てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

【コードギアス解説・考察】 「集合無意識」と「仮面」<ペルソナ>の話

コードギアス COLLECTION コードギアス反逆のルルーシュ R2 DVD-BOX
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 エヴァンゲリオンと並んでDVDが70~80万枚売れたとか、アニメ史に残る名作コードギアスの話。エヴァンゲリオンは別に面白くなかったので映画も見ませんでしたが、コードギアスは本当見ていて、面白かった*1。作りがべらぼうにうまかった。創作、ストーリーモノに重要な要素である「引き」、それが毎回魅力があって視聴者をくぎ付けにした。次どうなるの!?と視聴者を惹きつけ、世界観に引きずり込むやり方、ああ~なるほど次回はこういう所で視聴者を引っ張り込むのか~という展開・ポイントが毎度毎度あって、作った人・コンセプト考えた人は本当に上手いなぁと感心したモノでした。そんなコードギアスの話を一つ。  
 ※追記、今見たらあんまよく説明できていない感が強いので、ちょっと読んで難しい・わかりにくいと思った方は、サッと飛ばして【「仮面」・ペルソナという位格】辺りから読んだ方が理解できるかもしれません。ん~あんま説明上手くないなぁ…。出来事、用語を一つ一つ拾って解説する物ではない、自分の気になったことから抱いた感想ですね。まあ人来てないから別に自己満足語りでも問題ないか。

目次

 

 前回【自殺論とアノミー】 人類が直面する諸問題はすべてアノミーである!を再掲したのは、突発的じゃなく、これに関係するから、再掲しました。デュルケムが説いた集合意識の話と関係するので、これ書く前にもう一回あげておくとちょうど話が繋がると思ったのでね。

【近代以前に「個人」は存在しない】

 人・個人に意識があるのが当たり前、そしてその諸個人が集まって集団・社会として合意を形成して、ルールを決めて国や共同体を動かしていく。社会契約論に近い発想ではありますが、まあ近代人はどうしてもこういうルート・手順を考えてしまう。しかし実際の社会はそうではなかった。古代・中世の人間は、というよりそもそも人間には個人・自我というものがなかった。
 なかったというと語弊があって言い過ぎの感がありますが、個人という単位・観念は殆ど重要視されるものではなかったんですね。そういえば仏教の発生、悟りのところで主な勧誘対象が王侯貴族たちであったのも、そういう高い階層の人たちは暇な時間がある。まさに有閑階級ですね、そういう人たちは個人という概念が発達しやすい、自意識が強くなりやすいという要素が関係していますね。明日のためのおまんまで目いっぱいの人達は、どうしてもそういうことよりいかに明日を生き抜くかという生活の問題がまず真っ先に来ますからね。むろん、仏教はそういった人たちも社会運動に巻き込んだんですけども。
 近代的な個人と、それ以前の個人とはやはりまたかなり性質を大きく異にします。端的な特徴を言えば、近代的な個人はそれ以前と違って、あらゆる人間が個人という自意識に強く目覚めたということでしょう。階級の上の人間でも個人としてのそれより、所属する集団・帰属先があっての自分という意識が強く(~~家の誰々、もしくは~~候の誰々と言った帰属先・所属先を強く伴った個人という形で)、近代化以前まではやはり個人という自意識は確立されていなかったと言っていいでしょう。より正確に言えば近代的な個人とそれ以前の個人は全く性質が異なるということですね。
 なぜ近代化が個人を生むか?近代化とは分業であり、専門化。専門的な作業に従事することで個人の責任が明確化される。これまでは家族だったり、小規模な共同体が社会の最小単位、生産・生活の単位であったのに(農業なり商業も集団で従事する者でした、職人も突出した個人の存在あれど、一人で作業をするよりも集団で作業に従事するのが普通ですからね)、これにより個人が社会の最小単位になりました。
 個人が社会の最小単位・主体になることで資本主義・民主主義というものが生まれてくる。個人というものにふさわしい社会制度が資本主義であり、民主主義であるわけですね。個人の能力を市場で最大限発揮して富を生むのが資本主義ですし、またその個人の権利を確保する、主体として国を動かすのが民主主義ですから。近代化が生み出す近代法と資本主義・民主主義が同義と言われるゆえんですね。この三つはそれぞれ相互連関して発展しあってきたものですから。
 個人同士が取引・契約をするのが近代であり、それ以前の社会は集団との契約になります。帰属先・所属先の集団を飛び越えて個人が独立して行動する・契約して結びついて新しい共同体を作るなどということはあり得ないわけです(あるとすれば集団同士の合意で新集団を形成するということですね)。それ以前の社会・時代の人間は自己の所属する集団の意志の下で動く。その共同体を守らなくては自分は生きていけないのだから当たり前ですね。*2

