てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

石井仁さんの『曹操』から(四節)

前回の三節はこちら→石井仁さんの『曹操』から(三節) 五節はこちら→石井仁さんの『曹操』から(五節)
 曹操が覇権を確立する一ステップですね。青州兵、兗州牧、徐州侵攻、呂布戦争。そんなところですね。例によって太字拙感想。一ヶ月もあいちゃいましたね。疲れるんですよ。コレ。これでもまだ半分ですからね。つうか、もう殆ど拙感想ですね。引用は殆どないです。石井氏は塢についての論文を発表されましたし、その研究成果からやはり色々、変わったりしたんでしょうか?塢の性格・性質を考えると徐州虐殺なんて簡単には言えないでしょうし。

曹操―魏の武帝/石井 仁


魏の武帝 曹操 (新人物往来社文庫)/石井 仁

 p94、袁紹からの早期離脱。それは、当時の曹操にとって焦眉の課題だった。さらに重要なのは、河南を制圧して覇権争いにくわわるという基本戦略が決定されたこと。
 さて、重要なのが、曹操がいつ、そして何故袁紹から独立を図ったかということ。いつごろから曹操はそういうプランを持っていたのかが非常に重要になってくる。そもそも曹操には袁紹を裏切る意味がない。ただし最強指揮官*1、一将として政治家袁紹の命令を聞けなくなるという要素はある。さて、どの時点で曹操袁紹とは別の天下を目指すことにしたのか。検討すべきだろう
 黒山の首領、于毒・白繞(ハクジョウ)・畦固ら十万を破り、袁紹の推薦で東郡太守。南方司令官ですね。于毒の本拠地―河内郡朝歌県の鹿腸山。でました河内郡。ここはかなりキーになる地だと思いますね。黑山の連中はまあ異民族、もしくは二世とか三世とか、帰化した人間なんでしょうけど、そういえば于禁とか于って珍しい名字だよな、于禁って純粋な漢人ではないかもしれないな。戦後再評価されなかったこととか、そういう視点から考えると筋が通る
董卓が任命した冀州牧壺寿とも、于毒は同盟していますが、この壺寿も聞いたことない姓ですし、異民族っぽいです。
 そのころ青州黄巾は黒山との合体をめざし、冀州勃海郡に侵入する。だが、幽州から南下していた公孫瓚の歩騎二万に捕捉され、あえなく敗北。その残存勢力がこんどは兗州にむかってきたのである。任城相の鄭遂を血祭りにあげた黄巾は、東平国に侵入してくる。迎撃しようという兗州刺史の劉岱の戦死。
 鮑信の諫言で守って戦えといっていたのに、劉岱が戦死したら、ホイホイ自分たちも討って出る。よってこれは劉岱を挑発したのでは?としているが、まぁ、トップは領民を守る義務から討って叩きたいだろうし、部下は安全に守って戦いましょうよというだろう。自分たちが上に立って、そのまま外で叩こうと思ったのは別にそんなに矛盾はしない。ひょっとしたらあまりに強いゆえに、やはり篭城したら被害が大きくなるとめどを立てたのかもしれない。そして自分と曹操が直接指揮出来るのなら、野戦でも十分と自惚れていたといったほうが近いのではなかろうか?ただ、実際は不慮の戦死であるから、彼の実力は未知数だし、なんともいえない。まあ、石井氏も指摘しているように
公孫瓚が出来たことが俺に出来ないわけがない。直属の部下を作って天下に名乗りを上げようという野望があったんでしょうね。劉岱にしろ、劉繇にしろ皇族は地味にやられて死にますね
*2
 p97、戦士三十万、非戦闘員の男女百万を降伏させる。当時は誇張するから十分の一ぐらい。この三万、十万はどれくらいのインパクトをもつのであろうか。公孫瓚と劉焉のケースと比較してどのくらいなんだろう
 兵戸―兵士の戸籍に編入して、家族毎兵役義務を負わせる。そして見逃してはならないところに、国家が妻を世話したということ。当時満足に嫁なんか取れる状況ではなかっただろう。であるから、これは非常に大きいと思う。六朝時代までこの制度が続き、曹操が始めた説が有力とのこと。が、これは前述のとおり、霊帝時代に既に行われていただろうと個人的に思う。ただ、まだまだ本格化・公的な制度化はしていなかった段階ではないかと思う。曹操が本格化したのは間違いない。今のようにただ結婚できる、という意味で捉えてはならない。これは家族を作ることができるということ=良民化であろう。これが持つ意味は限り無く大きいと思われる

