは思わないが、孔子によって初めて整備されて下流・下層民だったり、農村のような周辺だったり、社会の末端に至るまで儒的儀礼祭祀が浸透していったのではないだろうか?
 老莱子が外的特徴を以って孔子と断定する特徴が佝僂であり、佝僂=儒であるという共通認識が当時にあった!侏儒(しゅじゅ)―①こびと・②見識のない人間に対する嘲り―といった言葉があるように、儒は巫祝・下級祭祀の担い手であり、ある種の身体障害者が担い手になっていたと考えられる。孔子が佝僂の蝉取りの技に感嘆した話も儒者かもしれないと近寄って挨拶しようとしてしてみたら蝉取りの名人だったという要素があってもおかしくない。(任国公子が牛五十頭を餌にどでかい魚を釣り上げた話。宋の元君の神亀の話。宋君が親孝行者を高官に取り立てたら郷党の半分が泣いて餓死した話。)
 第二十八譲王 貧乏エピソード。この貧乏話もまた典型的な事例でよく見られるパターン。子貢、魯の原憲に「どうして先生は病んでしまったのか?」貧乏、貧を病むと表現する。病んで働けないから貧ということか?(韓と魏の争い、華子と昭候の話。顔闔が魯候の進物を拒否して姿を消した話。列子が鄭の大臣子陽の贈り物を拒否した話。曾子が衛の国で貧しかったが高雅な詩をうたった話。
)
 中山公子牟、魏の公子でありながら出家というか高貴な地位を捨てて修行に励む。事例はこれだけ、一例だけなのかな?伯夷叔斉との血盟。契約を結んでから、自分たちの封禄や地位を約束する内容だったので、これは道ではないと破棄。事前に契約内容を示さずに血盟をするものなのか?
 第三十二列禦寇に鄭の緩という者の話。儒者として大成し三族に功が及ぶほどだったが、弟を墨者に仕立てた。父が弟・墨家の味方をしたことで自殺し、父の夢枕に立って恨み言を語った。これについて自分の才能・功を我がものと頼むからこそこのような行動に出る。徳を備えている者はその徳を自分の力によるものとは思わない。道はいうも更なり。自己の力に頼ろうとするものを天遁の刑という。宋の曹商が宋王の命で秦に行き、秦王のもてなしで車百乗をもらったことを莊子に自慢しにきた。それを見て秦王の痔でも舐めて治したのだろうと追い返した話。魯の哀公が孔子を任用しようとするのを顔闔が諌めて止める話がある。正考父の話、孔子10代の祖で宋の大夫。出世する度に謙虚になった人物。宋王から十乗の車をもらった者が莊子に自慢をして、莊子が宋王の正確の激しさからいずれ身の破滅を招くだろうと警鐘する話。
 あとどうでもいいっちゃいいことですが、天下篇で「老弱孤寡」の部分の訳が「老人・幼児や孤独な人々」となっているのですが、老人・孤児・寡婦のことではないのか?弱は弱者?貧困家庭の低所得層のことか、先天的な弱者=障害者のことかどうか知らないですけど、孤独な人々ではない気がするのですが…。

*1:※一応楽天リンクも新釈漢文大系 8 荘子 下

*2:関係ないけれど、公孫龍が初めて歴史に出てきた頃には非戦や兼愛という論を説いていたこと。此れを以て元墨家であるとするのは短絡的であるが(墨家の専売特許ではないから、無関係の人間がこの論を専門とする論者・思想家であっても何ら不思議ではないので)、墨家集団が歴史から姿を消していく頃に過渡期の存在として位置づけられるとしたら面白い。元墨家、あるいは元墨家思想をも学んでいた学徒。墨家思想に惹かれるところが多々あって門を叩き学ぶも、思想の有効性の喪失によって転向。墨家のように政治集団が滅んでしまえば意義を喪失してしまうというような思想ではダメ。思想独自で永遠の生命を保ちうるような学術性を求めた結果が弁論術、名家だとするとつながりとしてキレイに繋がるので面白いところ。※追記:第三十三天下篇で公孫龍と桓団という括りで論者が出てくる。共に趙の人だとあるが、ここも後々関わってくるのかな?それはおいといて、墨家の三氏がお互いこそが正当だとして堅白同異の詭弁を用いて論じあっているという下りがある。これもまた根拠として決定的なものにはなりえないが、墨家集団内部での派閥争い、自分たちこそ正当であるという宗派争い・正当性論争のために弁論術の必要性があった。故に公孫龍が輩出された、公孫龍が必要とされて墨家集団の一派に招聘されたと考えることもできそうだ。

*3:まあ、最初に書いたとおり、我々が住む世界というのは非常に大きく果てがない。大きな世界が存在し、自分がいかに小さい・狭い世界に生きているかということを自覚するものはとらわれない。広大な世界に生きるものは自由であるとか、まあそんな話をしたいのだろうが、上手く繋がって読むものを引きずり込む、なるほど!と思わず膝を打つようなものがない。

*4:※参照―恵子と荘子の問答

*5:急に思いついたのだが、老子の教えを伝えたのがこの関所の人間、一役人。高官かどうなのかわからないが、彼の影響はどのくらい入っているのだろうか?関所の中の関所と言っていい函谷関、一大ターミナル。そういう場所が思想に影響を与えているという要素はないのかな?舜が聖人ではない、君子だと言われたのも確か関所の役人。色んな人間がいり巡るところだからこそ、ふらっと賢人が迷い込む。うろついているものだという発想があるのかもしれない

*6:地味に気になっているのだが、どうしてセミを取っているのだろうか?食用?ググったら『本草綱目拾遺』に薬用昆虫が 84 種書かれているとのこと。漢方で冬虫夏草があるくらいだし、漢方の一環で昆虫食も当たり前に根付いていたということか。

*7:当時の教団といえば墨家のそれくらいだし、孔子集団とあとは戦国四君呂不韋のような任侠・学者・勇士・雑技の食客集団くらい。あれ、食客集団って連合軍を形成する際に重要な繋ぎ・仲介役となるって昔書いたっけ?呂不韋がそうしていたのもこの連合軍対策という意味合いがあったのかな、やっぱり。

*8:どうでもいいけど時代が経るってあんまり言わないかな?時代が下る・流れるか。流れるもあんま言わないかな

『莊子 外篇・雑篇』 読んでの気づきとか考察メモ <前>

※例によって長いので分割しました。後半はこちらです→『莊子 外篇・雑篇』 読んでの気づきとか考察メモ <後>

 半年以上前からやるやると言っておいてやらなかった莊子の話。これも書き始めて一週間くらいかかりました。ちゃんと真面目にやれば1~2日で終わるだろうにね。いや~ヒドイヒドイ。
 都合上、内篇は後回しで外篇から書きます。内篇の方が大事なのに後回しでどうするのって話ですが、ご容赦を。というか胡蝶の夢とか有名な話をいちいち書いてもな~という気もします。そんなの書いても単なる解説ページになるだけだし、書く必要ないかな?と思ってもいます。
 単なる個人的メモ・気になった事と、その時代背景などの推察です。莊子の主張・思想についての詳しい&分かりやすい解説を知りたいという人はご覧にならないほうがよろしいかと思います。内容読んで面白いと思う人が果たしているのだろうか?こんな個人的感想を書いて読む人は全国に五人くらいかな?そんな物書くなんてどうなの!?