【近代以前は個人の意識ではなく、集団の意識、集合意識で動いていた】

 デュルケムいわく、これを集合意識といいます。人間に自我=意識があるように、社会・集団・組織、人が集まって生まれるそれにも意識というものがありうるのだといいました。歴史的に見ても集合意識こそが先にあって、個人というものは後からついてくるものですから。時代的に考えても個人がのほほんとして生きていけるわけなく、社会・所属先の共同体が安定して初めて個人が暮らしていけるのですから当然でしょう。
 ですから歴史を研究する上で、研究対象の集合意識を研究すればその特質が良くわかる。神話・法などはまさしく集合意識の反映ですから、その社会組織、システムが何を重視していたのか?そこに価値観が裏付けられているわけですね(ですから法社会学や宗教社会学というものがあるわけですね)。当該社会の集合意識を反映するのが、彼らが祀る神であって、何よりも尊いものです。ですから古代の集合意識上、一番重大な犯罪は神への冒涜になるわけです。集合意識を揺るがすような行為は、社会全体を崩壊に導きますから、絶対に許されない重罪になるわけですね。

【集合無意識】

 ここらへん面白い話ですが、詳しくはデュルケムの著作(社会分業論(上) 社会分業論(下) (講談社学術文庫) )をどうぞ。で、本題なんですが、フロイト精神分析学などが登場して、人間の潜在意識・無意識といった領域を解き明かす学問が発達してきました。そしてユングはコンプレックス(詳しくはありませんが、日常よく論じられる劣的コンプレックスのみをさすものではありません)などの研究の結果、集合無意識(集合的無意識ユング的にはこちらの方がより正確でしょうかね?)という観念を提唱しました。人間に無意識があるなら、集団にだって、集合意識にだって無意識がありうるのではないか?そう考えてもらうとわかりやすいですね。言うまでもなく、ユングの論じた集合的無意識は集合意識の概念の延長発展として、集合無意識というアイディアに辿り着いたのではなく、個人的無意識の概念の延長発展から生み出されたものですが。*3
 民族・人種・年齢・性別そういった境界を飛び越えて人類に共通するものがある。近代化以後、個人という単位が中心となったとはいえ誰もが何らかの組織や社会に所属し、それらの集合意識下にある。その無意識版が存在するのだ。しかもその当該社会の意識されていない無意識という意味ではなく、あらゆるものが共通しているものから派生しているのだと。人間は生まれながら集合無意識というもので繋がっていると。
 集合無意識について深い理解があるわけでもないので間違っているかもしれませんが、天才なんかはその素晴らしい偉業は集合無意識にアクセスできてインスピレーションを得ることができたからと言う説を見たことがありますね。あるいは天才だからこそ集合無意識が求めるものを掴めた考えるべきか。個人的には集合意識と集合無意識にはもうワンクッションくらい中間段階があるような気がしますが。
 集合無意識下でつながっている。だから人間の存在、魂・心といった存在は集合無意識からの派生物。集合無意識から人は生まれ、死んでまた集合無意識に帰っていく。そんな感じの話・観念をどっかで見た気がしますが、なんで読んだか忘れてしまいましたが。仏教の阿頼耶識との関連もあったんですが、ちょっと忘れました。集合無意識の話じゃなく、仏教の阿頼耶識の発想だっけか?この話は。人間だけじゃなくあらゆる生物に共通しているんだったか?これは多分ユングのそれとは関係ないのでちょっと脇に置いといてください。

