てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

孟子より、樂正子の話

孟子読んでて、樂正子が気になったので、その話を。

 樂正子というのは孟子の弟子です。正確には樂正克ですね。『孟子』本文中には計4回登場してきます。『孟子』以外で何らかの史料に出てくるのでしょうか?後漢書の注で「以獻楚懷王。使樂正子占之」という一文があって、楚の懷王に仕えていたんでしょうかね?まあそこら辺は置いときます。『孟子』本文中に見える彼について考えてみます。

 四回というのは、梁惠王下・離婁上・告子下・盡心下の章に断片的に出てくるものです。当然それほど多くはありません。何人か孟子の弟子が出てきますが、それこそ章の名前にもなっている公孫丑あたりが一番登場が多いのではないでしょうか?あとで弟子の名前で検索して誰が一番出てくるのかチェックしてみましょうかね(忘れていましたが、もう一人弟子の萬章がいました。章の名前になってるくらいですし、彼が孟子に問うのも多いですね)。まあ『孟子』に出てくるから誰が高弟とか、わかりえませんけどね。古代の史料ですし。

 それでも、まあ樂正子という人物はそこそこ有力な弟子だったことには間違いない。それは彼が仕官をして諸国で用いられていること、魯では王に孟子と会って下さい!と言うくらいですしね。まあ当時は結構だれでも能力さえあれば、王とでも面会できましたが。

 盡心下では、浩生不害が樂正子という人物はどんな人物でしょうか?と孟子に尋ねて孟子が「善人だよ」という件があります。善人で信人だと。孟子の人物ランクでは善・信・美・大・聖・神という六つのランクで人物評定をするみたいです。その評価方法で彼は前二つの段階だと。孔子が聖人だとすると、大人くらいに評価されれば最高評価といえるのでしょうけどね。まあ免許皆伝の初伝と中伝の間くらいですかね。

 告子下で、魯国が樂正子に政を任せようという話を聞いて、孟子は夜も寝られないほど喜んだと言いました。樂正子は善を好む。好善足乎だと。まあ、そういう話があるくらいで、孟子から評価されている、少なくとも彼が政に携わるのは嬉しいと言われるのですから、一角の人物と見ていいでしょう。

 ところが、離婁上では斉の使者としてきた子敖という孟子が嫌いな人間(覇道政治的な政治家か?)に付き従ったということで樂正子にダメ出しをします。「まさか、お前があんな奴につき従うなんてな!」と怒ります。小姑みたいな、なんで昨日帰国したならすぐ会いにこないんだ!翌日に来るなんてアホかお前は!という有り様。

 聖賢の道を学ぶものが飯の種のために仕えるなんて!ということも言います。

樂正子はここでは、どうもすいませんでしたと謝ったと書いてありますが、そこにちょっと疑問を感じるわけです。

 梁惠王下で、魯の平公に樂正子は自分の師の孟子という人がおりまして、ぜひ一度会って下さいという話になります。平公は乗り気になって出かけようとするも、嬖人(つまらない人間)臧倉が、葬儀の礼を超えて父よりも母を盛大に祀った。あんな人はダメですよと言われて、平公は面会を取りやめてしまいます。

 人物評定の盡心下のところは、おいといて、樂正子が魯に仕えて喜ぶ(告子下)→樂正子が平公に孟子を合わせようとする=仕官させようとする(梁惠王下)子敖という人間に付き従ってダメ出しをされる(離婁上)という時系列で考えてみたいと思います。

 二番目と三番目が逆でも全然構わないと思うんですけどね。樂正子が孟子門下で高い評価を得る、仕官する。そして孟子を王に引きあわせるという段階に至って失敗。悔しい!と樂正子が感じているにもかかわらず、どうしてあんなつまらない奴が私の道を邪魔できるというのか、これは天命であると孟子は動じない姿勢を貫きます。

 一見頼もしい不動心に見えるのですが、他の弟子もどうして先生は仕官なされないのですか?と突っつくシーンが何度かあります。ようするに綺麗事言ってないでさっさと仕官して、実際の政治に携わって現実を変えろ。良い政治をしなかったら、王道も糞もない。現実の政治に携われなかったら、何よりも大事とする民政を守ることすらできないじゃないか!

 ―というごく当たり前の疑問が出てくるわけです。孟子は手段と結果、両方を全うしないと許されないというスタイルで、頑なに「権道」を拒みます。ちょっとでもミス、瑕疵があったら「はいダメー」という思想。

 孟子の見識を慕ってくる多くの弟子がいたことには疑いがありませんが、師のそんな態度を見て離れていく弟子も数多かったと思うんですよね。当時、孟子の弟子で大成した人物って多分いないんじゃないかな?という気がします。まあ後で調べたら出てくるかもしれませんが。

 己が樂正子だったら、力が足りずに先生を国師として招くことに失敗してスイマセンと思っていたのに、せっかく色々努力して魯で上り詰めて、誰にも邪魔されずに先生を招こうと頑張っている時に、あなたのために色々苦労している時に文句をつけられるとか、何だお前は!自分で何の努力もしねーじゃねーか!とキレますよね。

 政治は結局「結果責任」なんで、そんな非現実的な態度をとる孟子の思想は戦国時代では当然主流にはなりえないわけですね。傍流もいいところ。多分、朱子学まであんまり興味・関心足り得なかったと思いますね。教養の一つではあっても。

 まあ、そんなメモ。他にも弟子の話を書くかも?(※追記特に書くことはないです。ただ、孟子の死後公孫丑・萬章が編纂したというのを見ると、彼ら二人は孟子の弟子の中で学者系の弟子、つまり宗教家孟子の弟子でも宗教系・学者系の弟子。そして樂正子などは同じく学問をやっても政治家系の弟子と分類することが出来るかもしれませんね。)