*3
 p100、金尚の兗州刺史任命とそれを追っ払う曹操。んで袁術の元に逃げ込む。袁術袁紹陣営の分断化を図るために、朝廷の命という大義名分を立てて兗州侵攻。なんか話がうまく出来すぎている感じがする。むしろ兗州を攻めたがっていた袁術が送り込んでもらって、追い払われたところを来て貰うという筋書きが出来ていたのではないか?南陽という本拠地の放棄も予州の支配者が誰だか良くわからない状況とあわせて、新しい政治を行う上でふさわしくないから寿春に移ったとも見える
 丁度毛玠の天子奉戴と軍糧確保の話が出ているから。董卓死後のレジームを巡って各々、話し合いをしていたはず。李傕らにしても自己の領域に天子がいるのはふさわしくない。操れずにいたので、追い出して好き勝手にやりたかった。というかもう、朝廷を操れる工作が出来なかった。仲介するブレーン・勢力がなかったし、調停する能力などが根本的になかったのだろう。よって勢力で劣る袁術と手を組んで、遷都→袁術が奉戴するレジーム・新王朝で高い地位を得るのが良い。袁術政権で既得権を承認してもらうのが彼にとってベストな選択だっただろう。袁紹曹操派では洛陽で共同管理。しかし曹操がさらってしまう。この曹操袁術戦争は実質献帝を奪い合う戦争であった
 んで勝った曹操がルートを確保し、手に入れると。曹操献帝を戴くのをうまい!ッて見る人が非常に多いけれど、一歩間違えれば四面楚歌で袁紹に潰される。袁紹への明確な反逆なわけだから。その点を考慮に入れていなさすぎだろう。だからこそ、みんな「まさか!」となって、ビックリしたのだから。董卓暗殺くらいのインパクトがあった事件なのは間違いない
 p101、袁術は九江郡寿春県を制圧し、揚・徐二州牧を称す。李傕政権もその支援を期待し、左将軍・陽テキ侯を授ける。
 p102、袁術はその後曹操恐怖症にかかり、曹操が来ると配下を置き去りに逃げ、大敗。袁術曹操に決定的に弱かった理由とは何なのであろうか?ウーン(´-ω-`)
 
 p102、ここから荀彧の話。あえて、改めて区切りましょう。荀彧は「荀氏八竜」と称された。まんま、司馬の八達と同じですね。まず、荀彧は袁紹ではなく同郷の士大夫を保護した韓馥を頼るわけですね。んで、袁紹ダメ論なんですが、これが素直に受け入れられるのが笑っちゃいますね。僕笑っちゃいます、笛吹いちゃいます―ですよ。
 袁紹の将来性がないとか、性格がダメとかいうのは、後付でしょう。全くないとはいいませんが、個人の資質・性格に求めるのは歴史分析で最悪。むしろ歴史の筆法として、成功・失敗の要因を人格に求めることが多いですから、話半分でいいでしょう。そして肝心なことは荀彧の兄荀諶、あるいは辛評・辛毘兄弟、郭図らが既に勤めている。年代の上のものが既にポストを占められて、出世の見込みがないんだから、より高いポストを約束してくれるところに行くに決まっている。どちらが重宝されるか言うまでもない。そしてこのとき曹操袁紹の部下、むしろのびのびやれる辺境で羽を伸ばしてキャリアを積むためと見て間違いない。のち、両者が対立して別に曹操が負けても、袁紹の下で待遇が多少悪くなるにしても一定の地位は与えられる(袁紹曹操の戦後を見ると、そういうマイナスもない可能性は十分ある)。だったら挑戦するに決まっている。あれ、郭図と郭嘉って血縁だっけ?

