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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

稲葉振一郎著 『社会学入門』読んでのメモ

社会学入門―“多元化する時代”をどう捉えるか (NHKブックス)/日本放送出版協会
 今月の読んだ本枠に入れようかと思いましたが、地味に長くなった感があるので、あと取り上げる本が多いので単独で。ツイッターで知って、この人おもしろいなと思っていたら、たまたま本があったので読んでみました。この本のうまいまとめとかでは勿論ありません。社会学に一般理論が存在しない云々の大事な話にノータッチです(笑)。個人的に気になった所と、読もうかなぁと思う参考文献で食いついたものをただ書いているだけです。
 どうも授業で使う参考書みたいな感じなんですかね?テキストだからか、授業とセットでないと有効性を発揮しないという性質があるのかしら?まあ単独でも面白いことは面白いですが、これ伝わるかなぁ?と疑問に思いましたね。学者・学説がドンドン出てくるのでところどころつっかえましたから。まあ、己のレベルが低いだけと言われればそれまでですが。テキストだとすると、この本はどうなのかなぁ?とか一概に言えないですよね、授業で使うことがメインだろうし。というわけでまた何か氏の違う本を読んで、感想書いてみたいと思います。
 まあ、いつも言っていることなんですけど、現代では優れた分析をする上では、既存学問・政治学とか経済学などそれ単独ではなかなか難しい。必ずまたがった複数の視点、複合的な視点からアプローチをしないと、目覚ましい発見・主張はできない。まあたまに歴史学しかやってない、政治学しかやってないのに、優れた分析をしている人なんていう方がいますが、そういう人は、それ単独をやりながらも知らず知らずのうちに、学際的なことをしている。領域的な視野を持っているという気がしますね。
 社会学はその領域をまたぐ学問、間学問を前提とするが上に、トータルでみても社会学という全体像を提供しにくい。学問よりも問題が先にあるという要素があるので、対処療法的なところがある。むしろ問題の構造を分析した上で、ここでは~学、ここでは~学が必要という風に割り振って、それぞれの専門家に研究してもらう。これを研究すれば有効なものが生まれますよ~というロードマップを作ることかもしれないですね。悪い言葉で言うと、他の学問のプロを利用するということ。なんかふと思いついたので、そんな話を書いときました。

 

 社会有機体説(個人を国家や社会の手足・一部というように捉えるもの)は、全体主義によって否定的に捉えられるようになる。個人は社会の一部にすぎないという発想がヒトラースターリンを生んだ土壌を作った、根拠とも言えたから。

 経済学にとって飛び抜けて重要な存在スミスは、『道徳感情論』という社会学社会心理学上、重要なものを書いているが、あまり取り上げられていない。ヒュームも経済学で重要だが、それ以上にカントと並んで哲学史上重要な地位を占めている。この二人がルソーと直接対決するのがポイント。『国富論』はルソーの『人間不平等起源論』の反論に読める。近代文明が格差を拡大するというルソーの主張に対し、富が増すことで格差は開いても底辺・社会全体の福祉は改善されるとスミスやヒュームは考える。ヒュームは実際には契約で存在している社会はないとして、
社会契約論を否定。Convention(慣習が適訳か?)によって社会はできている。つまり「意図せざる結果」、「意図せざる秩序」こそポイントだとする。意図せずしてうまく治まる。この発想はスミスの市場のそれと同じと。これが後にダーウィンの「自然選択」に繋がる。自然界の強者生存=意図せざる結果こそ正しいことになる。

 

ヒュームの話を聞いて思いついたこと

 このように見ると、社会を契約論と見るか慣習論と見るか?という図式は、成文法と慣習法のそれのように見える。近代になればなるほど契約=立法の必要性が増えてその余地が拡大していく。議会での立法が増えれば増えるほど、国家を一から契約で作ろうという動きに発想が拡大するのも当然。その反動で慣習の有効性に目が行く、注目が集まるのも当然か。

 自然発生的な秩序をよしとするか、いやそれではダメで人為的な立法・改正が社会秩序には必要だとするか。これは二大潮流となって現代まで続いていると思われる。結局は二者択一ではなく両方の性質を抑えて、それぞれうまく使うということになるのだろうが。天体どころか、生物界にまでその「意図せざる秩序」が成立するのならば、勝ったものは正しい。強いものが勝ち残るという思想を後押しすることになるというわけだ。しかしそこに、契約論的な自然淘汰を否定するロジックを持ち込めなかったのは学問的に非常に問題があったと言えよう。

