てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

【コードギアス】 集合無意識と仮面ペルソナの話

コードギアス COLLECTION コードギアス反逆のルルーシュ R2 DVD-BOX/

コードギアス COLLECTION コードギアス反逆のルルーシュ DVD-BOX/

 

 エヴァンゲリオンと並んでDVDが70~80万枚売れたとか、アニメ史に残る名作コードギアスの話。エヴァンゲリオンは別に面白くなかったので映画も見ませんでしたが*1コードギアスは本当見ていて、面白かった。作りがべらぼうにうまかった。創作、ストーリーものに重要な要素である「引き」、それが毎回魅力があって視聴者をくぎ付けにした。次どうなるの!?と惹きつけるやり方、ああ~なるほど次回はこういう所で読み手を引っ張り込むのか~という展開・ポイント毎度毎度あって、作った奴は本当に見せ方うまいなぁと感心したモノでした。そんなコードギアスの話を一つ。

 

 

 ネタバレになるので見てない人は、原作見てから読んでくださいね。あと、そうじゃなかったら読んでもまずわからないのでスルーしてください。※追記、今見たらあんまよく説明できていない感が強いので、【仮面・ペルソナという位格】辺りから読んだほうがいいかもしれません。説明上手くないな…。

 

 前回【自殺論とアノミー】 人類が直面する諸問題はすべてアノミーである!を再掲したのは、突発的じゃなく、これに関係するから、再掲ました。デュルケムが説いた集合意識の話と関係するので、これ書く前にもう一回あげるとちょうどいいやと思ったので。

 

 

【近代以前に「個人」は存在しない】

 人・個人に意識があるのが当たり前、そしてその諸個人が集まって集団・組織として合意を形成して、ルールを決めて国・共同体を動かしていく。社会契約論に近い発想ではありますが、まあ近代人はどうしてもこういうルート・手順を考えてしまう。しかし実際の社会はそうではなかった。古代・中世の人間は、というよりそもそも人間には個人・自我というものがなかった。

 

 なかったというと語弊があり強すぎるのですが、個人という単位・観念は殆ど重要視されるものではなかったんですね。そういえば仏教の発生、悟りのところで主な勧誘対象が王侯貴族たちであったのも、そういう高い階層の人たちは暇な時間がある。まさに有閑階級ですね、そういう人たちは個人としての自意識が強くなりやすいという要素が関係していますね。明日のためのおまんまで目いっぱいの人たちにはどうしてもそういうことより生活の問題がまず真っ先に来ますからね。むろん、仏教はそういった人たちも社会運動に巻き込んだんですけども。

 

 近代的な個人と、それ以前の個人とはやはりまたかなり性質を大きく異にします。端的な特徴を言えば、近代的な個人はそれ以前と違って、あらゆる人間が自分は独立した人格を持つ個人だという自意識に強く目覚めたということでしょう。階級の上の人間でも個人としてのそれより、所属する集団・帰属先があっての自分という意識が強く、近代化以前まではやはり個人という自意識は確立されていなかったと言っていいでしょう。より正確に言えば近代的な個人とそれ以前の個人は全く性質が異なるということですね。

 

 なぜ近代化が個人を生むか?近代化とは分業であり、専門化。専門的な作業に従事することで個人の責任が明確化される。これまでは家族だったり小規模な共同体が社会の最小単位、生産・生活の単位だったのに、これにより個人が社会の最小単位になりました(農業も商業も、それまでは集団で従事することが基本であり、集団行動するものが殆どでした。職人も突出した個人の存在あれど、一人で作業をするよりも集団で作業に従事するのが普通ですからね)。

 

 個人が社会の最小単位・主体になることで資本主義・民主主義というものが生まれてくる。個人というものにふさわしい社会制度が資本主義であり、民主主義であるわけですね。個人の能力を市場で最大限発揮して富を生むのが資本主義ですし、またその個人の権利を確保する、主体として政治に声を反映させるのが民主主義ですから。近代化が生み出す近代法と資本主義・民主主義同義と言われるゆえんですね。この三つはそれぞれ相互連関して発展しあってきたものですから。

