てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

三国志的な話 上谷浩一氏の論文読んだ感想

論文紹介「蜀漢政権論-近年の諸説をめぐって-」(上谷浩一/東方学第91集、1996)

 こちらにまとめがあるんで、読めない人にお奨めです。三国志時代の学者で有望な人は結構いますし、色々紹介してきたんで、また書きませんが、多分。この人が一番でしょう。今で言えば、渡辺さんが権威なんでしょうが、己は文句なしにこの人が、一番だと思います。まぁ、序列を付けられるもんでもないでしょうけどね。

 博士論文で、紀要チラ見だけですけど、梁冀=外戚と宦官をしっかり見つめている。外戚・宦官について肯定的な役割を評価するのは己と全く同じで、少し驚いた。

 鴻都門學による霊帝の直属官僚の育成、トップダウンを図ろうとしたことの注目や、董卓の事績=初期においては既成勢力とむしろ非常に妥協的であったこと、何故呂布董卓を裏切ったのかというしっかりとした裏づけのある説明。

 特に中国史は具体的な因果関係を明らかにせず、個人的な人格関係に基づいて説明してしまう。そういった個人的な関係に帰属してしまうのが最大の欠点であるといえる。それをしっかり見つめなおして捉えた点に、高い評価を与えたい。ま、己に与えられてもしょうがないですが(^ ^;)。

 研究ノートもまたいい。劉備の生い立ちを見ると、てっきり皇族というのは100%インチキだと思ったが、親が孝廉に挙げられるくらいだったり、役人だったりするところを見ると、没落貴族&皇族の可能性が高いだろう。無論劉勝末裔自称は間違いないと思うが。

  顔良文醜が名前から言って、ペンネームだろうという指摘。また、孫呉荊州攻めについてどうしてあっさり降伏してしまったかの理由。蜀攻めでみ~んな一流の人間は行ってしまい、これまで劉備を支えてきた人間が取り残されて、名士の合流で完全に主流から外されたことにあるという見方は、まさに正鵠を射たものだろう。まんま納得した。

 そこから、類推すれば、次のような結論が生まれる。

 いくら孫呉といえども荊州攻めはリスクが高いもの。失敗すれば両方を敵に回すことになる。喜ぶのは魏ばかりで絶対にやれないはず。宮崎市定氏も孫策なら魏を攻めただろうとしてるし、己も孫権は短期的に利を得ても、長期的にみれば魏の安定=総合力で呉の自滅になるに決まってるではないか!何をやってるんだ、私情に流され誤った判断を下した―としか思えなかった。

 しかし、劉備政権は蜀攻めのために荊州に負担をかけ、しかもその報酬は得られない。休養せずに=民養なしで、さらに北伐。その負担が重過ぎて、民心はかなり離れていた。だからこそ抗戦ではなく、開城。即降伏ということになったのだろう。その後の呂蒙の統治が落ちてるものも拾わないという史書で言う最高級の統治レベルへの賛辞が送られることからも良くわかる。補給がうまくいかなかったこと=内政・民力がかなり疲弊したのだろう。横光マンガであったような、家族が呼びかけて兵が逃げていってしまう。なんて事実はなかったと思うけど、そのような状況であったことは間違いないだろう。

 なるほど、なるほど、と思う指摘を常にしてくれる。もちろん石井さんなんかもそういう指摘はある。しかし、より歴史の流れを整理しやすくなるものから言うと、上谷さんの指摘は非常に大きい。三国志モン出すんなら、この人より早くしないとな…。この人が通読書、一般書書いたらもう超えられないだろうという気がする。石井さんの魏の武帝は面白かったが、一般ウケしないだろうな~。―という印象を受けた。読みにくい、構成が。学者が書いたな、という感じがする。出版社はもっと、こうかいたらウけますよとかいう指摘はしなかったのか?

 そういえば、二袁戦争が漢末の乱の本質だって書いたっけな?董卓は、物騒な名士から、後漢を守りつづけた保護者ってひろおさんが書いてたけど、真逆ですね。董卓はもうまさに簒奪一歩間近だったでしょう。簒奪でも禅譲でもどちらでもいいですが。董卓が正しい、袁紹がor曹操が…っていう見方にはあまり意味がなく、あの時代はまさに一回全部ぶち壊して、ガラガラポンにならないと中国は再生されなかったわけですから。

 その中で董卓だけが一人異端で彼だけは一人漢人でありながら、遊牧民化して、その遊牧民的な王朝、後の五胡十六国、最終的には唐の遊牧民王朝へと至る。その先駆けですから。ターキーエンパイア、征服王朝の始祖ですからね。塢に籠もって三十年過ごすってのも、漢は一つ、中国は一つ、王朝は一つっていう当時の人間からすれば当然のことを平気でひっくり返したものでしょう。割拠政権を作ろうとしたんですね。彼は。もちろんその後攻めて領土広げる方針でしょうが。

 そうそう、遊牧を裏付ける証拠として、太師を名乗り、董卓太公望の称号を採用した。相国(蕭何・曹参以来誰もない)→太師(周公旦・太公望が就いた伝説の職)そして、尚父という太公望の尊称を備えたことから、明らかに遊牧民主導型の国家を作ろうとしたことがわかる。太公望は別名姜子牙、羌族の出身であり、異民族・遊牧民の立場からの政治を重視したいからだ。中国的、儒教的権威付けで言えば、周公旦の使ったような称号を名乗ればいい。漢公卓とかね。わざわざ自分を太公望になぞらえる=異民族であることを念頭に置いた称号を用いていることから十分に推察できる。まぁ、その意図がないにせよ、太公望=軍師、軍事を念頭においた覇を打ち立てる、大業をなす。戦乱を乗り越える意図があるのは間違いないだろう。

 後、河内兵か。この河内兵と呂布の関係はちょっと注目すべき出来事だと気づいた。つまり、曹操にしろ張邈にしろ、張楊にしろ、劉備にしろ、孫策にしろ、全ては同じなんだってことですね。辺境軍人=最強の軍隊保有董卓公孫瓚が消えて、彼ら流浪軍人の時代になるわけです。う~ん、流浪軍人って呼び方イマイチ気に入らないな。他に良い呼称を考えよう。