新釈漢文大系〈8〉荘子 下巻/明治書院

 ※ちなみに読んだのはこちらです。訳とか解釈とか色々大丈夫なのかな?とちょっと思いました。もっと良い訳書あったりするのかしら?*1

 全体の構成について 最初は具体的な事例を上げた例え話から始まる。指・馬・宝を入れる箱・袋―具体的なものから道を語る三篇。その次は天の話をする天シリーズ三篇。そもそも天・世の中の仕組みとはどういうものなのかという話。あ、その前に在宥篇があった。天下を治めるという発想がそもそもおかしい、間違っているという話をすることで、天三篇へ話を進めるワンクッションとなっている。その天三篇の次の二篇で通常行われている人為努力・通俗の学問が間違っているという話。で、その次の秋水を含めた三篇でひとまとまり・ワンセットと見るべきなのか、井の中の蛙のように、人はいかに狭い世界でしかものごとを知らないか&知り得ないかという話なので繋がらなくもない。繋がらなくもないが少し微妙な所。
 その次は、至楽・達生で最高の楽しみ・幸せというものがなければ、生命を保つことも不可能という話で人間・人生の限界の話。では具体的にどうするべきなのか?どうやって生きれば良いのか?という話になって、山木篇で用・不用どちらでもダメ。中間こそが身を保つ最善策という処世術の話になる。で最期の一つ前の田子方で優れた人物とその話の列挙・断片集で、最期の大トリに知北遊でこれまでのおさらいというかまとめという感じの構成になっていると思われる。最期は孔子の話でおしまいとなる。
 限りある人知でいかに努力しようが無駄、却って悪い結果を招くオチになるだけ(≒盗賊を利するだけ)。限りある人生・生命で無駄に苦労をするなんて何の意味もない。真理というものは決してつかめないもの、逍遥するだけ。まあ、大体こういう感じか。しかし読んでいて全体を通じた構成が本当につかめないのでイライラしたなぁ…(笑)。構成は振り返ればそんなに難しくないんですけど、一篇のまとまりが本当によくわからない。分かりづらいから腹立つんですよね。読んだ感想が腹立つ・ムカつくってどうなのか(笑)。いや、読んでいて面白い部分はあるし、なるほどとはなりますよ。理解できないところがあるのは当たり前だし、予定調和内といえばそうだけど、やっぱ思想系・哲学系の本・話は内向きというか、自分の世界観にどっぷり浸って延々と語るという性質があってとっつきづらいですね。個人的に思想・哲学系はやっぱり向いてないなぁ・適性がないなぁと実感した所。
 ※追記:ああ、それと、基本的に現世否定というか現代の潮流否定なので、否定のロジックが多いですね。これも違う、それも違う。あれもダメ、これもダメというクレヨンしんちゃんの昔のOP曲のような論理や展開が多いです。その結果、消去法の果てに、最後に残されたダメじゃない部分、間違いじゃない選択肢たちを拾い集めて見事に正解をばばーんと提示してくれるならスッキリもするんでしょうけれども、当然そういうものもないのでイラッとします。まあ読後不良感につきまとわれますね。これを一読して理解できる人間。「知」というフィルターを通さない人間にとっては、「ああそうだよ。そうそう、そういうことなんだよな~」と読んでいてスッキリ爽やかな感覚を覚えるのでしょうか?正直、論理整合性や思想性・哲学性は仏教とかに比べてさほど高くないので、そういうものや後世のものと比べてそんなに評価は高くないんじゃないかなという気がしますね。最初に本格的に論じられた書という意味での評価はあっても*2。まあ言うまでもないことかもしれませんが、基本ロジックは否定と逆説となっていますね。<追記ここまで>
 そんなわけのわかんない個人的読後感・オチを書いたところで、以下拙感想・メモです。
 
<外篇>第八駢拇 仁義の主張を過剰・行き過ぎたものとして否定する。仁義は正道・至正から外れている。
 ※いきなり、莊子とは関係のない思想の歴史背景の考察。宋は思想上、重要な土地という話。楊朱・墨翟は宋の人となっているが、活動拠点が宋ということなのか?言うまでもなく、莊子・莊周も宋の人間で、論敵で梁つまり魏の宰相を務めた恵施(恵子)もまた宋の人。孔子の父の家が元々は宋の出だと史記にもある。魯がある種最初の思想上の重要な拠点であると思っていたのだが、実は宋の方が魯よりも思想上重要だったりするのだろうか?楚と晋(あと周とかも)の間にあったことが中継地となって交流を盛んにさせたということか?衛と宋は殷の遺民であるから、そういった「周なにするものぞ!」的な風土があって、それ故に思想が盛んになったとか?爵位で数少ない公爵の地位にあった宋。爵位上の位置付けで外交や戦争に関わらざるをえず、そういう需要・背景から思想が盛んになっていったりするとか?どうなんだろ。かなり間が空いてしまうけれど宋襄の仁の頃覇者となっていたことが関係あるのかな?
 
 画一化、人間の商品・製品化への反発 指の多い少ないで悩むことに例えて、仁義などをやかましく騒ぎ立てる儒やその他の論者を否定する。ものさしなどで規格を作り物をつくることへの反対。画一化は人の本性の破壊となるから。自然・先天的なものこそが道に適う、画一化はもちろん、思想家の訴える主義主張は後天的な人為に基づくものであり、性や徳に逆らう行為であるとする。仁義はフォーマット、人を一定の規格を備えた商品・製品・マニュアル化する。天性を失った人間、本性を失わせる儒というものへのアンチテーゼ。言うまでもなく、マニュアルは現場知らずの頭でっかちバカ、応用が効かない使えないバカを生み出す。そういうマニュアル学問への強烈な批判となったことは言うまでもないだろう。
 そもそも仁義≒個人が良いことをすれば、社会が良くなっていくという考えがおかしい 初めて仁義を実行したとされる舜を否定する。そもそもその仁義がおかしい。小人は利のために、士は名のために、聖人は天下のためにそれぞれ身を投げ出す。本性を害(そこな)うという点では皆同じ。羊飼い達が読書をしてようが、遊んでいようが、羊を逃してしまったらどっちも同じ(五十歩百歩みたいなどっちもどっち的な例えが好きなのかな?)。伯夷も盗跖も莊子にとっては同じカテゴリー内の人間。本性を害っているのかどうかという点が莊子の思想にとってポイントになる。
 ―という莊子の思想・主義主張を見てみると次のような疑問が沸き起こってくる。では良い本性と悪い本性はどう区分けされるのか?舜と華の関守の対話にあるように、聖人は福を禍を招くものだと恐れる必要はない。道に応じるものならば、それすらも対応することが可能であるはず。折々、金銭・高位高禄・善行を避けるべしという話は出てくるものの、だからと言って必ずしてはならない、絶対に避けなければならないということでもない。本性を全うするというのならば、楊朱ではないにせよ、ある程度の欲求に従う・満たそうとするのも自然のことであるはず。立身出世・高位高官を拒絶することは危難を避けるために良いとして、それこそ敢えて過度な貧困を選ぶ必要性はないはずではないか?それこそ身分に応じて、王にふさわしい本性の全うの仕方、庶人や奴隷の本性の全うの仕方という話になってくるはず。しかし、そういう具体性はまるでない。「なるほど。じゃあ、私も莊子の教えに従ってそういう生き方をしようと思います。どうしたら良いのか教えて下さい」という問いに対する答えがない。世を捨てて自然の中で生きる。出家・修行生活くらい。100か0かの二者極端な選択肢しかないので、広まるはずもない。宗教や学問上、重要なものとして自助努力の論理が整備されていることという要素があるが、道家思想にはそれがない。故に努力して成長をしようという向上心ある人間には受け入れられないことになる。まあ、努力をし尽くして限界・壁に当たった人間が文字通り最後の道・方法論としてたどり着くことはあるだろうが。
 孟子への言及がない莊子 莊子には不自然なほど孟子に対する言及がない性善説や浩然之気という孟子の思想と重なり合う部分があるだけに(仁者無敵とか、思想の非現実性という点でも近しいといえば近しい)、必ずそういう質問をされたはず。なのに孟子に対するコメントがない。生没年が殆ど同じで、同時代を生きた思想家なのに言及がないというのはかなり不自然。孟子孟子なりに一応の論・解を残したにもかかわらず、莊子は残していない。立身出世の競争という現代の風潮を否定・批判はしても、理想の政治やあるべき社会の姿・正解を説いていない(まあ、一応説いてはいるのだけれども抽象的で実現不可能なものだから説いていないのと同じ)。だから、結局、孟子についてはノータッチで終わった。これでは当代の社会において求心力・影響力は生まれるはずもない。恵子との高度な弁論があって、そういう方面での影響は残ったのだろうけれど、現実政治の影響についてはほぼゼロと言えるだろう。*3 *4いずれにせよ、この時代を代表する偉大な思想家の二人が(当時でも偉大な思想家と見做されて崇められていたかはともかく)、交わらずにいた。非現実的、独善的な思想・主張を繰り広げていたというところは時代の段階として一つのポイントと見なすことが出来るのではなかろうか。
 ※追記孟子と恵子と莊子 そういえば、孟子は梁の恵王から斉の宣王へと移っていった。つまり魏から斉に思想活動地を移したわけだけど、恵子が梁で大臣を務めていたことからわかるように、孟子は自説が受け入れられないことがわかって移った。ここだけ見れば孟子の敗北&恵子の勝利という図式が成立する。正確に年代が被っているかどうかよくわからないので、孟子的な思想が通用しそうにないという意味で敗北で、恵子的な思想が通用する風土・時代だったという意味で恵子の勝利という意味で理解したい。恵子の思想のほうが時代の価値観・需要とマッチしていたということで理解すればいいだろう。孟子よりも恵子=儒家よりも名家―ということだったと思われる。孟子の主張が非現実的なものを多分に含んでいるとなれば尚更。そんな中、莊子が恵子のもとを訪ねると宰相の座を奪いに来たのでは?と警戒する話があったり、楚に行ったり、莊子の活動範囲は大体魏(梁)から楚の辺りだと考えられる。孟子が梁から北・もしくは東、そして莊子が宋・梁から南だと考えると両者が交わらなかった理由もわかるかもしれない。まあ、実際交わったとしても名家の恵子のような見事なやりとり、孟子に莊子と噛み合ったやり取りを出来るとは思えないが。*5
 ※更に追記:さらに考えてみると、孟子はその思想性から周の文王に対する太公望のような扱いを求めていた、国師扱いを求めていたと考えられる。とすると、楚の威公が釣りをしている莊子を招聘したように、孟子国師扱いされる可能性があるとするのならば、呉子が全権を任されたように楚や秦のような国しかない(莊子の招聘も威公直々ではないので、その点確信が持てないと言えばそうだが)。国家権力・国富や領土の伸張を目的とする二国とは相性が合わないとはいえ、最大限厚遇される可能性があるのはこの二国だろう。斉に断られたら、趙に行って、その後この二国へ行くという選択をするのが自然に思える。しかしそうしなかった。斉の誘いを未練たらたらで待ち続けたように斉にこだわっていた節がある。まあ、一時期東帝と西帝というような中華を二分する勢力を誇っていたのでこだわるのもわかるのだが。
 自己の思想実現するために、孔子のように諸国を漫遊して仕官をしようという積極性がないのも、理想に拘り現実性が乏しい莊子と共通性を見出すことが出来ると思われる。また孔子が幼い頃、葬儀の真似をして遊んでいたという話があり、孟子は母にそれを止められた、学問に打ち込め!というような話がある(真偽は定かならぬらしいが)。学問>祭祀というところにも孔子孟子の時代の違いというものを読み取ることが出来るだろう。孟子の場合、学問で名を立てて斉に行く前に既に車を何乗も持ち、お供を数百人引き連れるというスポンサーがついていて食うには困らない背景があったのも、孔子とはまるで違う。
 孟子ではなく、恵子のような名家や荀子のような法家が現実性・積極性を以て現実政治に影響を及ぼす。その後縦横家戦国四君云々あって、最終的に「韓非子の法」=国家が統一的に行政を行う高度な法体系に集約される。韓非子は決して積極的に売り込んだものではないし、前二者のように非現実的なものでもない。しかし韓非子始皇帝に乞われ、招聘された。最終的に、韓非子の法と始皇帝という結果が時代の流れというところで個人的に観ていて面白いポイント・流れ。<孟子と莊子の話、ここまで>

