てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

【有坂純】 世界戦史より第一章

世界戦史―歴史を動かした7つの戦い (学研M文庫)/学習研究社

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ツイートでつぶやいたまとめ+加筆・修正になります。これいいよ~って教えてもらったやつを読んでみました。長いので三つに分けておきます。決して記事数稼ぎではない(笑)。

 歴史を動かした~と言いながら、七つ何故これを選んだのか?と言われた場合ちょっと?となる。上から順番でなければどうして選んだかちょっと弱い。が、まあそういうのは書き手の都合なのでご愛嬌。筆者は慶大理工出身という変わり種。それもあるのだろうペーパーの書き方が他の人と異なる。

 いきなり、話がずれてしまうんだけども(^ ^;)、書き手の能力というのは説明の手順・論理展開で決まる。つまり最初の数ページのこれから何を論じるか、こういう展開をするかと説明する「はじめに」の段階で殆ど力量がわかる。この時点でこの人はレベル高いなと思わせた。

 内容が本質をえぐりまくっている、特級の超大作っていうことではないんですが、この時点では無難というところ。しかしきちんと論理手順を踏まえているから、ふむふむと、次に進む路線・進路が明確に記される。呼んでいて安心する。やっぱり理系脳だからか?ペーパー書いた経験からか?この人個人の問題なのかな?まあとりあえず優れたか来て、最低限の書き方を知っている、踏まえている人だなと感心しました。

 一章カイロネイアの戦いはアレクサンダーの父フィリポスについて。彼も息子に劣らず、帝国の基礎となるシステムを構築した。時はギリシアでの敗戦に懲りたペルシャが金と外交の力でアテネとスパルタを対立させギリシャの統一感情「ヘレネス」感覚が薄れていた頃。ペルシャは大王の和約でスパルタを味方につけてバラバラになっている頃であった。

 ギリシャの統一はどこへやら。しかし経済・文化の成長は止まらず絶頂期に向かう。これは現実の社会と経済がポリスという制度の狭い枠を超えたことを意味する。そしてこぼれた人間が向かったのは傭兵=軍隊であった。ポリスの理念を超えた社会の再編にテーベのエパミノンダスなどが乗り出したがそれも失敗したという時代背景であった。

 拙理解ではマケドニアは漢に対する匈奴のようなイメージで、そのような遊牧民が定住化・ポリス化して、急速に力をつけた国家かと思っていた。ところが実態はその地勢上、黒海へのルートをめぐってアテネなどの海上勢力が。また陸では近隣勢力がその資源を巡って狙ってくる。貴族の力も強く、軍隊も弱い、君主の力、君主権はしれたものだった。つまり内外に問題を抱えて、同しようもない弱小国家だった。

フィリポスは王家争いの混乱の中即位。彼は人質時代、英雄エパミノンダスの薫陶を受けており、次の三つを基本戦略とした。すなわち①強い軍②それを支える経済力③プラン・戦術の重視である。彼は土地を開拓し、中小農民を育成、そこから兵士を。近臣貴族からマケドニアの代名詞である重騎兵ヘタイロイを作った。

 従来ギリシャではエパミノンダスやイフィクラテスにおいても騎兵は重視されていなかった。これは隣国テッサリアペルシャから学んだものだろう。斜線陣に、ペルシャ式兵科統合戦術と兵站・偵察技術を総合した軍事システムを構築。幸運なことに手付かずの資源があり、それを資本投下し経済力を高めた。

 マケドニアに干渉していた隣国パイオニア・イリュリアをその軍隊・経済力によって打ち払うことに成功する。これでようやく独立国としての地位を確保した。そして海を制するために要衝アンフィリポス・カルキディケ半島を攻める。アテネの干渉を防ぐために金・外交交渉を惜しまなかった。

 この要衝を制することで、周辺ポリスをマケドニアの支配圏においた。初めてギリシアで金貨を鋳造した。この経済力の故事は象徴以上の意味合いがあった。旧来のポリスを改造、または新都市建設により、自由な商売・制度となる。これまでの都市=国ではなく、新時代のビジョンを新都市は持っていた。帝国の中の一点・有機体として機能することを前提に作られたのであった。