 集合無意識という見えないもので人は繋がっている。なので、これを実際に具現化・現実化させることで人々の意識を共有・結合させて、人々の心があるがゆえに起こる問題を無くして世の中の問題を解決しよう。そういうテーマがコードギアスにあります

【「仮面」・ペルソナという位格】

 なぜそういったテーマがあるかというと、この作品もう一つのテーマ「嘘」と「仮面」というものがあるからです。人は生きる上で他者から強制された役割の人格を備えるようになります。男・女・父・母・上司・部下…まあ何でもいいのですが、人は社会上要求される、その地位にふさわしい行動を求められます。「~らしく」というやつですね。これを「仮面・ペルソナ」といいます。
 ペルソナというとゲームの方のペルソナ4 を連想する人が多いかと思いますが(アニメをニコ生の一挙放送で見ましたが面白かったですね)、あの世界ではペルソナは自分の心の奥にある隠された自分という意味合いで使われていましたね。そしてその自分と向き合って、自分の弱さを克服するとペルソナという能力を使えるようになるという設定でしたが。ここでいうペルソナとは共通するものもありますが、ちょっと意味合いが違いますね。
 ペルソナを守らないと社会で立派な人物とみなされない、生きていけない。たとえば「いい妻」という社会的地位・キャラクター、つまりペルソナがあれば、その人はその「仮面」をかぶって本心を隠して、旦那や子供また近所の人々にある種演技をするわけです。社会が要求する好ましい価値観に自分を合わせていく。「いい妻」と考えられる行為を旦那や子供、また近所の人々の前で行い、それに反することは決して行わない。仮にやりたい行為であってもその「仮面」に反するのであれば我慢をせざるを得ない。
 その「仮面」をかぶって「いい妻」として振る舞っていくうちに、自分の本心とは違う行動をとらざるを得ない、嘘をつかなくてはならないわけです。そういう行動をとっていると本当の自分とは違うことをしていることに矛盾を感じるわけです。よくマンガやドラマである「良い子」ですね親・教師が要求する「良い子」を演じるのに疲れたというやつ*4。他人に言われるままに行動・生活することに本心との矛盾や疲れを感じてしまう、息苦しさを感じてしまう。こんなことで本当は自分の意志で生きていると言えるのか?対照的に、逆の価値観を与えられている「悪い子」・不良は本心で生きている。行動と本心のギャップがない、故にそういう自由な生き方に惹かれると。グレる・非行というものに、社会が要求する規範・倫理「仮面」についていけない、価値観への反発という意味合いがあるわけですね。「不良」というものの社会学的価値観については様々な研究があります。「逸脱」とか「スティグマ」とか色々面白いものがありますので興味のある方は調べてみるとよろしいでしょう。
 しかし逆に「仮面」をかぶらなければ、まっとうな人間として扱われなくなるし、不利益を蒙るわけです。「良い子」としての「仮面」をかぶれば気苦労が多くなっても、その「仮面」によってまた社会的賞賛を受ける、ふさわしい待遇が得られるわけです。「不良」という「仮面」を選択すれば、当然周囲から不良とみなされ、社会的制裁やよくない扱いを受けます。
 「不良」から「良い子」が迷惑を受けるように、他人が「仮面」を被らなかったら、「良い子」は迷惑を蒙る。となれば、地域や学校のような狭い社会内であればともかく、国単位の大きな社会では、必ず「不良」は排除されます。「仮面」を被れない者は自ずと排除されていく。そういう人間は社会の下層に押し込まれていく。そしてその逆に、より高度な「仮面」を被れるものだけが集まって社会の上層を形成する。社会においては「仮面」を被らないと、自分もその役割をきっちりこなして演技が出来ないと、他の誰かが迷惑を受けるのです。ですから、誰も彼もしっかり「仮面」を被ってその役目を演じなくてはならないのです。演じられなければ排除されて社会の下層に甘んじなくてはならなくなるというカラクリで社会は動いています。(だからシュナイゼルが最終決戦で高度な仮面を使いこなせないものに勝利はないということを言ってましたね)
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【人は「仮面」を使い分ける】