 そういえば、袁紹に対するマイナスの評って全部監察官の特徴と見てもあながち間違いではないかもしれない。曹操は軍官で厳しい統治でしっかりとした管理が出来る反面、民心は離れやすい。袁紹は寛治で和があり、民心をとどめやすい反面、統率が弱くなる。ま、一長一短ですね。
 荀彧は宦官唐衡の養女を妻にしているから、スタンスが微妙とある。士大夫の風上にもおけない、裏切り行為だと。が、当時は宦官系の妻でも問題にならなかったのでは?唐衡は梁冀打倒を助けた功臣でもあるし。まぁ、間違いなく宦官系という親しみやすさはあったでしょう。理由はいつでも複合的、多様なものですから、一つに限定する必要などどこにもありませんからね。「おお!我が子房!」というのは名言ですね。我が脂肪!余分三兄弟!すいません、言ってみたかっただけです
 p104、そういえば衛茲や鮑信が死んで、参謀が荀彧に変わるというのは、政権基盤が兗州とか、地元を中心としたものから頴川を中心としたモノに変わるわけですね。荀彧なくして曹操の自立・独立、脱ニートはありえなかったでしょう。つまり曹操が明確に天下取りを意識したのはこの時期ですかね。少なくとも荀彧がいなかったら、後の政権基盤はないですからね
 荀攸は機密の保持に細心の注意をはらい、曹操に「奇策十二」を献じている。興味深いですよね。一体彼が何を曹操にアドバイスしたのか。単に戦争上だけのものじゃなく外交とか、間諜とか多岐に渡っていそう
 p107、才能のある物をあげてほしい。汝南・頴川出身者で~という条件に注目したい。やはり明確に汝南・頴川を政権の中心に位置付けるプランを立てたんでしょうね。。戯志才って若死にで影が薄いですよね何したんだろう?郭嘉は、袁紹の謀臣、郭図の一族。あ、やっぱ一族ですね。荀彧・郭嘉それぞれ、一族の格上が政権にいてナンバーワンになれない。だから曹操の下に奔ったというのは共通してますね。
 「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」、赤壁で敗退したときには、「郭奉孝が生きておれば、こんな目にあわずにすんだものを」。曹操のゾッコンぶりは半端ないです。ま、孔子で言えば顔回に死なれたようなものですからね。 (´;ω;`)ウッ…

 郭嘉にせよ、戯志才にせよ、人物に難があった。そして荀彧の宦官とのつながりを考えるとアウトローじゃないですけど、まじめなエリート集団から外れたヤンチャ集団って感じですかね?(`・ω・´) キリッ対( -д-) 、ペッってところでしょうか?
 杜畿も杜預も社氏は反骨の人物で評判が悪いと。なかなか興味深いですね。多分、評判が悪いからこそ、杜預は征呉作戦に参加できたんでしょうね。羊コ見たいに評判がなまじ高いと功績立てられてクーデターされる危険性が出てきますからね。ま、呉を滅ぼしたときには、どや?とどや顔ならぬ、どよ?とどよ顔をしたんでしょう(笑)。杜畿って、孫権討伐のときに嵐にあって死んでるんですね。なるほど親の仇をとるためにこの任にあったのか。死兆星が輝いていたのか…。造艦といい、兵站専門って性格が色濃いですね
。あと、唯材主義の具体例が書かれていますね。
 p111、石井氏の専門である軍師についてかかれます。しかし最近の人間は本を読むというまともなトレーニングを受けていませんから、いきなりこういう話をしてしまうとパニックになると思いますね。コラム的な感じにするとか、別枠に構成した方が良かったんじゃないでしょうか?
 袁紹の軍師が尚書の慮植で、袁術の軍師が太博の馬日テイ(強要され憤死とありますがどうでしょう?)。劉表の軍師が蔡瑁とどこも軍師制度を採用していた。ということはどこの軍隊も表面上の制度はあんまり変わらなさそうですね。石井氏もそう考えられているみたいです。
 p113、袁紹派と袁術派の図式が明確化したこの時期に曹嵩殺害事件が起こります。曹操の責任だ!と曹嵩暗殺の首謀者が陶謙だと断言していることに共通点があります。
 p115、第二の反董卓同盟の話。朱儁が政権から離脱して、関東に董卓討伐をよびかける。政治的センスに欠ける愚挙といわざるをえない。そうだろうか?全く芽がなかったと言えるだろうか
 陶謙は兵三千をおくるとともに、朱儁を車騎将軍におし、第二の反董卓同盟である。初平三年(一九二)六月、李傕らが長安を制圧すると、陶謙朱儁を太師(暗殺された董卓の位)に擁立し、献帝を奉迎しようとする。賛同したのは、前揚州刺史の周乾、琅邪相の陰徳、東海相の劉キ、形城相の汲廉、北海相孔融、沛相の袁忠、泰山太守の応劭、汝南太守の徐キュウ、前九江太守の服虔、および博士の鄭玄ら。ほとんとが学者や文人ばかり。黒幕が陶謙であることは一目瞭然。しかし、朱儁長安朝廷の召還に応じ、太僕に任官してしまう。ちゃっかり出世した朱儁(笑)
 なんか袁紹曹操の行動はそんなに無理がないのに、袁術系、いわゆる袁術と盟を組んだ勢力はドタバタしてますよね。董卓死んでから。自滅していくというか。
 p116、ことに再侵攻の際(曹操の徐州侵攻は二回に渡っています)、「男女数十万人」を殺した「徐州大虐殺」(´-ω-`)ウンナ馬鹿な。数字はともかく残虐行為を働いたことは事実だと。父を殺されたことに対する、過度の報復措置だと。そんなことありえるでしょうか?常識で考えて?人口は力。仮に十分の一の一万人でも無辜の民を虐殺するなんてありえないですよ。
 そういえば、公孫瓚袁紹の非を10ぐらいあげつらったように、曹操の徐州虐殺をあげつらった文章ってあるんでしょうか?で、この「虐殺」で大量の難民が発生し、笮融・諸葛瑾・厳唆も江東に避難。この笮融が略奪をしつくす、イナゴでかなり興味深い人物ですね。当時の道教の状況を知るためになんかないかと高僧伝を手に入れてみました。どうでしょう?まだ読んでないんですけど、かなり仏教と環境は似ているんでヒントでも得られるかもしれません。

