てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

NHK特番、老人漂流社会を見た感想

 『老人漂流社会 ”老後破産の現実”』というのをやっていました。見た感じだと社会福祉制度は存在すれども、機能せずーというところでしょうか?年金暮らしの人が、そういう独居老人用に住める施設を整備したほうがいいんじゃないんでしょうか?生活もそうだし、孤立化対策にもなるだろうし。

 自殺するわけにもいかないけど、本当に早く死にたいというのが本音。今の苦しみや不安がなくなるから早く死にたいーこういう老人のセリフは今の社会を象徴するものですよね…。経済効率のため、一極化・都市化が進んで、その後のケアが放ったらかしになっている現れですよね…。

 決してスラムのように、治安が乱れているわけではないのだけども、この老後破産という現象は、ある意味「日本的スラム」と言えるのではないでしょうか?今の段階でこういう状況があるのなら、今後はもっと増えて手が付けられなくなってしまうのではないでしょうか?

 ポイントとして孤立化した人や、老人が人と交わろうと思った時に、行く場所があること、人と交流できるエリアが社会機能として存在しているかどうかじゃないかな?と個人的に思います。

 老いて家族がいなくなり孤独となる。また貧困で自分が惨めだから、周囲の人との付き合いを避けるようになって、ますます孤独になるとのこと。孤独死以外にも孤独化が社会に何をもたらすかということをもっと真剣に考える時が来てると思いますね…。

 貧しいから病院に行けないという病気の連鎖もあると。昔から変わらない負の連鎖ですね。貧しいから病院に行けず、結局社会福祉のコストが高くなっているという米社会のようになってしまうかもしれませんね。孤独・貧困・病気、この負の3点セットに対しては大抵宗教団体が救済機関として対策をして、社会に大きな影響力を発揮してきたという歴史がありますが、果たして再びそういう時代が来るのでしょうか?

 「教団」というのが社会の救済機関として、その機能を発揮するのが伝統的な解決パターンですが、現代的に言うとNPOですか。日本版法輪功みたいなものが出てきても何らおかしくないですね。今の感じですと政治も社会も有効な救済組織を構成出来ないんじゃないか?という気がしますね…。

 クローズアップ現代で若い世代が、「助けてと言えない」というのを以前やっていましたが、もはやこれは全世代の傾向になってしまったのかもしれないですね。「支えあう社会」の前に「助けて」と言える社会にならないといけないですね。どうやって「助けて」と言うか、またどうやって「助けるのか」。田舎のような人との結びつきが強固な社会ならともかく、そもそも「助けあう」という基盤がないんですよね。助けるのも助けられるのも、子供の頃から当たり前のこととして見ていないから、もうやり方がわかんないんですよね。

 情けは人の為ならずのように、助けることが社会を良くして、良い社会が自分を幸せにするみたいな価値観が根付いて、助けられても負い目を感じない・情けないと思わないようになるといいのですが。マンションとか特定の範囲内でならまだ共感出来ても、そういうはじめからコミュニティが成立している環境でもないと難しいかもですね。

 何十人・何十世帯もあるような大きなマンションとか、団地とか、そういうとこだったら、「私達」で協力しようという価値観をまだ比較的作りやすいのでしょうけどね。少ないアパートとか、一軒家が点在する地域とかだと協力しましょう!という価値観を作るのは相当難しそうな気がしますねぇ…。

 貨幣だと交換価値が目に見えるからわかりやすいんですけどね、「善意」は交換価値が目に見えないから難しいというのが、また厄介ですよねぇ。良いことをした&良い手助けをした。相当な「善意」を払ったなぁ~と思ったら、人にとって大したものじゃなかったり、逆に迷惑だったりしますからねぇ。

 こういう時に、寺とか坊さんとか(あとは大工の棟梁さんとかですかね?)、そういった地域で偉い人というか、顔役の人がそういう「善意」の調停役になれるとコミュニティが円滑に機能するのでしょうけどね。「善意」を円満に循環させる存在、円滑化させる機能が社会にあればいいんですけどねぇ。

老人漂流社会/主婦と生活社