 

 個人同士が取引・契約をするのが近代であり、それ以前の社会は集団との契約になります。帰属先・所属先の集団を飛び越えて個人が独立して行動する・契約して結びついて新しい共同体を作るなどということは基本的にあり得ないわけです(あるとすれば集団同士の合意ですね)。それ以前の社会・時代の人間は自己の所属する集団の意志の下で動く。その共同体を守らなくては自分は生きていけないのだから当たり前ですね。*2

 

 

【近代以前は個人の意識ではなく、集団の意識、集合意識で動いていた】

 デュルケムいわく、これを集合意識といいます。人間に自我=意識があるように、社会・集団・組織、人が集まって生まれるそれにも意識というものがありうるのだといいました。歴史的にみても集合意識こそが先にあって、個人というものは後からついてくるものですから。時代的に考えても個人がのほほんとして生きていけるわけなく、社会・所属先の共同体が安定して初めて個人が暮らしていけるのですから当然でしょう。

 

 ですから歴史を研究する上で、研究対象の集合意識を研究すればその特質が良くわかる。神話・法などはまさしく集合意識の反映ですから、その社会組織、システムが何を重視していたのか?そこに価値観が裏付けられているわけですね。当該社会の集合意識を反映するのが、彼らが祀る神であって、何よりも尊いものです。ですから古代の集合意識上、一番重大な犯罪は神への冒涜になるわけです。集合意識を揺るがすような行為は、社会全体を崩壊に導きますから、絶対に許されない重罪になるわけですね。

 

 

【集合無意識】

 ここらへん面白い話ですが、詳しくはデュルケムの著作(社会分業論(上) 社会分業論(下) (講談社学術文庫))をどうぞ。で、本題なんですが、フロイト精神分析学などが登場して、人間の潜在意識・無意識といった領域を解き明かす学問が発達してきました。そしてユングはコンプレックス(詳しくはありませんが、日常よく論じられる劣的コンプレックスのみをさすものではありません)などの研究の結果、集合無意識(集合的無意識ユング的にはこちらの方がより正確でしょうかね?)という観念を提唱しました。人間に無意識があるなら、集団にだって、集合意識にだって無意識がありうるのではないか?そう考えてもらうとわかりやすいですね*3

 

 民族・人種・年齢・性別そういった境界を飛び越えて人類に共通するものがある。近代化以後、個人という単位が中心となったとはいえ誰もが何らかの組織や社会に所属し、それらの集合意識下にある。その無意識版が存在するのだ。しかもその当該社会の意識されていない無意識という意味ではなく、あらゆるものが共通しているものから派生しているのだと。人間は生まれながら集合無意識というもので繋がっていると。

 

 集合無意識について深い理解があるわけでもないので間違っているかもしれませんが、天才なんかのその素晴らしい偉業というのは集合無意識にアクセスできてインスピレーションを得ることができたから―という説を見たことがありますね。あるいは天才だからこそ集合無意識が求めるものをつかめた考えるべきか。個人的には集合意識と集合無意識にはもうワンクッションくらい中間段階があるような気がしますが

 

 集合無意識下でつながっている。だから人間の存在、魂・心といった存在は集合無意識からの派生物。集合無意識から人は生まれ、死んでまた集合無意識に帰っていく。そんな感じの話・観念をどっかで見た気がしますが、なんで読んだか忘れてしまいましたが。仏教の阿頼耶識との関連もあったんですが、ちょっと忘れました。集合無意識の話じゃなく、仏教の阿頼耶識の発想だっけか?この話は。人間だけじゃなくあらゆる生物に共通しているんだったか?これは多分ユングのそれとは関係ないのでちょっと脇に置いといてください。

 

 集合無意識というもので人は無意識に繋がっている。これを現実化させることで人々の意識を共有させてしまう。ありとあらゆる人がお互い何を考えているかわかるようになることで、世の中の問題を解決しよう。そういうテーマコードギアスにあるということですね。

 

 

