南川高志著 新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)
新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)/岩波書店
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ローマ帝国衰亡の理由は多様で一説によると210種類に及んでいるという。ギボンは衰退の理由をゲルマン人とキリスト教に求めた。様々な理由が論じられても古代の終焉と西欧中世の始まりとするのは変わらない。最近では衰亡・滅亡を語るよりも変化や継続に注目するのが主流となっている。
変容を考えるために、2~8世紀を一連として捉える「古代末期」という観念が導入されるようになった。ギリシア・ローマ文明を高く評価するよりも、また政治・軍事よりも宗教生活やその時代を生きた人の心、心性が重視されるようになった。
ポスト植民地主義や多文化主義、EU統合の流れを受けてゲルマン民族の大移動の破壊の性質を低く見積もり、順応に焦点が置かれるようになった。古代世界の他の民族の歴史と文化を理解しようという動きも。まさに歴史理解は時代の産物であり、それがよく現れている。
最近、欧米で「衰亡」を扱った著作が増えた(おそらく米の衰亡と重ねあわせてだろうって思ったら、そういうことがすぐあとで出てきました)。筆者がローマ帝国の本質を考える上で衰亡というテーマを扱う。通説で言われるような「地中海帝国」という理解をしない。アルプス以北のような辺境である地域からアプローチする。辺境からより多くのことが分かる。
コンスタンティヌス大帝から5世紀初頭までを扱う。ほぼ百年で衰亡の大事な性質を語ることが出来ると考える。有名な410年のローマ市劫掠よりもブリテン島の帝国支配からの離脱に帝国衰亡のポイントを見る。現代に連なるテーマの体系的な理解もあり優れたモノの見方、論じ方が出来る人だと言えますね
ローマ帝国の興国期・発展して拡大していく段階で「地中海帝国」という性質でローマ帝国を説明するのは理にかなっていると思うが、地中海交易が帝国を支えるような利をもたらさなくなった衰亡期にはなんと語るべきなのかしら?「欧州大陸帝国」とか「小アジア帝国」とか?どうだろうか?まあ東ローマは間違いなく「黒海帝国」なんだろうけど。
常識的に、ドイツからメソポタミアに至るまで広大な領域を統治するだけの国力、また技術が、当時には築きようがなかったというべきか。東ローマに黒海が不可欠な存在だった所を見ると、ドイツ辺りの欧州内陸部がもっと交通の便が良ければまた違ったのだろうか?
言うまでもなく、軍隊を通してローマは非ローマに属する人々をローマ化していった。領土の拡大と同化政策が一体化していた。軍事=政治は帝国の興国期、拡大できる領土があるうちはそのシステムは機能していたが、拡大できなくなると当然機能不全に陥る。各地で反乱が続発するのもこのためだろう。
p28、トラヤヌス帝が最大版図を達成した後、ハドリアヌス帝が拡張政策を放棄して防衛策を取ったと言われるが、そのようなことを裏付ける史料はない。拡大しようとした形跡はあるし、あえて属州として組み込もうとしなかっただけ。共和制以来「限りない帝国」というのがローマ人の理解・捉え方。
p29、「限りない帝国」は「国境線なき帝国」でもあった。国境線の内と外で文明・野蛮などと隔てられるものではありえない。ホイタッカーはゾーンの概念を以って、ローマとゲルマニアの間にワンクッションを置いた。その間に中間項を設けてローマのフロンティアへの影響力を説明した。
どこでも家柄というのは重要な意味を持つものだが、ローマの場合、重要な事に違いはなかったが、身分の流動性をそれで損なうことはなかった。一世紀後半には帝国統治の中枢に「新しいローマ人」と呼ばれる人々が参入した。五賢帝もネルヴァ以外属州出身だった。実力を何よりも重視するのがローマの秘訣。
ローマの徹底した実力主義というのは本当に強い組織を作る際のお手本のような存在なのだけど、どうしてそこまで徹底できたのだろうか?異なる民族・文化も取り入れよう、学ぼうというのはわかるが社会の上層まで上り詰めることを認めるという寛容性は凄いとしか言えない。