 非吾所謂臧也―ここの「臧」は善と訳していいのだろうか?五味・五色・五声(聲)を良く判別し分けることが性ではないと莊子は主張する。性や善なるもの、仁義が問われ、これらの性質を解明することが性というものの本質を解き明かす鍵になると思われたからこそ、当時は盛んに分類がなされた。味・色・音などで通達し、結果芸術・料理や建築・絵画や音楽としてその成果として素晴らしいものを作る。そうやってその国の文化性・精神性の高さを誇ることが当時いかに重要だったかは言うまでもない(直近で言うと米ソの体制の優位性の証明のための科学やオリンピックでのメダル競争みたいなものか)。そういう高度な文化を作れる=本質を解明した結果であるわけで、本質である性をも解き明かすことに繋がると考えられていたことは想像するに難くない。
 自ら聞く&自ら見るのみ、得人之得とあるように先人・偉人の得たもの。言ってることをそのまま踏襲して自分で考えていないからこその強烈なダメ出し・反発という捉え方でいいかな。それだけフォーマット・規格化による五味・五色・五聲といった形式が世の中に浸透していったことへの裏返しとみなせるだろう。
 
 第九馬蹄 馬=戦国時代を象徴するもの故の喩え。名伯楽は世間や雇う側からすると称賛される存在。しかし使役される馬からするとたまったものではない。陶工や大工は土や木などを自由自在に使いこなし称賛される。しかし莊子はそれのどこが素晴らしいのか?とツッコミを入れる。莊子は人が馬や土や木と同じになっていると激しく批判する。大量生産・都市化で豊かになって便利!と思う反面、人もまた使役する動物や物と同じ存在となって扱われるようになっている。だからこそそれらを推し進める仁義というような基準に反発する。馬が名伯楽に反発する例えを、そのまま馬を人に置き換えてみると莊子の主張はよく分かる。礼や法という基準を満たさない・せないと罪になる、罰を受ける。統治者・階級の利を最大化させようとする行為が反発を招く。上下身分間での争い、国同士の争いというのはそこに端を発する。だったらその大本である利の追求をやめれば世の中は上手く収まるというのが莊子の言いたいところだろう。

 第十胠篋 斉の田成子を引き合いに出し、彼は国を奪った盗賊であるという。泥棒が宝物を厳重に守るために作られた袋や箱ごと盗み去ってしまうのならば、その袋や箱はその盗賊のためにわざわざ作ってやったことになりえよう。聖人が法や制度を整備した国家を丸々奪い取り、それに何の処罰も与えられない現状を見れば、聖人がやったことは泥棒のためということになる。盗跖とやったことは一緒であるにもかかわらず、その行為が認められてしまう。押し通ってしまうというのならば、聖人こそが本当の悪人と言える。当時のセンセーショナルな話題であり、孟子の残賊論、「一夫紂を誅するを聞けるも、未だ君を弑せるを聞かざるなり」云々の放伐理論が整備されるまで、政治・思想上の一大重要事件だったでしょうからね。まあ放伐的な捉え方が主流となっても、その是非が問われ続けたことに違いはないでしょうが。
 聖知は悪用される。聖知こそが問題の原因・起源 脣竭則齒寒,魯酒薄而邯鄲圍,聖人生而大盜起ーとあるように、グローバル化を利用したテロ組織と同じで、文明は悪用される。流石にイスラム過激派テロ集団ほど上手く乗っかって悪用したレベルではないが、文明の発達で生まれた変化が今の結果。悪事、大盗賊集団などその文明化の裏返しの所産。よって大悪を招いたのは「聖知」ということになる。非難対象・基準、ターゲットになっているのは都市などで立身出世を求めて弁論活動を繰り広げる諸論者。曾参・史鰌の行いも、楊墨や仁義の説もすべて捨てよ。才を外に出そうとするな≒論戦・演説で名を表し、仕官先で現実にその自論を政治として実行しようとするな!太古・神代時代を理想とし、知による争いは世を乱すとする。
 陰陽家の理論と同じロジックで、世が乱れる原因は、人が騒ぐことで陰陽が乱れるという論理をあげている。

 第十一在宥 束縛への否定。黄帝・雲将、無為による解脱。個の観念がある。消極的実行。気がついたらしている、それこそが道マスター。仁義も礼法も統治も気づいたらベストな形をとっているもの。過剰に積極的に善行をしようとはしない。当代の政治がまさにそうなっているからこその否定。やり過ぎは滅す。天道と人道があり、積極的にグイグイやろうとするのは人道であり程度が低いもの。つまり過剰に推し進めて利を得ようとするやり方、今の時代の潮流はいずれ必ず破滅を招く、失敗するやり方だと。*6
 ※解説や訳し方に所々「?」となるところがある。なんというかピントがズレている感が否めないというか。うーん…。