【仮面・ペルソナという位格】

 なぜそういったテーマがあるかというと、この作品もう一つのテーマ「嘘」と「仮面」というものがあるからです。人は生きる上で他者から強制された役割の人格を備えるようになります。男・女・父・母・上司・部下…。まあ何でもいいのですが人は社会上要求される、その地位にふさわしい行動を求められます。「~らしくというやつですね。これを「仮面・ペルソナ」といいます。

 

 ペルソナというとゲームの方のペルソナ4 を連想する人が多いかと思いますが(アニメをニコ生の一挙放送で見ましたが面白かったですね)、あの世界ではペルソナは自分の心の奥にある隠された自分という意味合いで使われていましたね。そしてその自分と向き合って、自分の弱さを克服するとペルソナという能力を使えるようになるという設定でしたが。ここでいうペルソナとは共通してますが、ちょっと違いますね。

 

 ペルソナを守らないと社会で立派な人物とみなされない、生きていけない。たとえば「いい妻」というペルソナがあれば、その人はその仮面をかぶって本心を隠して行動するわけですね。「いい妻」というペルソナにふさわしい行動を旦那や子供や近所の人々の前でする。ある種の演技をするわけです。社会が要求する好ましい価値観に自分を合わせていく。いい妻と考えられる行為のみを旦那や子供また近所の人々の前で行い、それに反することは決して行わない。仮にやりたい行為であってもその仮面に反するのであれば我慢する。

 

 その仮面をかぶって「いい妻」としてふるまっていくうちに、自分の本心とは違う行動をとらざるを得ない、嘘をつかなくてはならないわけです。そういう行動をとっていると本当の自分とは違うことをしていることに矛盾を感じるわけです。よくマンガやドラマである「良い子」ですね。親・教師が要求する「良い子」を演じるのに疲れたというやつ。他人に言われるままに行動することで矛盾・疲れを感じる。こんなことで本当は自分の意志で生きていると言えるのか?故に逆の悪い子・不良は本心で生きている。行動と本心のギャップがない、そういう生き方に惹かれると。グレる・非行というものに、社会が要求する規範・倫理「仮面」についていけない、疑問を感じてしまうという要素があると言えますね。

 

 しかし逆に仮面をかぶらなければ、まっとうな人間として扱われなくなるし、不利益をこうむるわけです。「良い子」としての仮面をかぶれば気苦労が多くなっても、その仮面によってまた社会的賞賛を受ける、ふさわしい扱いが得られるわけです。「不良」という仮面を選択すれば、当然周囲から不良として、社会的制裁を受けたり、よくない扱いされたりします。

 

 不良から良い子が迷惑を受けるように、他人が仮面を被らなかったら、自分が迷惑を蒙る。仮面を被れないものは自ずと排除されていく。より高度な仮面を被れるものだけが集まって社会を形成する。社会においては仮面を被らないと、自分もその役割をきっちりこなして、演技をしないと他の誰かが迷惑を受けます。ですから、しっかり仮面を被ってその役目を演じなくてはならないのです。

 

 

【人は仮面を使い分ける】

 要求される仮面・ペルソナが一つだけであれば、話は単純ですが、役割というのはその場・環境において変わるものです。支社のトップがそこではトップとして偉そうにふるまって指令を出す役割でも、本社にいったら上の指示をひたすら甘受しなくてはいけないイエスマンの役割だったりね。また会社を出て家に戻れば父や母となったり、故郷の村に帰ったら…、地域の寄合スポーツクラブでは…、顔なじみの友達、またそれとは違う大学の友達では…と関係性が変われば変わるだけ異なった仮面を被ることになるわけです。

 

 一般人でピンときにくかったら女優みたいな人を例に挙げるといいかもしれないですね。「女優」「母」「女」「娘」として、社会奉仕活動に携わって「政治家」としてのそれ、また自ずと芸能を極める上で「芸術家」としての仮面が出てくる。また芸事もただそれをやっていれば安泰という立場じゃなかったら~~ブランドというものを商売にして「経営者」として生きたり、事務所や業界との関係をうまくやる「ビジネスマン」のそれがあったりと役割は多種多様ですね。

 