大事なのはローマという存在で、ローマというシステムが機能し続けることだとしても、何らかの部署がセクショナリズムを発揮して組織が腐っていくものなのに、何故それが起こらなかったのか?まあそれの裏返しとして軍隊のクーデターがバカバカ起こるということなんだろうけども。本来世襲によって、実力主義と決別するものなのに、皇帝制導入後も実力主義・競争が維持されるということがローマ史のポイントかな。プラグマティズムってやつですね。血統・宗教より結果が最優先されることがローマのストロングポイント。
軍隊のクーデター、辺境反乱はむしろローマ帝国の健全性の発露と見るべきなのか。東の帝国化や西の貴族化は帝国の変質として語られるけど、最早ローマ本来の実力主義が機能しなくなった故の帰結として捉えるべきかな。実力主義が効果を出さなくては当然システムもそれに応じて変化するしかないしね。
p40、現地の有力者を上手く取り込むことで領域外のローマ化を進めていった。永らくローマ化という言葉で、まるで周辺民族が積極的に甘受していったかのように説明されていたが、実際は上層だけ。一般民は元からの文化のままだったし、時には抵抗を見せながらローマ化している。
p48、ゲルマン人やゲルマン民族などというものは文化的概念であり、実際は異なる集団の集まり。
p52、通説では危機の三世紀、軍人皇帝の乱立を平定したディオクレティアヌスやコンスタンティヌス大帝は帝国を立て直したと見られているが筆者はここを衰退の始まりと見る。
p55、皇帝は元老院、近衛長官(騎士の最高身分)、騎士と段々皇帝になる身分のハードルが下がっていく。そしてとうとう下層の農民から騎士となって皇帝に上り詰めたのがディオクレティアヌス。高祖劉邦を連想させなくもない。
p56、元老院出身の皇帝が元老院身分を使って統治するという旧来の統治方法から、騎士身分、属州出身の皇帝が騎士身分を使って統治するという方法に変わる。専門性、経歴の連続性が騎士身分の方が強かったと。中央の元老院がこれに抗えなかったのは、後漢のそれと違って地方との繋がり=専門性という要素がないからかな、やはり。
p57、ディオクレティアヌスは元老院を骨抜きにして騎士身分重用する方針をとったが、コンスタンティヌス大帝は逆に元老院を強化して騎士身分を骨抜きにする方針をとった。 コンスタンティヌスの父はテトラルキアで副帝になった。もともと下層農民の出で、妻はキリスト教徒だった。
コンスタンティヌス大帝のキリスト教の公認に母の影響もさることながら、下層軍人・農民とその生活を保護するキリスト教という制度の重要性が、彼にキリスト教を公認させたのだろう。
p59、四帝統治とはいっても、実際は東の正帝が皇帝。東>西の序列が確立したと言える。
広大な帝国を一人の皇帝によって統治する事に無理が出た。必ずまた反乱が起こる。それを未然に防止するためのシステムがテトラルキア。元首制=一人のリーダーが前提であるから、さしづめ「四元首制」とでも言うべきか?副帝カエサル→正帝アウグストゥスと昇格するシステム。
事前に反乱を防ぐために有力者をカエサルとして取り込むシステム。婚姻・縁戚関係で皇帝間のコネを強化することで危険性を減らそうとしたのだが、やはりそれでも反乱が消えることはなかった。各地で正帝を自称するものが相次ぎ、コンスタンティヌスがその争いを制する。
p66、ミラノ勅令でキリスト教を公認したが、リキニウスは東の正帝となるとキリスト教迫害へ。東の統治ではキリスト教を公認することが難しい背景があったのだろう。コンスタンティヌスが公認することで、東の正帝かつキリスト教公認という東ローマの下地が整備される。
p70、コンスタンティヌスは元々西に根拠をおいていた。ガリアとの有力者の繋がりがポイント。4世紀には彼ら貴族が帝国の中枢を占めるようになり、彼らを「セナトール貴族」と呼ぶ。東は元老院の影響力排除が成功し、官僚・宦官による独裁体制が整備された。西はこのような貴族達あっての統治だった。
p74、彼の治世で帝国外からの移住がそれ以前より進んだ、促進されたと考えられる。「ローマ軍の蛮族化」と語られることが多いこの時代だが、史料の偏向を差し引くと「ゲルマン人」VS「ローマ人」のような対立がこの時代にあったとは考えにくい。