 要求される「仮面」・ペルソナが一つだけであれば、話は単純ですが、役割というのはその場・環境において変わるものです。支社のトップがそこではトップとして偉そうにふるまって指令を出す役割でも、本社に行ったら上の指示をひたすら甘受してヘコヘコしなくてはいけないイエスマンの役割だったりですね。また会社を出て家に戻れば父や母だったり、故郷の村に帰ったら…、地域の寄合スポーツクラブでは…、顔なじみの友達、またそれとは違う大学の友達では…と関係性が変われば変わるだけ異なった「仮面」を被ることになるわけです。
 一般人でピンと来ない場合は、女優みたいな人を例に挙げるといいかもしれないですね。「女優」以外に「母」として「女」として「娘」として~という「仮面」がある。また社会奉仕活動に携わる「政治家」としてのそれ、また自ずと芸能を極める上で「芸術家」としての「仮面」が出てくる。また芸事もただそれをやっていれば安泰という立場じゃなかったら~~ブランドというものを商売にして「経営者」として生きたり、事務所や業界との関係をうまくやる「ビジネスマン」のそれがあったりと役割は多種多様ですね。
 そういう人はその都度適切な「仮面」を使いこなさなくてはなりません。女優で例えといてなんですが、人は生まれながら役者であるというものを地で行くような話ですね。アメリカでは演劇・演ずるという行為が重要な教育・常識であるというのも「仮面」・ペルソナの役割・重要性を理解すれば、またむべなるかな。


【主人公ルルーシュは、妹ナナリー・親友スザクのために嘘をつき、ゼロという「仮面」を被る】

 主人公がゼロという「仮面」を被るのはまさにペルソナというテーマそのものですね。周囲から自分の本心・正体をだまして行動するのですから。その時、その状況にふさわしい「仮面」、期待される役割の「仮面」を被る。作中においては本心こそ「仮面」を被った自分であり(というか実現したい世界を作るための行動をとる位格ですか)、素顔の自分こそが偽りで塗り固められた自分。その二つの自分の違いにルルーシュは苛まれるわけですが、矛盾する自己の「仮面」に葛藤するというのも本作品の魅力の一つですね。

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 「仮面」を被ることは嘘をつくことでもあります。嘘とは世間的にマイナスな価値観でも、プラスの意味も実はあるんですね。人を傷つけないために、またさらに進んで相手を思いやって守るために装うということがある。そのような行為はつまるところ「優しい嘘」をつくことになるわけです。生きる限り、「仮面」を被って本心を抑えて装うこと、つまり他人や社会のために自身を押し殺して献身行為をするのは「嘘」なくしてありえないことですから。
 しかし当然、嘘をつくから人は誤解をするし、また誤解をされてすれ違うということでもあります。思いやるという行為には相手をだますという裏の一面がある。思いやるという行為と嘘をつくという行為がコインの裏表、表裏一体の構造になっているのですね。コードギアスを見ると優しさ・思いやりとそのための嘘(ある種の裏切り)がジレンマとなって展開されることが良く理解できます。相手のことを思いやるからこそ、相手が好きだからこそ嘘をつかないといけない。ルルーシュもスザクもだからこそすれ違って悲劇的な対立を生むわけです。大切な妹ナナリー、親友スザク、生徒会のメンバー達皆に嘘をついて生きて、スザクとは殆どずっと関係が破綻した状態、ナナリーや生徒会の友・シャーリーとも関係が破綻しましたからね。お互いがお互いを思いあうがゆえに相手を傷付けてしまうことになる。最後のナナリーとの対決は涙ながらに見れませんでしたよね。お互いがお互い、最も愛し大切に思う相手とぶつかり、傷つけあったのですから(シャーリーの場合は傷つけあったのではなく、思いあった末のすれ違いですが)。
 この相手を思いやっているが故に行われる思慮・言動と相手のために良かれと思って善意の嘘をつく。「優しい嘘」をつくという矛盾した心情・行為こそ、この作品を魅力的なものにしているわけです。「善意の結果生まれる悪がある、悪意の結果生まれる善がある」とR2の途中からCCが冒頭で何回か言ってますが(1期のときからもう言ってたかな?)、その意図と結果のズレ・違いというのも大事な作品のテーマですね。