 第十二天地 天に道あり、人に徳ありという捉え方でなく、天>道というロジック・構成。天道の万能性の話。故曰、古之畜天下者,無欲而天下足,無為而萬物化,淵靜而百姓定。記曰、通於一而萬事畢,無心得而鬼神服。ーとかハッキリ言って非現実的でインチキ極まりない主張。時代の違い・政治の違いを無視して、昔の時代は道を弁えていたから上手く治まっていたとする。莊子の観点では、太古の政治は無為だった、道を弁えていたとなっているが、どうしてそんなことが言えるのか?未だかつて道を弁えていた政治などこれあらざるなり。そんな理想が実現されることがあるはずがないではないか。仮にあったとしても、どうしてそんなことがわかるのか。安易な古代理想論は現代の文明の利・富という現実の前にあっさり覆される。では現実的にどうすれば良いのか?友人・家族を持つ人はどうすれば良いのか?そういった現実無視の要素こそが莊子需要の無さ、一定の思想基盤・支持層を獲得し、そこから伝播・拡大することがなかった最大の理由だろう。前漢におけるまで黄老思想であって、老荘思想でなかったのも同じ理由だろう。別に莊子が全く無視されていたとは思わないし、ある程度取り入れられていてもおかしくないが、莊子は黄老法家思想、ある種のプラグマティズムにさほど重要なものとは見做されなかった筈。
 循於道之謂備―道に従うことを備という、=遺漏のないこと。まあ、ココらへんから劉備玄徳の名前に道家思想的な、道によって大衆を救済して漏らさず的なメッセージを解することも可能かな。
 道に応じた政治とは、自ら求めず相手に応じること「王徳」。多分急に出てきてブラりと一言・一動作で見事に結果を出す仙人や賢人のイメージ。見えないものが見え、聞こえない音が聞こえる。光を見たり、心地よい音を聞くというまあ悟り、一種の神秘体験に基づく発想。道=超能力を持つということに繋がる。
 與天地為合。其合緡緡,若愚若昏,是謂玄德,同乎大順。―心が天地に合わさる。怠心、愚、昏。ココらへんが劉備のイメージに繋がるのだろう。大順=Let it be的なことか?
 子貢が機械を勧めて断られる*7孔子曰く、渾沌氏の術。俗にいて俗にとらわれないことこそ本物。孔子も一定の敬意を払ってはいるが、孔子>渾沌・無為という要素がこのエピソードにはある。
 正論・真理は俗言に及ばない。故に我が身を保つことを第一と考えよ 親、君主、世間。一体これのどれが最も尊いのだろうか?親・君子への機嫌取り、道諛が世間では前者のそれは正しいこととされ、後者のそれは間違っているとされる。世間のその評価・価値基準がどうして正しいと言えるだろうか? 大聲不入於里耳。折楊皇荂,則嗑然而笑。是故,高言不止於眾人之心,至言不出,俗言勝也―立派な言葉は耳に入らず、俗な音楽は尊ばれる。真理を説いても受け入れられず、結果待っているのは、身の破滅だけ。ならばそんなことをするべきではない。本性を失うことは曾参・史鰌だろうが盗跖だろうが差は生じない(この喩えはよく出る。まあそれほど理解しやすい人物、著名人ということだろう)。*8鳩・鴞の籠にあるようなものという例えで制約を表現し、更に皮弁、鷸冠、搢笏、紳修などの衣冠による身体そのものへの制約・拘束の否定が出てくる。まさに身体論の反萎縮・拘束そのものですね。自由な身体、フリーでゆるんだ状態でなければ悟りは生まれないという概念によるものでしょう。
 間違った世の中であるがゆえに、正しい主張も聞き入られることがない。故に身を滅ぼすようなことがないようにしなさいというテーマだが、ではその逆はどうだろうか?道を弁えた人間であるならば大業を成すという論理であるように、正しい時節に巡り合って、正しい世になった時に、その正しい言説は受け入れられるはず。その「正常・正道の世」「正しい言」「正しい高位高官でのあり方(政策や行政に出処進退)」と言った逆の話がない。今がそのチャンスのときだ!立身出世していいぞ!という逆の話がない。故に片手落ち感は否めない。あれをするな!と失敗教訓・べからず集としては役に立つだろうが、当時の最大のニーズである立身出世のところがぽっかり抜け落ちているのでやはり需要は乏しくなる。まあ、そういう片手落ちで語らなかったからこそ、漢魏晋のような亡天下の時代に魅力を持つことになったのだが。
 
 第十三天道 放っとけば自然に動く。君主は静であれ!余計なことはするな。水のたとえ。水の如くあれ。無為であれというが、ではどこからが人為でどこからが必要最小限の無為なのか?どこからが欲・侵略で、どこからが自衛と言えるのか?というセキュリティジレンマ的な問答について答えられない。具体的な政治事件などを用いた有効な判例・模範解答がない。無為とされる、道を体現したとされる人物のさじ加減ひとつ。各国の君主が皆無為であるならばベストだろうが、そんなことは当然ありえないし実現し得ない。ではどうするのか?その現実世界の政治に他する具体的な解がない。確かにそのロジック・主張の示唆するものは大きいが、アンチテーゼではあっても有効性を持つものではない。
 身分制の肯定 臣下は有意。尊卑先後之序―尊卑の話、身分制の肯定。*9
 道家は天と道徳を重んじる。今は形名・賞罰。楚において莊子の需要があった? 是故古之明大道者,先明天而道德次之,道德已明而仁義次之,仁義已明而分守次之,分守已明而形名次之,形名已明而因任次之,因任已明而原省次之,原省已明而是非次之,是非已明而賞罰次之。という順番で、形名は5番目で賞罰は一番最後の9番目の指標だった。にもかかわらず形名参同術を用いる者、広義の法家はいきなりそれらを論じる。それはおかしい。順番通りにやっていればうまくいくはずだ―と。まあ言うまでもなく、昔ならともかく戦国時代となって国家が巨大化した状況でそれは無理。ただ、秦の統一と崩壊を見てもわかるように、楚のような貴族や諸侯が強いところでは統治に有効・一定以上の効力を発揮したのかもしれない。楚において莊子が招聘され、国政起用しようという話があったように、そういう思想需要があったとも考えられそう。
 道に通じ徳に合したら仁義礼楽はむしろ邪魔。至人にとっては仁義や礼楽が枷になるので排除される。
 斉の桓公と車輪を作る老職人の問答。真言の問題、書物から真理は学べない。故に古人の糟粕となる。知っていることと出来るということは違うという話。
 
 第十四天運 音楽の演奏で慴れ→惑い→愚というプロセスを辿っている。これは道の学習のプロセスと同じ。ということは儒教の礼楽のように音楽で道を学ばせようということもやろうと思えば出来たはず。特に道教では。それが出来なかったのはやはり音律に則らない達した音曲を恒常的に演奏して伝える・流布することが不可能だったからか。
 老子孔子道家の作為というが、むしろ孔子リスペクトで老子の弟子に位置づけることで儒教の権威を丸々呑み込んで利用しようとしているように見える。仁義は先王の仮の宿、逍遥の遊などを見ると曹魏時代の思想・宗教はかなり莊子の影響を受けている筈。
 この篇に限ったことではないが、つながりがよくわからない。六極五常という天のルールを説き、莊子が仁・考以上のもの、「至上の仁」を虎狼の例えで説き*10黄帝の音楽の話。衛の太師金の孔子批判と三皇五帝と周制批判。時節に応じただけ。今の時代の変化に順応せよ。いたずらに古を賛美するなという儒家思想批判(儒家の古代讃美否定と道家思想に現代を肯定するものと享楽性があるという指摘があるが、逍遥の精神には遊び楽しむというものがあるのは言うまでもない)。*11で、ラストに孔子が南の沛に老子に会いに行って、老子孔子へ教え諭すという話*12―となっているが、4つの話のバランスが悪い。整合性がよくわからない、編集が悪いように思える。未完成?それらしい部分・該当するものを詰め込んだのか?
 長いので分割。続きはこちらです―と言ってもここから後半読むような人いないだろうけど(^ ^;)→『莊子 外篇・雑篇』 読んでの気づきとか考察メモ <後>