ディオクレティアヌスは国防のため辺境の軍隊を倍増させる対策を採った。これをコンスタンティヌスは中央軍強化、野戦機動軍創出という方針に切り替えた。辺境に補給を供給する力がないという財政面の問題を指摘する研究もある。この改革で辺境軍は軍縮。代償に歩兵・騎兵指揮権が総司令官に統合された。
ディオクレティアヌスの辺境強化策はローマとそれ以外を隔てる境界が大きくなるということだった。これもコンスタンティヌスの改革によって、再び境界線が曖昧な昔の状態に戻る。これが4世紀末の混乱につながることになる。
p81、アウグストゥス同様、親戚の盾が逆に混乱の要因に繋がっていく。
p86、コンスタンティヌスは死後キリスト教儀式を受けた。キリスト教皇帝とはいえない。生前に子供たち三人を正帝としていたが、軍隊の皇族・有力政治家虐殺により早くも当初の計画が成立しなくなる。コンスタンティウス二世周辺の人物によるものと捉えられ、彼は統治初めから厳しいスタートになった。
p101、虐殺事件に加えコンスタンティノープルの元老院が強化されたことが、皇帝独裁制度を強めていった。元老院は金額ではなく皇帝との恩顧が重要になった。遠征で留守しがちな皇帝に代わり官僚・宦官が政治を動かすようになる。皇帝独裁というよりはその部下の官僚・宦官達、近臣絶対の政治となる。
コンスタンティウス二世はキリスト教以外の異教を排除したが、それが背教者ユリアヌスに繋がるのだろうか?ギリシャ文化の素養があり、西で戦果を上げる。西で戦績を残し還って本国で即位。のちペルシャと戦うというのは最早王道パターンなのか?コンスタンティヌスのキャリアをなぞってるようにみえる
p126、コンスタンティヌスの中央機動軍は死後帝国の分割と同時に解体された。行政ブロックの管を幾つかまとめたより大きな「道」という単位に機動軍が置かれるようになった。
帝国の境界を固定的にすると、外敵に立ち向かえてローマの領土を守ることが出来る。が、内乱には上手く対処しづらい。対照的に、帝国の境界をあやふやにして外敵に上手く対処できずとも、従来のローマ帝国の方針通りにローマ外の民族を取り込むようにすれば、内乱は大きな問題にならない。
丁度そんな構図が描けるのではないか?と仮説を思いついた。ローマという枠組みを重視した結果がコンスタンティヌスの改革かな?
p128、前述「新しいローマ人」という用語を使って説明すると、3世紀のドナウ・バルカンの軍人のローマ化は「第二の新しいローマ人」ということが出来る。また4世紀のコンスタンティヌス大帝やユリアヌスが進めたガリア人の登用・重用は「第三の新しいローマ人」と言うことが出来る。
コンスタンティウスのペルシャ攻めで援軍を送るように要請され、ここで決起して対決へ。コンスタンティウスのガリアへの粛清もあって、ガリアが後押しをした。彼の病死で皇帝に。大帝の非難をし、異教復活を掲げ宗教の寛容を唱えた彼の政策を見るとローマ伝統の回帰、保守反動と言えるだろう。
行動がまんまカエサルですからね。コンス大帝のそれが真っ先に連想されますけど。彼にとってのペルシャ遠征は、カエサルのエジプト遠征と重なっていたんじゃないでしょうか?もし彼が長生きしていたらどうなっていたか考えるifは面白い。まあそれでも、オリエント化する帝国の流れを止められたとは思えないですが。
p146、コンスタンティヌス大帝の娘コンスタンティアを娶ることが政治的意味を持った。血縁が意味を持つようになったところが、ローマの変化を象徴するように思える。アウグストゥスの縁戚・世襲化は一時的なものだったが、ディオクレティアヌス以降もう血の重要性が低下することはなくなったし。
p154、帝国領内への移住や、部族毎に同盟を結んで兵を供出していたのが、ガリアのように有力者が兵士の面倒を見る私的な軍隊が出て来る(ブッケラリィ)。あたかもスッラやマリウスの如しか。総司令官職に第三のローマ人が就く。ローマを支えていたローマ化の要素がどんどん後退していく。
p157、ライン地方のフロンティアから兵士が供給され人手不足となり、そのため地元の有力者が農業などで人出を供給し存在感を増やす。食糧不安で人口が動くと彼らがその流民を吸収して大きくなるという流れ。東は官僚による統制が進んでいたが、西はそうではなかったので対処できなかった。
p164、ゲルマン民族は存在しないし、ドナウ川を渡ったのも多くても数万程。難民に対し、食料を高値で買い取らせようとしたり、騙し討にしようとしたりして対処に失敗し彼らを団結させてしまう。アドリアのプールの戦いとなり、皇帝敗死の大敗北。以後彼らをドナウ以北に押し返せなくなった。