 第一次大戦の勃発というのは、バランス・オブ・パワー=「自生的秩序」を良しとする、信頼するあまりの結果と言える。結果反動として、やはり「自生的秩序」に任せるだけではダメなのだとなって、慣習法を超えた成文法による国際組織・機構を創りだそうという流れになるということだろう。国家や社会はおいといて、国際社会レベルになると、では契約によっていかなる秩序を作り出すべきかと言われてもまとめようがない。契約論のロック・モンテスキュー・ルソーのような民主主義社会でしめられてすらいないのだから尚更。結局欧州の自生的秩序の延長、毛を生やしたもの程度に過ぎなかったところがポイントになるのだろう。国際社会を機構だったり、組織だったり、それらをどういう構造をしているか分析して、秩序をうまく成立させる、コントロールするためにはどうしたら良いのかという明確な論理、前提・方法論がなかったというところに注目すべきなんでしょうね。

 当然第一次大戦が勃発すれば、やっぱり「自生的秩序」じゃダメじゃないかと批判が集まって、いち早く「後天的秩序」「制度的秩序」より強力な契約を持ち込んだ共産主義が力を持ったのは当然の流れなんでしょうね。その共産主義からして、組織論、メカニズム云々の論理がなかったのでダメだったわけですが。<思いつきここまで>


 ウェーバー以前にモンテスキューが比較手法を用いている(無論ヘロドトスイブン・ハルドゥーンなど昔からあるのだが)。18世紀のモンテスキューやスミス・ヒュームには、欧州文明が一番という意識は薄い。
 モンテスキューは文明の違いを自然環境の違いに求める。スミスは生産力。中国は生産力豊かだがこれ以上は無理、行き詰まる。欧州はまだまだ生産力に乏しいが可能性・発展の余地が多いという比較。これが後の進歩史観の原型となる。18世紀後半進歩史観、発展の段階というものが登場してくる。社会の違いが文明発達の度合いの違いとみなす発想は、19世紀のマルクス主義によって完成する。社会学はこれとは違い、モンテスキューのような啓蒙主義へ回帰する。コンドルセは生産力を重視しつつも、一本道の歴史として捉えず、歴史の多様性として捉える。これがウェーバー・デュルケムに繋がると。初期の思想家達は欧州文明絶対みたいな価値観からは程遠かったのに、以後欧州こそ最高!他の諸文明はついてこれていない惰弱のような思想になっていくのは、まるで、現中国が発展してその優位状態を元に中国こそが最高であるとうぬぼれて周辺諸国を見下す態度に近いものがありますね。国家・文明の繁栄期においては、傲慢な自己優越思想の興隆を伴うという普遍的な法則があるのでしょうかね。

 モダニズムと
芸術も数学も精神分析根源は同じ。よって立つ基盤・根源の正体を知りたい。そして、それを使いこなしたいというもの。精神分析は人間には知ることの出来ない無意識の領域があるという点で共通する。

 コント、モンテスキュー、スミス、トクヴィル社会学と呼べるものはそれ以前にもあった。しかし実際に始祖とみなされるのはウェーバーやデュルケム。社会主義の思想と密接に関連している。その影響を受けて誕生したのが社会学。デュルケムもマルクスもフランスで社会主義者と交わる。社会主義の思想を発展させたマルクスと、批判的なデュルケム・ウェーバーはこういう視点で異なってくる。とするとマルクスは「社会主義の学者」であって、社会学者ではなくなるのだろうか?

 社会主義社会学というものが密接な関係をもつとすると、社会主義というのは世界の、世の中のあるべき姿を模索した姿ですから、「当為」の追求ですよね。その「当為」・理想の現実化の過程や論理が本当に正しいのか?チェックをするための学問が社会学とすると、やはり「当為」と「事実」の学問が社会学というべきでしょうか?現代では常識となって、政治学だろうが経済学だろうが「当為」と「事実」の峻別は言うまでもない前提になっていますが、当時それを主張したウェーバーは、いわば開祖ですからね。

 何時の世もあるべき世界・社会が論じられないことはない。無知・無理解に基づく善意の暴走にきっちりツッコミを入れることこそ社会学の役目かも?なんてSNSでのトンチンカンな当為を語る人を見てふと思いました。

 ロマン主義自由主義社会主義で、近代化に肯定・否定的・連帯に消極・積極的という話があるが、社会主義が近代化に否定的で自由主義が連帯に消極的ってのどうだろうな?いまいちピンと来ないのだが、この時代の古典を呼んで整理したら、そういう傾向が見えるのだろうか?

