てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

尚書事の話

【三国志】 尚書事について - Togetterまとめ

 尚書事について領・平・録の違いってなんだろな~というのが前から微妙に気になってまして大庭先生の本読んでてなんかの拍子にググってこんなのを見つけてしまいました。ツイッター三国志関係の面白いことをつぶやく偽黒にゃんこ先生の尚書台とか尚書事についての話が面白かったので、それについてちょっとしたことをメモ程度に書きたいと思います。

 言うまでもなく録尚書事というのは大きな権力を持つことを意味します。が、録尚書事だけだと、内朝の壁を超えられない。外朝、三公九卿の公卿会議の意見を内朝に伝えられないと録尚書事であってもその実権を十分に発揮できないわけですね。

 臨朝事に上奏するものは時間的制約などがあって裁下を仰ぐ限界がある。そのために内朝に上奏を可能にする官が重要になる。内官を加官されることだったり、内官が自分の派閥内にいてパイプ・ルート役がいることが重要になる。要するに後漢の政治制度だと、皇帝は都合悪くなればお腹痛いといって内宮に引っ込んでしまえば、重臣といえどもどうすることもできなくなってしまうわけですね。皇帝の一番大きな権限は人事権とか色いろあるでしょうけど、裁下をしない。気に入らない改革・法案を潰せるリジェクトすることができることでしょうか。このような拒否権VETOを持っていることであると考えることも可能ですね。

 図にあるように、皇帝のルート・パイプ以上に皇后が後見して摂政政治をするとさあ大変。後宮になると長秋とか黄門令とか宦官でないとパイプを持てずに上奏することが不可能となりますからね。侍中が宮殿に入るアクセス権を持っていても、侍中の上奏が気に入らなければ後宮行っちゃえばもう彼にもどうすることができなくなっちゃうわけですからその法案成立のハードルが高くなることは言うまでもありませんね。

 そういうことを考えると外戚、嫁のパパは一族・家族ですから皇家の屋敷に自由に入れるということの意味合い、権限の大きさがわかるわけですね。まあ、さすがに後宮内を自由にウロツクんじゃなくて、娘と合う用の専用の部屋で会談するんでしょうけど。

 こういう皇帝家の人間が政治上重要であること、皇帝家で一緒に寝起きする家族(宦官)が時に重要になるというのは、劉備とかが関羽張飛と寝起きを共にした侠者的人間関係に通じるものがありますね。社会階層の上下の差異はあっても、人間関係・人縁・コネが非常に重要になるというのはまあ中国らしいところですね。

 で外戚一人に録尚書事を任せてしまうと権限が大きくなりすぎるので、複数人が録尚書事になって分担するようになる。その中でもパイプを持ってるか持っていないかは非常に重要になるわけですね。持ってなかったら当然持ってる他の録尚書事と意味合いが少し落ちることになりますからね。太傅・録尚書事の袁隗なんかは、一族に宦官がいますので、独自のパイプを持ってるわけですね。太傅が実権のない名誉職と言われることがありますけど、教育係として宮殿に入る事が可能なら、その意味合いは決して軽んずることは出来ないと思いますね(あれ?太子太傅は入れて、太傅だと入れないのか?)。

 で、荀彧が侍中兼尚書令であること。これがポイントなわけですね。尚書令として上奏する文章を侍中だから宮殿まで持っていけると。荀彧が朝政を切り盛りする権限がしっかりあったというわけですね。荀家も荀彧が宦官の娘と結婚して縁戚になってましたけど、侍中というポストを獲得する前から十分そういうコネ作りをやっている意味も十分理解できますね。建安17年に荀彧が自殺して、翌年頃に曹操は娘を後宮に入れていますね。これは荀彧というパイプを失ったが故のパイプ作りという面があるんでしょうかね?まあでも正式に皇后になるのはもっとあとですし、丞相制導入とかで十分だったのかな。まあ多分尚書令も侍中も誰か部下を就けて抑えていたんだろうけど。荀彧の後任は誰だったんだろ?