p180、エウトロピウスという宦官が初めて権力を握ったが、総司令官ガイナスと対立して失脚。東の宦官は監察として機能していたのかしら? この頃、宮廷でシュネシオスという人物がゴートを排除してローマ人からなる軍隊を作るべきだという演説を行っている。「ローマ的排他主義」の登場。
p184、このような排他主義を弓削達は「ゲルマンアレルギー」とよんでいる。システムとして彼らを吸収するのではなく、皇帝の恩顧、個人的紐帯で結びついているだけに過ぎなかったのが大きい。西にはその個人的コネすらなかった。故に皇帝が代わったりして、一度不満が噴出するともう止まらない。
p186、「ゲルマン人」のローマ化が進まなかったため、ローマ市内で蛮族の風習を禁止する法令が出されている。もはやローマの国力が衰えて、国力=文化力が成立しなくなった結果だろう。遊牧の生産性は場所によって高いという研究があるが、彼らの生産力と相対的に差が閉じていったのかもしれない。
「戦争には行かない人がやりたがり」の川柳の通り、排他的な主張をローマの上層が唱えながらも、実際の軍事では彼ら異民族に頼らざるをえない。自分達が代わって行うというまっとうな姿勢も示さなかった。 なんか今の政治家が排他的な主張を掲げながら、自分達は実際に血を流さないのとダブりますね…。
p191、「蛮族の大侵入」というゲルマン民族の大移動のイメージはそこまでひどいものではなかったと修正されつつあるが、それでも独西部、蘭・ベルギー・仏北部が大きな被害を受けたのは間違いない。
p194、ローマ市を守るためにブリテン島など辺境の防衛を放棄した。この事が帝国崩壊の象徴。ローマ人という自己認識、ローマという文化、そして実際に支配をする軍隊。その三つの要素が備わってローマ帝国と言えたが、それらすべてが失われたことを以ってローマ帝国の崩壊と筆者は考える。
p204、西では大事な時期に第三のローマ人の政治指導者が消えている。これは排他主義故なのか?
排他主義や不寛容をローマ崩壊の原因とし、ローマはむしろ自壊したのだというオチになっているけど、うーんどうかなぁ?個人的には東の「変容」こそ驚くべき事として、ローマの変態を見るほうが面白いんじゃないかな?と思うのだけど。
なぜ、ローマが実力主義を採用していたかといえば、それが国家全体の富・利益に成ったから。貧乏な自分達を豊かにしてくれるなら、どんな人物・文化であろうと取り入れたのがローマのローマたる所以。ところが帝国が拡大して限界に到達して、気候変動などの諸要因があって、帝国の経営が傾く。拡大政策が維持政策にシフトするわけですよね。
どんどんGDPが下がっていって、外からくる非ローマ人、庇護を求める遊牧民や移民が必要なくなるわけですよね。吸収できたころはそれに将来性がある、さらなる国力増大につながるからどんどん取り入れて拡大していたが、もう邪魔になるわけです。こういう要素が寛容から排除へ動いたのだと考えられますが、その点を考慮にしないと、何故いきなり排他性が強まっていったかが説明つかないと思うんですけどね。
西方は元々世界の辺境、豊かでなくなるスピードが早かった。だからこそ貴族化が進んでいったし、結局ローマの本家本元でありながら経営効率が悪いということで、東を中心とする帝国から見捨てられた・切り離されたわけですよね。こういう形で国家の姿を大きく変換させた例はないですからね。その点をもっと注目して分析すべきだと思うのですけどね。中国なんかみてわかるように、そこまで国益につながるものでもないのに、中原の喪失に南宋は異常にこだわったわけですからね。
東ローマこそローマ帝国を継承した国家、本家ですから。かなり気になる存在なのですが、歴史の主役・西欧と直接関係ないということもあって、あまり研究が熱心ではなく、よくわからないことが多いんですよね。あちらさんではちゃんとした分析があるかもしれませんが、日本語の文献だとよくわからない事が多いです。
名著としてローマ帝国衰亡史があげられることが多いですが、最新の研究でないわけで、いくつか根本的な理解が今では古いわけですよね。古典としての価値は未だにあると思うのですが、そのへんはどうなんでしょうかね?
いつか手を出そうと思って出していなかったけど、どうしようかな?ギボンの方は?