追記:シャーリー回でのペルソナ解説】

 turn13過去からの刺客で、「仮面」<ペルソナ>が取り上げられます。これ以前に「仮面」<ペルソナ>が出てこなかったというわけではないんでしょうが、シャーリーがゼロの正体を思い出して、「仮面」<ペルソナ>の話が本格的に取り上げられました。Cの世界・集合無意識の話をする前にワンクッションおいて、人には<ペルソナ>というものがあるという説明をシャーリーの回で取り上げておきたかったんでしょうね。自分を撃った憎い女の前で教師という仮面を被って本心を押し殺して接し続けたヴィレッタ。

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シャルルのギアスで記憶を書き換えられたために知らないはずのクラスメイト達。

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そんな中で、ようやく自分の知っている・愛する人がいた。ルルーシュに出会えたと思ったら、そのルルーシュも偽りの仮面を被っていた。

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 それを知って、シャーリーは嘘・偽りの世界にたった一人だけ取り残されたと感じて自殺を図るわけですね。シャーリーの話は単なる物語の1エピソードではなく、現実世界を生きる多くの人が、仮面を被る中で本当の自分がわからない。そして同じく仮面を被っている他人の本当の姿を理解できずに苦しむということを表している話であると言えるでしょう。自分も他人も理解できずに苦しんで非業の死を遂げるという展開は、まさにペルソナの問題を読み手・観客に大きなものだ・深刻な問題であると認識させるものでしたね。

 

【嘘をつくという悲劇をなくす】

 初期のラスボス皇帝シャルルは「神を殺す」という目的を掲げていました。そしてこの世の中から「嘘をなくす」ということが目的であると。普通の物語なら世界征服、この世の支配者!ってなもんですが、このラスボスの目的は世界征服をもくろんでいたわけではなかったんですね。
 「仮面」を被り、嘘をつくからこそ、誤解・すれ違いが生まれ悲劇の素となる。シャーリーの死や、スザクとの信念の違いから来る対立、最期のナナリーとの対決などをなくすために、集合無意識にアクセスをして人が何を考えているかわかるようにする。集合無意識下で繋がればいい。そうすればそういった悲劇は起こらなくなる。世界中の遺跡をつなげ、コード保持者が二人揃うことで、集合無意識を具現化できるという設定になっていました。それ自体とても興味深く、面白いのですが、実際「集合無意識って何?」と知らない人にとっては何がなんやらさっぱりだったのではないでしょうか?もうちょっと説明してあげたら、もっとよかったのになァとも思いました。*5
 (※追記2、集合無意識の具現化・現実化と書きましたが、アーカーシャの剣によるラグナレクの接続という言葉が多々用いられているので、具現化ではなく、集合無意識との接続、全人類の意識共有と言った方が正確だったかもしれません。
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このぐるぐるしたやつが作中に何回も出てきましたけど、このアーカーシャの剣、思考エレベーターが天にある集合無意識と接続されると全人類が思考を共有することになるという設定だったようですね。)
 そして集合無意識がこのアニメではどういう存在・設定なのかもちょっとよくわからなかった。死人ともアクセスできる集合無意識を通じて意思疎通ができるということはわかりましたが、では生きている人間が集合無意識で統合され死ぬのか?それとも現実の人間はそのままであるのか?若干疑問が残りました。まあ、展開的に多分生きている人間はそのまんまなんでしょうけどね。死人と意思疎通できるだけで。
 というのもコードを持ったシャルルが肉体を消滅してすでに集合無意識に統合されていたからなのか、ルルーシュに消えろとギアスをかけられて消えちゃったから。そこらへんよくわからないんですよね(というか全人類死んだら、その後の「シュナイゼルの世界」、善意と悪意がコインの一枚の裏表・陰謀と嘘の世界が終わる、政治の意味が変わるというところと矛盾しますからね。んなこたあないんですけどね)。あと集合無意識において個人の人格がそのまま保存されるというのはどうなんだろ?まあそういう設定じゃないと物語が成立しないからそこは良いんでしょうけどね。
 集合無意識という螺旋状の物体、おそらくDNAを意識したのでしょうけど、それに統合する装置・ラグナレクに統合されて消えてしまった。「俗事は捨て置けィ」といい、「あとは全てシュナイゼルに託すゥ」といいながら、集合無意識の統合に勤しんだので自分自身はやはりマリアンヌと同じ死を選んだということなんでしょうかね?生きたまま世界が嘘のない世の中に代わって、その現実政治の責任を取らずに集合無意識の中でのほほんしているのはなんか無責任極まりない感じもしますが、それだけ彼が現実世界の嘘・謀略などに疲れ切っていたということでしょうか。それとも現実の悲劇をもう起りえなくした、究極の仕事はやり遂げた。あとはもう簡単だろ?誰がやっても絶対ミスしない・間違いは起こりえないから放棄という感じだったのでしょうか。
 (※追記3、今見返したら、マリアンヌは肉体さえあればまた元に戻れるみたいな発言をしていました。ということは、生き返ってシャルルとイチャコラするつもりだったんですかね。なぜVVからコードを奪ったの?という話がありましたが、マリアンヌを殺した嘘をついたお仕置き以外にもマリアンヌの復活を邪魔される可能性があったからという見方もできますね。VVからコードを奪って殺すことはシャルルがコードの呪いを引き受けることになるので、むしろシャルルにとっての罰。シャルルとマリアンヌは以心伝心、お互いのことが完璧にわかる。理想的にわかりあえた二人というように、計画完成後はCCのコードをマリアンヌにという事も考えていたのかもしれませんね。)
 いくらギアスが個人の意識に干渉できるからといって、集合無意識からの派生物である一ギアス能力でストップさせられるというのは?という気がしないでもないですけどね。ラグナレクの接続で本来つなげることのできるはずのない集合無意識を物体化・具現化したから、ギアスの干渉を受けてしまう!的なワンクッションあった方が良かったかな?*6