 あと青州で巫女を祭っていたオッサンもいましたけど、別にトチ狂ったわけではなく、宗教力=宗教による組織力に頼ったんですね。これもあんまり指摘されていないようで。青州・徐州における宗教結社の存在、この重要性をまず認識しないといけないでしょう。あと済南相での曹操の取締を考えると、この問題の性格はかなりはっきりしてきますね。あ、宗教と徐州についてね。それと士大夫が容易に召集に応じなかったのも考えると一筋縄ではいかないこの地の状況が見えてきます。袁術でさえなかなか人材確保に苦しんだでしょうし、まして陶謙政権に参加しようなんて人は地元以外稀。一言だけ述べておくと、豪族・名士・宗教勢力などなどでこの地の支配力はかなり緩々だった。これでひとまず締めます
 p117、この「徐州大虐殺」についての石井氏の評です。無実の、無抵抗の人民を虐殺した罪は、けっして許されない。のちに孫権の陣営は曹操を「豺虎」と評し、魯粛諸葛亮暴虐な項羽になぞらえた。中原の覇者となりながら、反対派を心服させることができず、三国鼎立をまねいた最大の理由であろう。徐州大虐殺は、曹操の生涯にぬぐいがたい汚点をのこすことになる。のみならず、せっかく足がかりを得た兗州を失いかけようとは、夢にも思わなかったにちがいない。私的な復讐を優先したことで、士大夫の失望を買ったのである。
 中原の覇者に対して、対抗するスローガンは曹操=悪玉論。これは因果関係が逆でしょう。天下統一を出来なかったから、その最大の欠点・理由が必要となった。そのために「徐州大虐殺」を作ったんでしょう
 