フィリポスは第二次神聖戦争で神域を犯したフォキスの懲罰という、これ以上ない大義名分をきっかけにギリシアを支配下においていく。アテネでは反マケドニアのデモステネスなどの活動が活発化したが、なんとか親マケドニア派をつなぎとめることに成功。前346フィロクロテスの和議を結ぶ。

三年後、トラキアを支配下に置き黒海を制するためビザンティウムを囲む。ここにおいて、海上ルートを脅かされたアテネが反マケドニアに舵を切る。海上ではさすがにアテネにはかなわない。退却せざるを得なくなる。ここにおいてアテネ・テーベ連合と直接対峙することになった。

初戦は拠点の奪い合いで膠着、要衝アンフィサを陽動作戦によって抜くと背後を絶たれるのを恐れた連合軍は後退。カイロネイアの野で決戦を選択。史料上の問題もあるが、戦力はおそらく連合軍歩兵3万5千、マケドニア2万で騎兵はお互い2千。ギリシャの主戦力は重装歩兵ホプリタイからなるファランクスだった。

ファランクスは衝力に優れても、機動力がなく投射攻撃に無力という特徴があった。おどろくべきことにギリシャではホプリタイ以外の騎兵・軽装歩兵・砲兵をほとんど持たなかった。歩兵のみという乏しい戦術の選択肢でどうやってペルシャに勝てたのかは19世紀以来大きな謎となっているほどである。

 ペルシャ戦争後さすがに見直され、イフィクラテスが軽装歩兵ペルタスタイを考案。機動力により戦術の柔軟性が増し、状況に応じて飛び道具を使う。この有効性はペルタスタイがレカイオンの戦いにおいてスパルタに大打撃を与えたことで明らかだった。しかし同盟軍ではこのペルタスタイが採用されなかった。

 マケドニアが重装歩兵・軽装歩兵・騎兵と諸兵科の統合をなしていたのに対して同盟軍ではそうではなかった。しかもマケドニアの重装歩兵ペゼタイロイはペルタスタイに近く、長い両手槍サリッサを装備していた。衝力・機動力で敵方を上回っていたのは言うまでもない。

ヘタイロイは両方に穂先を持ち、ギリシア騎兵の横隊より小回りの効く楔形横隊。また同盟軍のテッサリア重騎兵もそれに次ぐ威力を持ち、更に良く動けるダイヤモンド型の横隊陣形。ペルタスタイが射撃で攻撃し、ペゼタイロイが相手の攻撃を食い止め、相手の弱点を探す。そこを予備のペゼタイロイが叩くというものが基本戦術であった。

 これはグスタフアドルフやクロムウェルの戦術に似ている。もともと兵科統合戦術は東方世界のもの。ただし何故か重装歩兵はなく、フィリポスは東方と西方を組み合わせた戦術を生み出したわけだ。

エパミノンダスの斜線陣は戦意の低い同盟軍が逃げ出さないうちに決める必要性があった。しかし彼にはそのような不利な側面はない。自由な指揮が可能なのだ。アテネのポプリタイは両耳を塞ぐ兜で、聞こえづらく容易に命令変更が効かない。右翼に展開するポプリタイが突進して中央と間隙が生まれたところをマケドニア軍は突いた。

 この任を担ったのがアレクサンドロスの騎兵。中央と右翼を遮断したあとはそのままテーバイの後背をつき、孤立したアテネ軍はフィリポスの主力によって叩かれた。諸兵科統合、一元化された指揮の前にアマチュアの軍隊・寄せ集めの軍が粉砕された。時代の転換点を象徴する出来事であった。

 大王の和約体制に終止符を打ち、コリント同盟の主という盟主としてギリシャ統一を果たした。彼の偉業はかく輝けり。さてここで疑問なのが何故アテネ・スパルタ・テーベはそのような戦術を取らなかったかということだ。私見だと取らなかったではなく、取れなかったのだろう。軍隊とはそのまま階層を意味する。新興国故に新軍隊を形成する、新しい軍隊の担い手を生み出すことはさほど難しくなかった。しかし成熟してしまった政治制度ではそのような基盤となる階層を、既得権などもあり保護・育成させることができなかったのだろう。またそもそもその担い手がいなかったのかもしれない。

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