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*2:忘れていましたが、この『莊子』は郭象注によるもの、他にも色んな編者による『莊子』がいくつも伝わっていた。現存するのがこれだけなわけで、厳密に言うともっと先行文献としての『莊子』はあった。さらに『莊子』以前に現存していない道家の書、『莊子』のような書・文献も存在していたでしょうね。
 どうでもいいっちゃいいですが、この郭象は司馬晋の外戚の郭氏だったっけか?郭象注は清談・竹林の七賢の向秀の『莊子』のパクリ説があって、竹林の七賢とか清談の話をちょっと。この頃の道家というより「老荘思想」家の人間は、嵆康と呂安の処刑を見てもわかるように、政治から遠ざかる立場を取るわけには行かなくなった。のほほんと好き放題に詩歌や文学に従事しているわけには行かなくなった。清談している場合じゃなくなったわけですね。「無用の用」が通じなくなったので、仕官をする。現実社会への関与・参政方向に舵を切る。既存政治にある程度迎合しようとするわけですね。無用と用の中間こそが正解という話がありましたが、まさにそういうスタンスが流行るわけです、ココらへんの政治背景が『莊子』注釈・解釈に影響を与えたという可能性はないのかしら?
 更に本筋と関係のないどうでもいいメモになるのですが、こういった礼・形式主義と形式・前例踏襲主義で実用軽視こそが漢末の混乱を招いた。もしくは実際の混乱収拾に役に立たない人間が上にいて、さらなる混乱・停滞を招いたと考えた潮流があった。外面規範・はんこ&文書主義的な行政が招いたリスクについて強烈な反発があったことは想像するに難くないわけで、それゆえに形式や礼にとらわれない本質・実力を重んじる思想、より哲学を深める「老荘思想」が生まれていったという流れがあるわけですね。既存学問の無意味さ・有効性の乏しさという反省から新しい学問の探究が始まり、玄学が始まったわけで。まあそれでも結局、司馬氏の台頭という現実に直面して、「老荘思想」は政治性の乏しい思想・哲学主体の方向へ舵を切るわけですが。晋に至って、既存の礼教秩序に立ち戻る時、やはり実力・政治能力、現実政治への有効性・有益性の問題が出てくる。それについてどう対処しようとしたのか気になる所。同じ七賢の王戎が吝嗇・金儲けに走ったように保身のための金銭・贅沢というのは当然の流れの一つとして、本当にそれだけなのかな?他にも司馬氏政治に対する対処というか抵抗のあり方や、生き抜くための対策みたいなものがあったんじゃないかなと疑問に思う今日此の頃。
 玄学が始まって、『老子』・『莊子』・『易(周易)』が重視されるようになった。とはいうものの、莊子の思想ですよね。この時代の処世術を見ても強い影響を与えているのは。老荘思想というより、莊子の思想。ぶっちゃけ莊莊思想ですね。淮南子老荘思想とはもうかなり異なっているはず。そこで問題になってくるのは周易の存在。易がどういう風に捉えられていて、どういうふうな影響を与えていたのか。まあ、いつか老荘思想から道教へ、魏末から晋の思想云々で書く時のためのメモ。

*3:確か、孟子も莊子について言及していなかったんじゃないかな?どうだったか?どちらも己が思想こそ絶対!で、他者の思想にかまけるタイプではなかったのかな。ーとか、そんなことを思っていたら、竹内義雄氏が莊子=楊子、同一人物説を唱えているとか。参照ー老荘清談。楊子とは。面白そうな話ですね。そう考えてみると、莊子が出てこないことや楊子のテキストが乏しいことなどの説明が確かにつくと。実際の所どうなのか検証しなきゃ。
 楊子と言えば、当時の中国の興国期における経済成長を背景に今の世の中の変化を受け入れて、人生を謳歌しなさい的な主義主張の世相を反映した取り立てて触れることもない。まあよくあるバブル思想・人間かと思っていましたが、違うみたいですね。そういう説をなんか本で読んでまあそういう人間・主張もこの時代なら当然出てきておかしくないなと思いこんでいましたが、エピクロスの快楽主義的な誤解がなされていたということか。

*4:追記、そんなことを思いついて、ワイ流石やな!良いところに気がついた!と思っていたら普通にこの『莊子』の前書きで説明として書かれていましたね(笑)。同時代の思想家なのにまるで交わらなかったって。活動範囲が違ったことは当然として、騒がず・語らずの莊子はそもそも目立った活動をしてなかった。例によって当然のごとく、市において大々的な言論活動をするタイプであるはずもなく、名声もさほど高くなかったと考えられるわけですね。しかしそうするとおかしなことに、故郷の宋でも太宰と会談し、魏(梁)に移ってもそこで王との答弁。そして楚でまた王から招聘されたことを見てわかるように、一定の名声を備えていたはず。少なくとも知る人ぞ知る世に埋もれた逸材くらいの知名度があったことがわかる。宋でも車を手に入れた弁者が自慢に来るくらいで付き合いがあったor名が知られていたことがわかる。知るものは言わずの莊子がなぜ、知られていたのか?アイコンタクトやテレパシーでも持っていたのならばともかく。当然そんなことあるはずもなく、考えられることは一つ。この時代にはもう名声を上げる手段が変わっていたということ。言うまでもなく、呉起曾子の門で学んでいたように「学校」がある。特定の知識人の門下で優秀な成績・弁説を残すことで名を挙げること。また、戦国四君のような食客としてそこでの実力者に認めてもらう。恵施のような宰相クラスとのコネを作って認めてもらうことでもいい。要するに著名人との対面・対談によるコネ、評価を得て箔付けされること。すでに名声を得ている人からの評価・保証・追認などが主体となっていたでしょうね。市において名を挙げる・郷里での評価を背景にという叩き上げのようなルート・人物は、それこそ弁論術や儒家などの増え続けるテキストを考えるともう相当厳しくなっていたんでしょう。まあ、その要素がゼロということではなく、そこからスタートしてもその次のステップとしてそういうルートに乗っかるというのが基本になったはずですし。そういった叩き上げキャリアというのがあるとすると、軍人・用兵術くらいじゃないかな?

*5:↓で孟子の活動範囲への疑問。なぜ秦や楚に行かなかったのだろうと書いたように、ではどうして莊子は魏や楚だったのかという話になる。楚に「淮南子」のような風土があることを考えると、そういう思想性が合いやすいことがあると思うのだが、では何故魏(梁)なのか?それを考えてみると、魏が衰退して呑み込まれる・滅びる寸前の傾国の旧大国であることが考えられる。勿論、この苦難を乗り越える策を欲していただろうが、そんなことより滅び・変化を受け入れよという思想に対する需要もまたあったのではなかろうか?梁という土地柄に、この莊子のような「滅びの文化」というのもなんだが、そういう思想がいち早く花開いた可能性がある気がする。かつての殷の衰退・亡国の思想が、受け入れられ継承された。だからこそ莊子も活動拠点として選んだのではないだろうか?第二次世界大戦での日本の敗戦と思想の変化みたいなものがあったように思える。
 また、梁=魏というところに莊子の思想があるのならば、曹操が「魏」という国号を選んだ理由の一つとして、この思想に根拠がある可能性があるのではなかろうか?脱現世思想、宗教教団の育成をすることで仏教における「出家」制度を整えようとした。言うまでもなく「出家」が社会に根づいて制度として確立されれば、ポスト競争が和らげられる。漢末における激しい猟官闘争が、混乱を招いた要素は間違いなくあるわけで、少ないポストを争うが故の政争は今後も間違いなく発生する。それを防ぐための宗教的権威の確立、「出家」制度の導入のための道教教団整備があったように思える。張魯一族が鄴において重用されたのも黄巾対策だけではなく、真っ先に不満噴出しそうな地。ポストを寄越せ!と騒ぎ建てそうな所だという背景があるのではなかろうか?

*6:どうでもいいことかもしれないが、老子の別号を廣成子と言うとのこと。

*7:楚に行って晋に戻る途中の漢陰、漢水の南?アバウトすぎないか?

*8:※余計な話だが、良いことであろうが悪いことであろうが身を滅ぼすようなことをするなという意味では超個人主義とも言える。身体・生命・財産、幸福追求権の保証が民主主義にとって必要不可欠な観念だが最初のワンステップをクリアしているとも言える。道教に至ってより現世利益を求める性質が加われば尚更。

*9:※先述に引き続いて、個人主義思想故に民主主義的な思想の萌芽になりそうなものなのだが、ならない・なりえない理由はここにある。先天性の絶対視故に身分制に対する疑問というものがない。先天秩序の絶対視、これも儒教と真逆の発想。儒教は思想変遷とか学派によって云々あれど、基本的に良い政治、善政のためであるならば変化を許容をする。言うまでもなく、古代・中世とは伝統主義であるがゆえに保守的で変化を好まないが、現実の良い政治・「良政」のためにという発想がある。道家思想には変革や改革というものがない。個人の自由はあっても平等がない故に大衆の支持は得られない。仏教にはブッダを始め、様々な大衆を救おうとする仏がいる。ブッダは悟りを開いた後、衆生を救うために救済の旅にでたが、そのような布教や万民を救おうとする救済思想がない。もっとハッキリ言ってしまうと思想・宗教・哲学的にインドや西アジアに思いっきり遅れている、その程度の段階。
 道家思想というのは、基本的に道を理解できる限られた天才を対象としているために、対象が狭い。孔子も万民を救おうというようなものはなかった。万民の救済というものはなかったが、士大夫層・かなり身分が低いところまで対象にはしていた。基本は官吏・政治家と官僚予備軍、仕官する候補生への教育。んで、官僚や政治家を送り込んで「善政」を実現して、良い世の中を作って結果的に万民が救われるという構造・ロジック。民衆は供え物というかそれくらいの感覚で、思想対象としての領域が小さい。それでも道家より思想ターゲットが広いのは言うまでもない。道教となって限られた天才から、一挙に対象が広がるわけだが、やはり仏教の救済ロジックに及ぶものを構築できなかったというのが道教の実状ではなかろうか。宗教上、教義ではなかなか勝てないから政治力で勝とうとしたとか予想できるが、まあそれはおいおい検証していこう。道家思想から道教へという展開で、黄巾・太平道から曹魏北魏という段階で教義が固まっていくはずなので、そこら辺をどう理解・整理するかが、時代・歴史を理解するポイント。これも昔から考えていてココらへん早く調べたいのだが、一体いつになったらやれるのだろうか…