 そういう人はその都度適切な仮面を使いこなさなくてはなりません。女優でたとえといてなんですが、人は生まれながら役者であるというものを地で行くような話ですね。アメリカでは演劇・演ずるという行為が重要な教育・常識あるというのもまたむべなるかな。

 

 主人公がゼロという仮面を被るのはまさにペルソナというテーマそのものですね。周囲から自分の本心・正体をだまして行動するのですから。その時、その状況にふさわしい仮面、期待される役割の仮面を被る。作中においては本心こそ仮面を被った自分であり(というか実現したい世界を作るための行動をとる位格ですか)、素顔の自分こそが偽りで塗り固められた自分。その二つの自分の違いにルルーシュはさいなまれるわけですが、矛盾する自己の仮面に葛藤するというのも本作品の魅力の一つですね。

 

 仮面を被ることは嘘をつくことでもあります。嘘とは世間的にマイナスな価値観でも、プラスの意味も実はあるんですね。人を傷つけないために、またさらに進んで相手を思いやり守るために装うということがある。そのような行為はつまるところ「優しい嘘」をつくことになるわけです。生きる限り、仮面を被って本心を抑えて装うこと、つまり他人や社会のために自身を押し殺して献身行為をする「嘘」なくしてありえないことですから。

 

 しかし当然、嘘をつくから人は誤解をし、すれ違うということでもあります。思いやるという行為には相手をだますというコインの裏表表裏一体の構造になっているのですね。コードギアスを見ると優しさ・思いやりとそのための嘘(ある種の裏切り)がジレンマとなって展開されることが良く理解できます。相手のことを思いやるから、好きだからこそ嘘をつかないといけない、相手を騙して裏切らないといけない。ルルーシュもスザクもだからこそすれ違って悲劇的な対立を生むわけです。お互いがお互いを思いあうがゆえに相手を傷付けてしまうことになる。

 

 

【嘘をつくという悲劇をなくす】

 初期のラスボス皇帝シャルルは「神を殺す」という目的を掲げていました。そしてこの世の中から「嘘をなくす」ということが目的であると。普通の物語なら世界征服、この世の支配者!ってなもんですが、このラスボスの目的は世界征服をもくろんでいたわけではなかったんですね。

 

 仮面を被り、嘘をつくからこそ、誤解・すれ違いが生まれ悲劇の素となる。そこで集合無意識にアクセスをして、全ての人が何を考えているかわかるようにする。集合無意識下で繋がればいい。そうすればそういった悲劇は起こらなくなる。世界中の遺跡をつなげ、コード保持者が二人揃うことで、集合無意識を具現化できるという設定になっていました。それ自体とても興味深く、面白いのですが、実際集合無意識って何?と知らない人にとっては何がなんやらさっぱりだったのではないでしょうか?もうちょっと説明してあげたら、もっとよかったのでは?とも思いました。

 

 そして集合無意識がこのアニメではどういう存在・設定なのかもちょっとよくわからなかった。死人ともアクセスできる集合無意識を通じて意思疎通ができるということはわかりましたが、では生きている人間が集合無意識で統合され死ぬのか?それとも現実の人間はそのままであるのか?若干疑問が残りました。まあ、展開的に多分生きている人間はそのまんまなんでしょうけどね。死人と意思疎通できるだけで。

 

 というのもコードを持ったシャルルが肉体を消滅してすでに集合無意識に統合されていたからなのか、ルルーシュに消えろギアスをかけられて消えちゃったから。そこらへんよくわからないんですよね。あと集合無意識において個人の人格がそのまま保存されるというのはどうなんだろ?まあそういう設定じゃないと物語が成立しないからそこは良いか。

 

 集合無意識という螺旋状の物体、おそらくDNAを意識したのでしょうけど、それに統合する装置・ラグナレクに統合されて消えてしまった。俗事は捨て置けと言い、あとはシュナイゼルに託すといいながら、集合無意識の統合に勤しんだので自分自身はやはりマリアンヌと同じ死を選んだということなんでしょうかね?生きたまま世界が嘘のない世の中に代わって、その現実政治の責任を取らずに集合無意識の中でのほほんしているのはなんか無責任極まりない感じもしますが、それだけ彼が現実世界の嘘・謀略などの疲れ切っていたということでしょうか。それとも現実の悲劇をもう起りえなくした、究極の仕事はやり遂げた。あとはもう簡単だろ?って感じだったのでしょうか。