 

【ペルソナを理解した見事な最終展開】

 そして、ラストでルルーシュとスザクが手を結ぶ超展開はいくらなんでもそれはないだろ~と思った人がいるかもしれませんが、これも「仮面」・ペルソナというものを理解している人にはグッとくるというか、うまい!と思わざるを得ない見事な展開でした。

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人は、特に政治家には、その役割・スタンスからここに来たらこうせざるを得ないという展開がある。個人の感情・思惑など関係なく、歴史・使命を背負って立っている人間は自己の意志・感情を捨て置いて、行動しなくてはならない。
 ここに至って仇敵同士であろうが、なんだろうが、過去の恩讐など超えて手を組まなくてはならない。政治力学を考えると、180度違うスタンスに乗り換えるような行動、これまで敵だった相手と組む事はこのようにして起こるもの。ちょうどソ連を警戒していたのにもかかわらず「戦争に勝つためには悪魔とだって組む」と言ってソ連と手を組んでヒトラーに対したチャーチルのように、最上の目標のためにはその他の行動はなりふり構わない。なぜならそうしないともっと最悪な結果を招くから。
 ちなみにチャーチルは政治力学を知悉し、その後はドイツ・ヒトラーと組んでソ連を叩く展開になることを理解していました。ヒトラーもまた政治的天才。次は米英が独を支援してくる。そうして対ソ戦争が始まるという展開を読んでいました。しかしそこは政治&外交音痴アメリカのこと、ペルソナを理解しない大馬鹿者だけあって、政治力学を無視してソ連支援を継続し、独叩き路線を放棄しませんでした。結果、待っていたのは冷戦という不毛な国際的な政治的分断、緊張状態でありました―とさ、めでたくない・めでたくない。
 米ソ冷戦による無意味な緊張状態・冷戦の悲劇というものは、政治力学・ペルソナを理解してないが故の損失と言えなくもないのですね。これを以てもペルソナを無視することは現実において如何に大きな被害・損失をもたらすものかわかるかと思います。

 また、村上春樹の作品なんかでは、人生の中で果たすべき役割・「仮面」がどこかにあったのに、もしかして自分は気づかないうちにそれを見過ごして、果たしてこなかったんじゃないか?被るべき「仮面」を放置してしまったんじゃないか?取り返しのつかない義務を放置してきているんじゃないか?―という形で読み手の心を揺さぶってくるという手法をよく使いますね。コードギアスに夢中になった人は、今後この「仮面」・ペルソナというものに注目して色んな作品を読まれるといいでしょう。
*7