*10:商=宋の太宰蕩に莊子が話している。これで莊子が宋でも活動していたということがわかる

*11:虎狼が仁とあるように、莊子の論法として、まず相手が驚くように奇をてらった話からはいるとあるがそのとおりだろう。まず、相手が驚く=食いつく逆説的な話をして、そこから自説を語るというのが莊子のやり方ですね。まあ、奇をてらう逆説的な主張を掴みにして、中身がすっからかん。とりあえず逆張りしておけばいいとばかりに逆張りの主張をするだけの痛い人も昨今はいるようですが(笑)

*12:沛に老子に会いに行くというのが?なところ。老子は最初この辺りにいてその後周の地に行ったという説もあるようだが、むしろ老莱子のように老子は二人いたというか、老子と似たような主張をする人間がこの辺りにもうひとりいたとみなすほうが自然に思える。というか老子の主張は別に老子の専売特許ではないから各地に似たような思想家・隠士はいただろうし。

自作PC奮闘記、伍 組み立て編&掃除編

 一年越しの書いていなかった自作PCの話(過去記事はこちら*1 )。一応完結させときたいと思います。需要はないけど気にしない。購入作成から一年経って、部品の掃除もしたし丁度いいタイミングになりましたので書きたくなりました。以下、単なる素人がなんとかしようと頑張った記録・個人的な感想なので自作PCの組み立て目的でご覧になる方は過度な期待をなさらぬように。組み立てた過程を記してありますが、あくまで組み立てた感想なので、自分で組み立てようとなさる方は、まかり間違ってもこれを読んで組み立てようとしないでください。まあ、他にいくらでも細かい手順を画像入りで丁寧に解説しているページがあるので、これ読んで作ろうと思う人などいないでしょうが(^ ^;)。

 

目次

 

組み立てに使用したパーツ一覧

 一応、実際に組み立てたパーツがこちらです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今見ると普通に値段が下がっていると思っていたら何故か値段が上がっているものがちらほら…。何故なんでしょうか?マイニングのためにグラフィックボードが値崩れするどころか上がっているという話を聞いたことがありますが…。GF-GT730-LE1GHD/D5を購入したんですが、もう売り切れていて検索かけていもページがでてこないですね。なのでグラボは貼っていません。
 一年経過したがゆえに最早パーツ一覧も何の意味もない情報ですかね。せっかくなんで今自作PCを組みたいな~と考えている人のために、もし組むとしたらこのパーツを購入したほうがいいよ!というリンクを再度貼っておきたいと思います。
 
 右上の最新組み合わせのところを参考になさるとよろしいかと。んで過去に書いたように自作PC2018虎の巻的な本などを読んで、色々考えて適当な店舗で相談してみるのがいいかと。

PCを組み立てた感想①ケース・箱がたくさん出て邪魔

 PCを実際に組み立ててみた感想です。まずその前の段階の話になりますが、当然のことですが自作PCはパーツごとに購入するために、既成品のPCが一体どかんと運ばれてくるわけではないため、アホみたいにパーツの箱・ダンボール・緩衝材が出ます(まあ、実際一台PC買っても色々なパーツごとの説明書とか保証書とか色々出てくるんでしょうけど)。
 実際に部屋でそれぞれ箱を開けて組み立てようとすると、足の置き場もないくらいに色々散らかりますね。しっちゃかめっちゃかです。ダンボールとか宅配便の箱なんてすぐに捨てればいいじゃないと思うかもしれませんが、初期不良の可能性があるため≒送り返す万一の場合を考えると即ポイはできません。なので、一週間くらいは確保しておかなくてはならなくなります。そのため、大量のダンボールなどを置いとくスペースに苦しむということを覚悟しておかなくてはなりません。
 一週間としましたが、初期不良期間が一ヶ月のものなんかはまあ一ヶ月とっておく必要があるでしょうね。発送に慣れてる人なら、ダンボールなんかそこらのスーパーのものでいくらでも応用が効くぜ!とばかりに、即捨てもできるのでしょうけど、万一のためにいちいちスーパー行って適切な大きさのダンボールを探したりするのがめんどくさいのでなかなか捨てきれませんでした。
 

パーツの箱・ケースが保証書になってるので捨てられない

 ダンボールとか捨てられるのはまだいいですが、自作PCパーツは保証書というものがなく、箱・ケースそれ自体が保証書を兼ねていることが殆どです。小さければいいのですが、これがまた結構デカイ。ぺちゃんこにしてとっといても、結構邪魔っちゃ邪魔です。せめて書類くらいのサイズになればいいんですけどね。
 

組み立て前の準備、組み立てる前には十分なスペース確保を

 梱包されたブツをオープンざセサミして、これをそこにおいといて、今度はこれをあちらに~とやる作業は中々のスペースを必要とするのでお覚悟をする必要があります。当たり前の話ですが、組み立てる前には掃除とスペースの確保をちゃんとしておくことですね。昔の人が、テレビや冷蔵庫が届く日には、部屋中掃除してお出迎えした。外国人助っ人来日のために盛大に歓迎準備をするような感じで、部屋の大掃除をしておきましょう。
 

静電気対策、届いたパーツのチェック

 あと、そんなに神経質になる必要もないと思うのですが、季節によっては静電気に気をつけないといけないとありましたので、作業をするたびにいちいち金属を触っていました。ちょうど時期が静電気全盛期・真っ盛りの旬な時期でしたしね。「組み立ての前に服を全部脱いで、真っ裸になって組み立てろ」というのは流石にネタでしょうが、気になる方は静電気防止手袋のようなものを事前に買っておいたほうがよろしいかと。「昔の部品はちょっとしたことで壊れるから、静電気は本当に自作の大敵だった」なんて話を見かけましたが、今の部品ではそうそう起こらないレアケースかと個人的には思ってます。夏だと、逆に手汗だったり作業中の汗とか気にしておかないといけないでしょうね。まあクソ暑い時期にクーラー無しで組み立てるという人はまずいないでしょうけど。
 そうそう、組み立てる前に、CPUやマザーボードの製品に問題がないかチェックしておく作業も必要ですね。そんなアタリマエのこともあとから気づいて実際はちゃんとやらなかったのですが、これを読んでいる方はしっかりやってください。万一の際、大変ですからね。「そう言われても、見ただけで正常かどうかなんてわからんよ」と言われると思うので、組み立てる前にスマホでパシャリと状態を記録として残しておけばいいかと思います。マザーボードで、これ使いまわしの粗悪品じゃないのか?とヨドバシでトラブったので、そういうときのために事前にちゃんと画像に残しておくことは必須作業かと思います。当たり前のことですが届いたパーツの説明書にある部品一式がちゃんと入ってるかのチェックも忘れずにやりましょう。
 

②CPUをセットする際、バーがなかなか降りない

 まあ、特に必要のない話でしたが、そんな微妙な話も実際に組み立てる前の地味に気をつけるポイント・感想として残しておきます。
 で、次に実際に組み立てた話を。まず、マザーボードにCPUとメモリーカードをセットして実際に動くかどうかテストをしないといけないのですが、その作業をすっ飛ばしてしまったため、かなり時間を無駄にしました(^ ^;)。まあそのテストだけでもいちいちコードを抜き差ししたり、めんどくさい・手間なのでやらなかったんですけど、初心者はやったほうがいいでしょうね。CPU・メモリがちゃんと起動することが確認さえ出来れば、もう殆ど組み立てが終わったようなもの。あとは手順通り所定の位置にセットしたり、コードをつなげて終わるので、問題なくなりますからね。
 テストセットをしっかり組み立てて起動するか試しておくこともポイントですね。解説本だと、マザーボードの箱の上でテストセットを組み立てるとやりやすいよ!みたいなことが書いてあったのですが、マザーボードの上で出来るとは到底思えないので、普通に机の上でやったほうがいいかと思いました。 