 

 いくらギアスが個人の意識に干渉できるからといって、集合無意識からの派生物である一ギアス能力でストップさせられるというのは?という気がしないでもないですけどね。ラグナレクの接続で本来つなげることのできるはずのない集合無意識を物体化・具現化したから、ギアスの干渉を受けてしまう!的なワンクッションあった方が良かったかな?

 

 

【ペルソナを理解した見事な最終展開】

 そして、ラストでルルーシュとスザクが手を結ぶ超展開はいくらなんでもそれはないだろ~と思った人がいるかもしれませんが、これも仮面・ペルソナを知っている人にはグッとくるというか、うまい!と思わざるを得ない見事なところでした。人は特に政治家には、その役割スタンスからここに来たらこうせざるを得ないという展開がある。個人の感情・思惑など関係なく歴史・使命を背負って立っている人間は自己の意志・感情を捨て置いて、行動しなくてはならない。

 

 ここに至って仇敵同士であろうが、なんだろうが、過去の恩讐など超えて手を組まなくてはならない。政治力学を考えると、180度違うスタンスに乗り換えるような行動、これまで敵だった相手と組む事はこのようにして起こる。ちょうどソ連を警戒していたのにもかかわらず、戦争に勝つためには悪魔とだって組むといったチャーチルのように、最上の目標のためにはその他の行動はなりふり構わない。なぜならそうしないともっと最悪な結果が待っているから。

 

 ちなみにチャーチルは政治力学を知悉し、その後はドイツ・ヒトラーと組んでソ連をたたく展開になることを知っていました。ヒトラーもまた政治的天才。次は米英が独を支援するという展開を読んでいました。しかしそこは政治音痴アメリカのこと、政治力学を無視してソ連支援を継続し、独叩き路線を放棄しませんでした。結果、待っていたのは冷戦という不毛な国際的な政治的分断、緊張状態でありました。

 

 政治力学・ペルソナを理解してない故の損失と言えなくもないのですね、冷戦というものは。この一事を以てもペルソナを無視することは現実において大きな被害・損失をもたらすとわかるかと思います。

 

 村上春樹の作品では、人生の中で果たすべき役割・仮面がどこかにあったのにもしかして自分は気づかないうちにそれを見過ごして、果たしてこなかったんじゃないか?被るべき仮面を放置してしまったんじゃないか?取り返しのつかない義務を放置してきているんじゃないか?―という形で人の心を揺さぶるっていう手法をよく使いますね。

 

 また日本社会においては空気を読むことが要求される、その場における同調圧力が強いことで有名ですが、そういう日本の社会性は個々人に仮面を強いるということでもありますね。どんな社会でも仮面は必要とされますが、近代社会ではその仮面が有益か有効かどうか審査される。異議申し立てと変更が可能なはずなんですが、日本の場合それが非常に難しい。つまり前近代的な非合理な性質が強いともいえるかと思います。だからこそ仮面が重く、非常に生きづらい。常々己が言っている「うんこもらし社会」です。意味のいルールを生まれてから一生ずっと引きづり続ける社会構造ですね。

 

 ああ、ラストのオチについてちょこっと語るつもりがつい、作品解説をしてしまったorz。本当に短いメモ書きで終わるつもりだったのに…続きます…。 続き↓


*1:※そういえばエヴァ人類補完計画と共通点がコードギアスにもありますね。

*2:組織が大事だから、社会における組織のランクというものが大事なり、社会内での地位・序列に敏感になる。故に他人にどう見られるか、扱われるかという体裁(メンツ)が重視されるわけですね。メンツが重視される中国などは、未だに前近代的な思考が強いといえるでしょう

*3:まあフロイトなどの精神分析のアイデアは面白いのですけども、今ではかなり問題があることが指摘されていますね。