 自由主義者でありながらポーランドに対して冷たい、ナショナリストの顔を持つウェーバーというのは面白いですね。読んでみようかしら。↓

マックス・ヴェーバー―ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯/東京大学出版
歴史的類比の思想/勁草書房

また、この『歴史的類比の思想』で田川建三氏が大塚史学の批判をマルクス主義的立場からしているとか。ウェーバーはそもそもヨーロッパ中心主義だという批判を行っていると。面白そうですね。また氏の

キリスト教思想への招待/勁草書房
には、キリスト教のプラスの遺産の解説があるとか。上のと合わせて、面白そうな気がしました。

 

それと、山之内靖著の

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)/岩波書店
で、大塚史学ではウェーバーは近代礼賛者だという話があるんですが、大塚は著作集で、ウェーバーが語る近代の問題について書いていたはずなので、大塚の言うような近代礼賛者ではなく、むしろ近代批判者であると読み取れるってのはどうなのかなぁ?近代について肯定的な評価も、それとともに生じるマイナスの評価も両方していると思うんだが…。 

 まあ、それはおいといて、対ロシア最前線のポーランドにおいて、外国人労働者を追い出せという主張をウェーバーはしていた。共産主義政権が誕生して、ロシア=マルクス主義との対決でもあった。-という時代背景を考えると、当時の人間がナショナリスト的になるのも、まあ至極当然なんじゃないでしょうかね?冷戦位の人間がこういうウェーバーの姿勢を見ても、彼らならそれは当然の反応だろうと批判することはなかったのでは?それこそ現代的な視点・再解釈なのではないですかね?ウェーバーナショナリスト!けしからん!的なことになるのは。まあまさに時間が経って初めてなされる評価の典型ではないでしょうか?なんとなくですが、ウェーバーのこの態度は、カーのソ連研究のそれに通じるものがあるんじゃないでしょうか?

 

 20世紀後半の経済学者も、合理主義が伝統主義を上回るとは限らない。盲目的な従属の態度のほうが合理的行動よりもメリットが有る場合があるということに気づくようになる。ウェーバーはそれにいち早く気づいていた。故に、マルクス主義のような理性・合理主義の勝利、段階的な発展という論理を否定した。

 

 関係ないが、合理主義では捉えきれない・その限界を認識する立場を「神秘主義」とするというのはどうなんだろうか?間違っているとか、それが悪いという話ではなくて、個人的にスッキリしない。神秘主義についてこの点から論じるという前置きがないとどうもなぁ。本文と全然関係ないんですけど、神秘主義という言葉について、ケアがない気がしますなぁ。そんな簡単にそれが神秘主義といえるのか?ということを最近よく感じるんですよね。なんというか、合理主義じゃないから神秘主義みたいな、A以外のものだからBであるみたいな、ものすごい単純化が目立つ気がするんですよねぇ。完全に個人的な気になることなんですが。まあ、単純にそれだけあまり興味関心が払われる分野でないってことなんでしょけどね。

 

 社会主義者も自由主義者も自分たちの支持が増えない。「大衆」への幻滅。09年の危機について、この程度はすでに何度もあった。これを資本主義の危機・時代の転換点などと煽っているのは無知の極みという指摘はそのとおりですね。

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)/集英社
これのことかしら?

 

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ/せりか書房
は、そういや読んでないんだよなぁ。やっぱ読まなくちゃアカンかなぁ?  
市民の国について (上) (岩波文庫)/岩波書店
 
人性論 (中公クラシックス)/中央公論新社
ヒュームに惹かれるものがあった、モンテスキューアダム・スミス、ルソーは一応目を通しましたが、ヒュームは未見でした。ヒューム読もうかなぁ。
「資本」論 ――取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)/筑摩書房
に解説ありと。身体論も含んでいるのかしら?マルクスの入門書で一番いいものが、
マルクス (オックスフォード大学PMシリーズ)/雄松堂出版
これだとか。読んだことないので要チェックですな。マルクスウェーバーの時代背景についてマンフレート・リーデル著『市民社会の概念史』というのがあるのですが、アマゾンにページすら無い。珍しいな。学術書でもページくらいあるものだが。それと
ドイツ市民法史/東京大学出版会
が、オススメとのこと。 

 宮台さんについて、学問は人生論ではないというコメントが有りますが、現代では誰が人生論を語るんでしょうね。そういう役割を果たす人がいなくなった結果、社会学者=人生論を語る長老になるのはもはや必然なんでしょうかね?

 

 危機・日本の近代化の契機の話があるのに、小室直樹の文献が紹介されていないことについては個人的に「?」になりましたね。