 で、そのテストセットというか、マザーボードにCPU・メモリを組み込まなければ始まらないので真っ先にそこから始めるわけですが、個人的にCPUのセットで躓いて、かなり時間を食いました。マザーボードのCPUをソケット(であってるよね?セットする場所の名前)にセットするのですが、バーが固くて全然降りないので、30分位ためらいました(´-ω-`)。
 本当は、CPUのチェックをして、マザーボードのソケットのピンがチャンとなっているかをチェックしないといけないのですが、そういう大事なことも組み立てたあとで気づきました(笑)。バーが降りない場合、CPUの向きが違う場合があるみたいに書かれているので、「あれ、これであってるよね?向きが間違っている??いやあってるよな~。なんで降りないんだろ?」とかなり悩みました。CPUの向きはもちろん、間違えないように一目瞭然で正しい位置がわかるようになっています。うーん、何故バーが降りないんだ…といろいろサイトを回ってこれで本当にあっているか調べて、バーを降ろすもかなり固いのでマザーボードがべキッといったりしないか、かなり恐る恐るやりました。想像以上に、固くて怖かったですね。「怖いな~怖いな~、嫌だな~嫌だな~」になること間違いない硬さでしたね。マザーボードがメキメキいいそうなくらいぐっと力を入れる必要性があります。このセットする際のバーの固さが作っていて印象に残ったポイント①ですね。
 

③メモリがスロットに差さらない

 前回に書いたことの繰り返しですが、メモリがなかなか刺さらない。これがポイントの②ですね。掌底で瓦を割るくらいの感覚で押し込まないといけない。まあ、それはもちろん嘘ですけど、また解説本では指二本でメモリをカチッと言うまで押し込もうね!てへぺろ☆(・ω<)みたいな感じで軽く書かれていますが、そんな簡単には到底入らない硬さです。なんでそんなふうに解説されていたのか?ファミ通の攻略本なのかな?と疑問に感じるくらいの硬さでしたね。とにかく、CPUソケットのバーだったり、メモリだったり、女性だとちょっときついんじゃないかっていうくらい力が必要だと感じました。まあ、繊細にやらないといけない作業で絶対壊せないというプレッシャーが掛かっているので、心理的に力が込められないというフィルターが掛かっているだけかもしれませんが。
 メモリがしっかり刺さっていなかったために起動しなかったのですが、軽くセットした段階から、さらにズブズブって深く刺さっていくようになってます。なので、一度二本指で軽くセットして、そこからしっかりめりこむように、手のひら全体を使って押し込む作業が必要になると思います。ここで引っかかって起動しなかったので、自作PCで気をつけることのポイントの②ですね。メモリのスロットが堅く、なかなか差さらないという話は。まあすでに過去に書いた話ですが、体験記なのでもう一度記しておきました。
 最初の方に書きましたが、CPUをセットする時のバーが硬い&メモリを入れるのに、相当ぐ~っと押し込む必要があるのでマザーボードを箱の上でやるなんてまず無理だと思います(ちなみにサイトを見ながら組み立てたので膝の上に置きながら組み立てました)。
 

④バックパネルの取り付けが分かりづらい&邪魔な「爪」

 次は、マザーボードに備え付けでついてくるカバーパネル(カバーシールド)の話です。I/Oパネルだったり、バックパネルとか呼び名が色々あるようです。パネルじゃなくてシールドだったりプレート呼びもあるようでメーカーによって統一されてない感じでしょうか。I/Oパネルといちいち打つのがめんどくさいので、ここではバックパネルと呼びたいと思います。このバックパネルの取り付け方がわからなかったので、その話を。
 マザーボードを取り付ける前に、このパネルを取り付ける必要性があるのですが、前からはめるのか後からはめるのかよくわからない。カチッとかパチっとハマるように作ってあるわけじゃなく、ケースの中・内側からただ添えるだけ。パネルを取り付けるスペースのところに当てはめるだけで、マザーボードを取り付ける際に無理やり押し込むようにはめ込むことでセッティングする方式だったと、後々組み立てながらわかりました。そういう風にしてセットするものだという説明がされてないので非常に分かりづらくこれでいいのかな?とかなり試行錯誤して時間がかかりましたね。
 後からはめるというふうに書いてあったのですが、全然はまらないじゃないか?前からはめたほうがグラグラするが入るから、こっちなのか?となったり、後から無理やりはめ込むために思いっきりパンチの一つでも加えてカチャッとはめ込むのかな?とあれこれ迷って無駄に時間を食ってしてしまいました。
 バックパネルは添えるだけ、桜木花道のように覚えておくとよろしいでしょう。で、その後でマザーボードを取り付ける際に、バックパネルがあるとマザーボードを取り付けるネジ位置がその分だけズレます。ズレた分押し込んで、隠れたネジ位置をまた見えるようにして、急いでネジで固定します。まあ結局、バックパネルはネジの力で押し込んで固定するわけですね。
 マザーボードは商品によっては、それ専用の取り付ける器具とネジがセットになってついてくるみたいですね。このマザーではそうではなかったので関係ありませんでしたけどね。あとネジを回す際には対角線で止めるのが基本&仮止めして全部ある程度回してから最後に一つ一つ完全にネジる。右側から左側などワンサイドに止めていってしまうと、最後にズレが生じてうまく閉まらなくなるということも起こりうるのでネジ穴の隠れ具合を見ながらマザーとネジ穴の歪みが生じないように計算しながら止める順番を考える必要がありますね。

USBスロットを塞いでしまう謎のでっぱり「爪」がある

 で、バックパネルの取り付けで注意するべき最大のポイントは、「爪」があることですね。「爪」とよんでいいのかどうかわかりませんが、パネルのUSBスロットの一つに「コ」の字型の出っ張った変なのがついているんですね。それを事前に内側に折っておかないといけない。どこかの解説ページでは、「邪魔なら別にペンチで引きちぎって構わない」というのも見かけたのですが、必要性のよくわからないものでもそんなアウトローなことしていいのか自信が持てなかったので、内側に折り込むことにしました。
 最初、この「爪」に気づかずに取り付けたので、USBスロットがこの必要性・用途のわからない謎のでっぱりで塞がれて使えなくなってしまって、もう一度つける羽目に陥りました…。こういう二度手間になりかねないウザったいバックパネルの「爪」が存在するならば、【注意!】みたいな形で特別に書かれていてもおかしくないのですが、何故かあんまりそういう注意ポイントとして書かれているサイトを見かけませんでした。どうしてそういうふうに書かれていないのでしょうかね?よくわかりませんね。ASUSのこの手のマザー、つまりこのタイプのバックパネルがごく一部でしか存在しないものでもないように思えたのですが…。それともこんな簡単なことにつまずくバカ野郎は己だけということなのか?
 まあ、とにかく、この「爪」野郎にひっかかると、下手するとマザーを一度取り付け終わってから、もう一度外して「爪」を折って、またマザーをつけ直すというめんどくさいことになるので個人的に組み立てる際に気をつけたいポイント③ですね。また取り外してつけ直してとやったので、本当心が折れました。

⑤ケースの電源コードをマザーに取り付けるのが大変

 DVDドライブや電源、ハードディスクドライブ(HDD)など、他のパーツで取り付けるのに苦労したということはないですね。配線をすっきりさせる際の裏側に通してうまく蓋を閉じる作業でちょっと時間取られたくらいですね。
 あ、そうだ。配線の中で一つだけ無茶苦茶苦労したのがありました。電源ボタンの配線コードですね。PCケースの電源とマザーを結ぶコード・配線が何故か異常に小さく細々しているんですよね。なんでこのところだけこんなちっちゃい配線なの…?すっごい苦労しました。何のミスもせずに一度の取り付けで全部スムーズに終わったという場合は気にならないのでしょうが、動かなかったために何回も配線を見直して取り外しをしたため、この電源エリアの配線はその度に非常に苦労しました。一つ一つはめられればいいのですが、構造上コードの長さで制限があって8つくらいまとめて一気に差さないといけないんですね。なのに、ひとかたまりにまとめて差そうとしてもすぐツルッとズレて動いてしまって、中々一気にちゃんと所定の場所に差さらないんですよね。これが本当に苦労しました。電源用に一度まとめて差せるモノも売っているようですね。これ知っていれば買いたかったなぁ…。今更詮無きことですが。*2
 