 戦争請負人呂布。面白いタイトルですね、
戦争請負人呂布袁術袁紹を渡り歩き、陳留の張邈、ついで河内の張楊袁紹は何故彼を暗殺しようとしたんでしょう?もし呂布暗殺に成功していたら、徐州侵攻はあっさり成功して、曹操公孫瓚袁紹を挟み撃ちにし、天下統一がかなり早まったでしょうね。まあ、献帝奉戴がかえって警戒されてやりにくくなるなど、色々マイナスも考えられるでしょうが。李傕らは呂布に賞金をかけていたと言いますし、李傕との対立を恐れたのでしょうか?袁紹呂布を暗殺→首やる→李傕派の抱きこみなんて考えられますがどうでしょう
 p118、で親友張邈との戦い。権威の確立をあせる曹操は、兗州・予州の士大夫たちと軋礫をおこす。かねてより曹操を目のかたきにしていた沛国相の袁忠、および処士の桓嘩は、曹操兗州牧におさまると、報復をおそれ、会稽、ついで交趾に逃亡する。のちに献帝を奉じ、権力をにぎった曹操は、交趾太守の士燮に命じ、かれらを殺害させたという。また、九江太守の辺譲は、博学・文章をもって知られた英才。官を辞して帰郷したのち、曹操批判をくりかえし、無実の罪で殺された。このような強圧的な姿勢が、徐州での蛮行とあいまって、士大夫たちの反発をまねくことになる。辺譲ってなんかどっかで聞いたことがあるな?何した人だっけ
 まあ兗州派との軋轢ですよね。自分たちの本拠なのに頴川・汝南系がでかいツラしやがって、さらには難民&青州兵の家族が増えて、なんだこれは!って反発が強まって当然でしょう。なんか、張邈は陳宮呂布が動いたことでもう動くしかなくなったって見えますね。張楊の下に居たのが、また張邈のもとに来た。ここら辺がなんかポイントになりそうな気がします。曹操のミスでもありますが、自己の不安定な政権基盤を叩くことでより支配を強化できるので、マイナスとばかりは捉えられないでしょうね。もちろん本人は大変だったでしょうけど
 p119、袁紹は徐州遠征に配下の朱霊をつかわす。キタ━(゚∀゚)━!!ツンデレ武将。中の人はくぎゅうですね(笑)。袁紹の下を離れて曹操に帰順するセリフが、もう絶対あなたの下から離れないんだからねっ!とデレデレっぷり。大好きですツンデレ朱霊
 苦しくなって袁紹の鄴に家族をよこせば、食糧・兵を援助するぞという支援を断る話が出てきますが、程昱らが猛反対してとどまるわけです。これは別に曹操が馬鹿なんではなくて、下の者がなんとかしろ!って騒いだからですね。その反発を押さえ込むために程昱が表に立っただけですね。下に図らなければならない。それぐらい苦しんだってことですね。さらに劉備州牧の誕生で、曹操が徐州を先に攻めるべきではないか、と考えたことは何もおかしくないですね。袁紹劉表の例のように君主・最高指揮官死亡後の軍隊(というか政治組織そのもの)は脆いです。その脆くなった組織をたたかない理由はないですね。だからこそ徐州も危機のためにもっとも頼りになりそうな劉備をトップに立てたのでしょうけどね。だからこそ目先の危機さえ去ってしまえば、あっという間に反劉備運動が起こるわけです。
 というわけで、石井氏の曹操―徐州・兗州をめぐる戦いは、曹操の欠点を浮きぼりにさせている。どちらかといえば、目先のことにとらわれ、大局を見失いがちな性格。あるいは、理性よりも感情の人。悪くいえば、お調子者。だから、少年時代の「軽挑浮薄」という評価は、あんがい、正しい見方なのだろう。ただ、荀或らの諫言を素直にうけいれたように、かれはみずからの短所を自覚しており、よく周囲の意見に耳をかたむけた。
 というのは、必ずしも的を射ている適切なものであるとは己は思いません。そういえば、確か満田氏もこの評を引用して賛同すると言ってましたね

 p121、そういえば呂布の徐州落ちというのは、劉備と合わせて反曹連合と言えますね。だが前述のように目先の危機から去った徐州は様々な勢力が入り乱れて、かなり危険なバランスとなります。軍人だらけですしね。いずれ両者が対立するのも目に見えていますね。もう一つそういえば、張楊がず~っと河内にいて、歴史に残る肩書きは呂布の友達でした(笑)。この河内という一つのキーポイントは、涼・并・異民族などの集団が流れ込む場であり、ここから彼、河内を通じて徐に流れたんではないか?という気がしますね。そうでなくては呂布の強力な騎馬軍団の説明がつきませんからね
 呂布の攻撃をしのいだケン城(読み方わからない)は、黄河沿いの諸県のうち「最も峻固」と称された堅城。のち司馬越が駐屯したときに、城壁が160メートルにわたって崩落する。凄い事件だな、コレ。難攻不落の要塞が崩壊しなかったら、歴史も大きく変わっていた可能性があるだろう。平和になって手入れをサボったということか

*1:相対的に曹操の軍は巨大。袁紹が南下した時に従属したとすると、袁紹勢力の中の異物として際立ってしまう。例えると董卓軍の中の呂布のようなものという意味で

*2:この皇族が役に立たない・もしくは曹操の覇業・政治の邪魔になったという先例が曹魏が皇族の封王をしなかった理由だったりするのかな?もしくは、清河王を担ごうというように、クーデターの根拠を与えてしまうことを実際に見たからとか。そういうことを考えて曹魏の崩壊と司馬晋の封王制と混乱の流れを見ると面白いかもしれません

*3:霊帝の改革姿勢について】
 無意識の内に、霊帝=強力なリーダーシップを振るう皇帝という位置づけになっていたので、霊帝&宦官VS三公(士大夫)という基本構図なんだろうと思っていた。しかし実際は後の西園軍に見られるように宦官にも三公らにも強力な統率力を持つ皇帝を意識していたはずであり、霊帝は宦官勢力にも、三公勢力からも中立的。そもそもその二者で分けられるものではなく、出身地や色んな政策派閥で勢力が分立しているはず。宦官VS士大夫≒濁流VS清流と言うような図式は成立しない。梁冀のケースなどもあって、皇帝がトップダウンで政治を取ろうとすると、その初期においてはどうしても政権運営を宦官中心に行わざるを得なくなる傾向があるんだろう、きっと