 ああ、ラストのオチについてちょこっと語るつもりがつい、作品解説をしてしまったorz。本当に短いメモ書きで終わるつもりだったのに…続きます。続き↓※2018/08、追記3つ&画像追加

*1:そういえばエヴァ人類補完計画と共通点がコードギアスにもありますね。エヴァが好きな方は人類補完計画を念頭にギアスを見るとそのテーマを理解しやすいかと。逆に人類補完計画の意味がよーわからんという方がこの集合無意識の話を読むと理解しやすくなるかもしれませんね。まあ、エヴァ見てないんで人類補完計画がこの集合無意識の接続によって心のすれ違いをなくすというテーマと重なっているかどうか詳しく知らないんですけどね。

*2:会社や官庁といった組織が大事だから、当該社会におけるその組織のランクというものが大事になり、社会内での地位・序列に敏感になる。また社会ランクだけでなく更にその帰属先の会社・学校でのランクに敏感になる。帰属先で社会内での序列が決まる、強く影響されてしまう。個人云々の能力よりもランクで大きく影響されてしまう社会であればあるほど、組織といった集団が強い影響力を持つと言えますね。社会的な地位から個人の扱い方が決まるというのならば、他人にどう見られるのか、どう扱われるのかという問題に敏感にならざるをえなくなります。体面(メンツ)が重視されるわけですね。メンツが重視される中国などは、未だに前近代的な思考が強いといえるでしょう

*3:まあフロイトなどの精神分析のアイデアは面白いのですけども、今ではかなり問題があることが指摘されていますね

*4:一昔前にはドラマや漫画で、良い子が良い子であることに疑問を感じてグレるという話はよくありましたが、今でもよくあるテーマなのでしょうか?今はあまりなかったら若い人にはピンとこないかもしれませんので、注で。そういう話が昔はよくあったという風に理解して下さい。

*5:コードギアスの最終回まで見て、悲劇的な結末を見て、こんな辛いことをなくすために行動していたパパーシュもママーシュの行動にも一理あるんじゃない?むしろ集合無意識で人間繋がって、人類補完計画になったら皆幸せになるんじゃないの?って思う人も一定数いたのでしょうか?しかしルルーシュが、そしてCCが折々言っていたように「変化のない日常・単なる毎日の繰り返し、積み重ねを生きているとは言わない」と言っていましたよね。その件についてはここで書きましたので、こちらをどうぞ…って、コードギアスシリーズ最期の解説記事書いてなかったんですね(大爆笑)。てっきり大昔に書いていたと思ったら書いてなかったとか(^ ^;)。書いたらリンク貼ります

*6:ーということをこの時点では書いていますが、この見解は後に修正されたので、その辺りは【コードギアス解説・考察】 ルルーシュ生死の謎、R2の意味、CCラストのセリフの意味 ーの⬛集合無意識下でのルルVSパパ・ママの経緯についての考察に書きましたので気になった方はどうぞ。

*7:※最後に書いた日本社会の問題と思う所、やっぱ要らないかな?と思ったので、注にブチ込むことにしました。昔書いた最後のオチです。
 >また日本社会においては空気を読むという形でその場における同調圧力が強いことで有名ですが、そういう日本の社会性は個々人に「仮面」を強いるということでもありますね。どんな社会でも「仮面」は必要とされますが、近代社会ではその「仮面」が有益か有効かどうか審査される。異議申し立てと変更が可能なはずなんですが、日本の場合それが非常に難しい。つまり前近代的な非合理な性質が強いとも言えるかと思います。だからこそ「仮面」が重く、非常に生きづらい。常々己が言っている「うんこ漏らし社会」です。一度うんこを漏らしたら一生その罪(?)の十字架を背負い続けなくてはならない。糾弾され続ける。意味のないルールを変えることが出来ない。一度根付いてしまった不合理なルールを変えることが出来ない。生まれてから一生ずっとその不合理なルールを引きずり続けなくてはならない社会構造ですね。