組み立てた後思ったこと、個人的な感想

 組み立てて思ったことは、とにかく疲れたこととケースがデカくて邪魔だなぁということ。実際に組み立てる前に、商品が届いた時点で既に「ワーオなんじゃこりゃ」とPCケースのデカさに驚いていたんですけどね。「ミドル」タワーケースと謳いながら、まったくミドルじゃない件…。気になってググったら「ミドルタワーケースデカすぎ」というものがいくつかありました。高校生や大学生が自分の部屋に置く一人用の小さい冷蔵庫くらいの大きさですからね、これ。
 BTOをチェックしていた時かな?いくつかケースが表示されていた時、その中でミドルタワーは中くらいのサイズに見えたので、まあこんなものかなと思ってこれが一番適切なサイズだと考えたのですが、実際届くとむちゃくちゃデカイですね。家具を買うときのように、実際メジャーでサイズを測って、このサイズだとこれくらいの大きさだということを事前に抑えておかないといけませんでしたね…。家具だったら実際メジャーで測ったでしょうけど、まさかPCでここまでデカイとは想定外でした。
 各パーツを総計しても面積的にどう考えてもこんなサイズのケース必要がないはずなんですが…。とにかく邪魔でしょうがないですね。横幅は仕方ないにしても、縦と高さは半分以下で十分収まると思うんですけどねぇ…。こんなにデカイのならば、スペースを小さくした分冷却性能が落ちてしまうというマイナス点を補うために値段が高くなってもいいから備え付けのリテールクーラーとは別にCPUクーラー買っても良かった。それくらい邪魔ですね。
 冷却性能が高い冷水クーラーなんかありますが、2万くらいするそれを買って、冷却性能問題はクリアして、その分の値段はケースを買わないことで賄う。ケースは手作りしたもので安く済ませたかった。手作りで良かったなぁと、あとから思いました。

自分好みのPCケースが見つからない場合、ケースの自作もありかも

 「自作PCでケース自作」というややこしいネーミングでググると、結構いろんな自作おもしろケースが出てきますね。まあ、そこまでオリジナリティ溢れるものを作ろうとは思いませんが、コンパクトなサイズのスチールものを選んで、ファンを2つ買って前後に取り付けるという作業をいつかやってみたいですね。
 電源が5年位で買い替えが必要になるのかな?わかりませんが、それくらい経って取替の時期が来たらやろうかな~とか考えています。マザーとケースの電源コードの取り付けが大変という話をしましたが、電源スイッチ自体が別に単独で売ってますし、それを単独でサクッと取り付けて手軽に電源入れられるようにもしたいですからね。今のPCはモニターをあっちこっちに動かす都合上、ケーブルを長く使えるように、PCの表と裏を真逆にセッティングしているので、電源入れるのがちょっとめんどくさいんですよね。まあ、PCは電源入れるの一日一回なんですけど、そういう点からも自作ケースで簡単にスイッチを入れられるようなものにしてみたいんですよね。
 また、ケースなんてそもそも必要ない。部屋の高い所の壁にラックを取り付けて、ラックに各パーツを引っ掛けて使っているなんてのも見ました。自作PCで置き場所・スペースの問題で困るという話も結構聞くので、そういうやり方も面白いなぁなんて感じました。マザーのLED装飾を追加して組み込めばオシャレ感あるでしょうしね。まあ、その場合はゲームとかマイニングとか動画・画像編集ソフトとか高処理性能が要求される場合、よっぽどうまく冷却しないとならなくなると思うので、色々大変そうだな~なんてぼくはおもいました(あれ?なにこれ?作文!?)。
 「ケースなんか別にいらない。みかん箱でも動くぞ」何ていう話があって、実際にみかん箱に入れてある画像も見ましたけど、まあ流石にそれは極端な話として、ポッドにいれたり、プレイステーションの中に入れたりするおもしろ画像がたまに出てくるように、本当色々出来ますからね。そういうことに一度はチャレンジしてみたいなと思いました。まあ冷却に自身がないので奇抜なものには手を出さないでしょうけどね。
 自作PCパーツの解説ページは色々あれど、音声ケーブルが必要という当たり前のことを書いてあるページがなかった。まあ、事前にモニターやらケースについていなければケーブルは別で買わないといけないでしょうね。前回書いたように、HDMIケーブル買うつもりだったので別についてなくても良かったですが。それこそDVI端子ケーブルとか付属してても邪魔なだけ。+500円でHDMIケーブルに変えてくれるとか不要ならその分差し引いてくれるとかやってほしいですよね。なんで使わない邪魔なゴミをセットでもらわないといけないのかスッキリしませんね。

腰が痛い

 あとは、組み立てていてなかなかうまく行かなくて、何度も接続をやり直したので疲れました。説明書だったりググって調べたりかなり時間を取られましたし、ダメだったらどうしようというドキドキハラハラ感はかなり精神的に疲れますね。ヨドバシで返品してかなり待たされたというのもあって、イライラしましたし。その分、動いて成功した時の喜びは何倍にも感じますね。動いて疲れて汗かいた時はビールがうまい的な快感がありますね。
 実際組み立てる時間はそんなにかからないはずですが、初心者だったのでかなり時間を要しました。一回やったのでもう次は一時間もあれば、(どんなに多くかかっても2時間以内に)完成すると思います。一度組み立てるとPCについて大抵のことはわかるようになるかと。まあ詳しい領域には足を踏み入れられてませんけどね。馬鹿みたいに何度もやり直したので、PCケースを寝かして立てて動かして&部品を外してくっつけてを何回も繰り返したので腰が痛くなりました。変態三村おじさん(さまぁ~ず)なら、何度もケースを起こしたり寝かしたりして悪戦苦闘して腰が痛くなった姿を見て「さっきから何やってんの?Sexしてんの?」と例のセクハラ発言をされるくらいには腰にキました。部屋にデカイケースが横たわっていて、マザーが起動しないのでそのままケースに蓋をして一晩経過した時は、一体何を煮込んでいるんだろう…。一晩じっくりコトコト煮込んでなにしているんだろう感が凄かったですね。

掃除編

 組み立てて苦労したこと、感想を書いて終わっちゃうところでしたが、掃除したことを書かないと今頃書く意味がない(^ ^;)。掃除をした話をしたいと思います。ケースに付いているファンがウォンウォンフル稼働することが多くなって、フリーソフトで各パーツの温度をチェックしたところ、昔は30℃後半~40℃くらいだったのが。時間が経つと50~60℃位になることも珍しくなくなっていました。ということでググったら掃除してホコリを取り除いたほうがいいということで、掃除をしました。丁度組み立てて一年位経っていたのでそろそろ掃除しようと思っていたのところだったので、タイミング的にも丁度良かったのでね。
 掃除をするといってもケース内に溜まっているホコリを取り除くだけなんですけどね。あとはケースの前面を取り外して水洗いするくらい。ケースのファンのホコリを取り除いて、CPUファン・リテールクーラーのホコリを取り除く。これでウォンウォン唸ってうるさかった現象が収まりました。パーツの温度を再度チェックしたところ見事に昔のように30℃後半~40℃で安定するようになりましたね。
 突発的に思いついて掃除を始めたので、エアダスターがないとダメだという事を忘れていました。近くのホムセンで買いに行くのも面倒なのでとりあえず、口でホコリを吹き飛ばしていました(笑)。想像以上にCPUファンに埃がまとわりついていましたね。こんだけついていればそりゃ性能も落ちるわなという感じでした。
 いったんファンを取り外してホコリを吹き飛ばして、再度取り付けたところファンの取り付け方・対角線に取り付ける&軽く嵌めてから最後に全部を締めるという基本を完全に忘れていて、一箇所だけしっかりハマって取り外せないという馬鹿なことをやってしまいました。
 で、めんどくさいのでファンをそのままにしておいたら、ファンの接続が中途半端だったために、CPUが100℃に上昇するという異常事態が起こって、再度取り付け直すというめんどくさいことになりました。一時、大して負荷がかかることをやらないからクーラーはいらないのかなと思っていましたが、普通に可動させてクーラー無しで100℃いっちゃうくらいですから、CPUクーラー・ファンは絶対必要・必要不可欠なものですね。
 あと、一番恐れていた掃除を終えた際にPCが起動しなくなるという現象も起こりました。掃除の際にCPUだったりどこかに異常をきたすという事態が起こったらどうしようという恐怖が頭の片隅にあったのですが、まんまその現象が起こってヒェッとなりました。メモリあたりゆるんだのかな?と一度外してつけ直したところ、見事に起動してホッとしました。

 まあ、とりあえずこんなところですね。これにて自作PCの話を終えたいと思います。その後Linuxを導入したなどのおまけ話があるので、次回はそんな余計な話をしたいと思います。

*1:

*2:電源コードをまとめる電源コネクタ?それと電源スイッチでワイヤレスのいいなと思った商品があったんですが、今ちょっと検索かけても見つけられませんでした。こんど虎の巻でも読んでPCパーツ一覧から調べてわかったら追記したいと思います