 ―ということを一応自分の言葉でまとめてみました。まあ偽黒さんがつぶやいていることと殆ど変わらないパクリみたいになってますが(^ ^;)。で疑問点なんですけど、劉備が独自の上奏ルートを持っていたというバックドアルートの話なんですけども、そもそも上奏ルートというものを潰せるものなのでしょうかね?王粲とか張紘とか派遣されてきた人間を、敵方の人間だからと排除したりしないですし、漢朝制度内の公的な権力者として把握しておく、繋ぎ止めておくことはなんとなく当時の常識というか基本前提だった気がするんですけどね。曹操と対決する勢力が朝敵認定されること、違法・不法勢力として正式に認定される事例もないですしね。

 例えば董卓が反旗を翻した袁紹と対決した時も、袁紹董卓を討つ!と挙兵したからこそであって、受動的な形っぽいんですよね。つまり朝廷としては大将軍VS車騎将軍とか、州牧クラスの官職にある場合、我関せずというかどっちつかずの対処をするのが基本。反乱が起こる、御史・将軍を派遣するということは想定をしていても、こういう国家がバラバラに成って諸勢力が乱立するとなると前例がないので対処しようにも、さあ困ったとなって機能不全に陥ると言ってもいいですが。制御できない漢中の張魯に中郎将とか官職与えて制度内に組み込もうとしたように極力形式を保つことが朝廷の前提だった気がするんですよね。

 曹操孫呉が戦ったり、講和したりで、その都度「朝敵だ!」「やっぱ忠臣!」とかやるのも整合性が取りづらいですからね。ですから敵対勢力だとしても、上奏を許してやるもんか!と遮断しようとしていたということは考えづらいんじゃないでしょうかね?劉備に独自のパイプがあったとは思いますけど。周辺の民族に~~王とか~~将軍とか認定する感覚と同じだった気がしますけどね。朝敵として正式に定まるのは死んだ時、身柄を確保されて印綬とか取り上げてもう絶対逆らえない状態になった時なんじゃないでしょうか?

 まあ、そんな話を書いてみました。しかし偽黒さんの鋭い指摘のあとに、拙クソコメが入ってるとか内容なさすぎて死にたくなりますね(´-ω-`)。

 省尚書事とかも関連してやっぱり考えるべきなのかしら?とかも思いますね。渡辺さんの『後漢政治制度の研究』に触れられているので読まなくちゃな~とも思っていますが(梁冀も語られていますしね)、この後公開予定の大庭先生の本読んで鎌田先生とかそっちから先に読むべきかなやっぱ、と思ってるので手を出すのはいつになることやら。

 で、大庭先生の本読んでて思ったんですが、兼官なんですよね、これ。領とか平とか録というのは。兼官を意味するわけで、領というのは霍光の始まりを見てもわかるように、非常事態故の緊急措置ですよね。そういう意味合いが領尚書事にある。平や録のように検閲や却下みたいな話ではなく、責任者としての意味合いが大きいと思うんですよね。非常事態の責任者が霍光で、非常事態だから尚書から上奏する内容は霍光の意向を受けなさいという意味合い。それとこの時代は中書もあってその二つを一つにまとめておかないといけないという要素もまた大きかったでしょうね。

 霍光の軍府が後に解体されていくことからもわかるように、非常事態が収束すれば無くなる。この時点、領尚書事は常置の官ではなかったと想うのですね。なにより領~というのは将軍に使われる言葉だと思うので、将軍職に伴う発想、兼官がこの「領」にあるんじゃないかな?ということを思いついたので、メモとして一応書いておこうかなと思いました。「平」は?知らんな(^ ^;)。わからないんですけど、「録」になるともう正式な制度として位置づけられているという気がしますね。内朝と外朝を当然とするようになって、誰もそこに違和感を挟まなくなったというか。

 まあ後漢書の注に君主が死んだ時に代役務める家宰みたいなもんだよなんて書いてあるように、また太傅が録尚書事になったり、外戚がなることからしてそういう一家の論理の延長なんですかね、基本的には。皇帝の裁断が重要なこの時代において、皇帝の崩御という事態になって政治が一定期間ストップしてしまうのは非常にまずい。万一の時の皇帝代理みたいな機能はどうするんだろ?外戚が担うに決まってるじゃんでかたづけていたのかな?とか思っていましたが、録尚書事はその制度化だったんでしょうね。

 ①皇帝②外戚③皇后④皇太子…とかどういうランク付けで不慮の事態の際に責任者が移っていくのかな?とか考えましたが、①の最高責任者皇帝が病で急死とかになれば、まず外戚で、外戚がいないことも時代によって当然ありえますから、そういう時は時の重臣に任せるのが自然の流れ。まあそういう意味合いが録尚書事にはあったんじゃないでしょうかね。危機管理兼文書行政の最高責任者指定という意味合いですね。そういうことを考えると「領」の時は軍人、最高指揮官の霍光に任されていたのが、「録」では外戚・軍人以外の太傅や他の重臣にも任される事になったわけで政治制度の発達といえるんでしょうかね。

 王莽以後、外戚ではなく太傅に録尚書事を任せる。外戚に任せることはしない。末期になって梁冀に任せる、録尚書事に参加させるということはつまりそれくらい危機だという意識があった。有事に備えるぞ!という意識があったと思いますねぇ。