てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

人質事件でのおかしな反応、右編「自己責任論」

人質バッシング・自己責任論はやはり、「災害」に対する同情・お悔やみと、お馬鹿の迷惑行為や醜聞などの「愚行」に分類される報道パターンにあるのかしら?震災のような悲劇じゃないから、バカ認定になって、迷惑登山者のような反応をして、叩いてしまうという構造があるのかも?日本の報道で「称賛」、褒めることって物凄い限定されてますからね。好意的に評価することに情熱・時間が注がれない気がしますね…。くだらない事件を伝えるくらいなら、称賛にその分時間を割いたらどうでしょうか?
 

 イタリアでは生きて戻った人質が首相のお出迎えとともに熱狂で迎えられたとか。イラクでの人質事件でもそうでしたが、パウエル国務長官は解放された人質を讃えて、バッシングの世論・傾向を否定しました。オバマ大統領も後藤さんの行動を賞賛しました。このように、勇敢なジャーナリストを称えるというのは国際的な常識です。*1

 そういえば、捕虜についても昔は捕虜待遇から帰国したら、「良く辛い捕虜生活を耐え切った!よくやった!」と歓迎されたのに、生きて虜囚の辱めを受けずの頃には、「捕虜になるとは何事だ!」になってしまったという話がありました。なんか似てるような…。いや、はじめから危険を顧みず戦地に赴くジャーナリストが大事という常識がないのでしょう。


 後藤健二さんは反権力という感じがする人。帰国して反政府デモとかに参加するようになったら許さん!―的なツイートを見ましたけど、逆ですよね。そういう人でも邦人であるかぎり、全力を尽くして助けるからこそ、国家としての株があがるんでしょ?了見が狭いですねぇ。

 国を愛するが故に、国を守ろうと敵と戦う事と、国の内部の不合理・不条理を正すために糾弾することって同義なんですけどね。外と内のベクトルが違うだけで、そういうことがわからない人が本当多いですよねぇ~。ナショナリズムだって同じで外にも内も向かうわけで、実はここがポイントなんですけどね。

 まあ、変な「反権力」的な団体・デモがあるから、ついそう思っちゃうんでしょうけどね。そういう時には、「国を思うがゆえに立ちがるのは正しい。が、その論理はおかしくないか?」と論理のおかしさをただすべきですよね。

 結局、でも後藤さんを助けらたのは私達政府だからね?で完勝しますから、そんな動きがあろうと対して問題じゃないはずなんですけどね。


 イラク戦争の時のボランティアの人々というのは、きちんと身の安全を確保するステップを踏まなかった。その配慮・思慮に欠ける行動を非難するのはまだわかりますけど、基本的に海外ボランティアに情熱を注ぐことはいいことですからね。

 そして今回のプロのジャーナリストを「自己責任論」と叩くのはどう考えても筋違い。危険だからこそ、そこに行って内情を報道しないといけないに決まってる。詳しいことがわからなかったら、判断材料がないのですから、誤った判断を下しかねない。政府・公的なそれに頼ってしまえば、判断材料が偏った結果になってしまう。必然的に国家が誤った情報に向かうリスクが上がってしまう。

 民間の報道が、政府の方針について「それは間違ってるぞ!」と批判して、国家を正しい方向に導くというのは民主主義の論理。そのために身の危険を顧みず貢献してくれるジャーナリストを称賛こそすれ、叩くことはありえない。

 民主主義にしろ資本主義にしろ、多くのプレーヤーが参加し、多くの情報が集まることによってより透明性・公開生が高まってうまくいくという基本的なロジックがある。それを理解していないのではないでしょうかね?

 ちらっと書きましたけど、左サイドの人の「反権力・反国家」という暴走があって、その反動で右サイドの人が今大きく育っているという思想潮流があります。まあ左の人は世界的なことに関心が高いので、ボランティアのようなことをやることも多いのでしょうけど、左サイドの人間がやってることだから叩いているという構造がそこにあるのかもしれませんね。


 自分たちでやるべきことを怠って、結果国家に迷惑をかけている―それは非難されてしかるべきでしょうけど、自己責任の範囲と国家責任の範囲を履き違えてはいけません。

 自己責任論というのは、規制緩和を求める新自由主義経済の流れで登場してきたもの。つまり「自分たちでもっと責任を取らせろ、政府・公が何でもかんでも口を出して規制するな」という論理から生まれてきたものです。

 最初は、良い意味で「自己責任論」という単語は登場してきたわけですね。ところが、悪用して本来個人で責任を取りきれないようなところまで「自己責任だ!」と言い出す風潮が出てきた。

 これは官僚が予算を減らせ!と言われた時に、一番削ってはいけないもの・必要なものから減らしてくるのと同じ論理でしょうね。そして、失敗したあとで「ね?だから減らしたら大変なことになるといったでしょ?」と言って予算を取り戻そうとする戦術があるといいます。今の悪用されている自己責任論というのは、これと同じことで、「じゃあ自己責任でどうぞ」と本来、自己責任にしちゃいけないものを規制緩和したり、個人の責任にしてしまうことによるでしょう。

 で、結局、「ね?だから言ったでしょ?」とばかりに官僚の権限・規制を強くするというパターンですね。もしかしたら、規制緩和論者、反官僚論者だからこそ、強硬に自己責任だ!と言ってる人もいるかもしれませんね。あいつらは本当のプロじゃない!自業自得だ!俺のような本当のプロはあんなヘマはしない!みたいな感じで。

 それはそれで、また違った話になりますが、そういう反論ではなく、この話では「自己責任」を「国家(政府・行政)責任」に転用するなの一言で済みますよね。人質事件で「自己責任」だという悪しき反応は一体いつまで続くのでしょうかね…。個人が自分の責任で行動をするなんて本来言うまでもない当たり前のことを、「自己責任」だの一言で論評しようとする傾向が早く変わるといいですね。

*1:米欧社会においては、文明社会である我々と、それ以外の化外の地・野蛮な世界という二元的な価値観が暗黙のうちにあります。昔はそれが常識でしたけど、文化人類学以降、そういう価値観をおおっぴらに唱える人はいなくなりました。が、上流以外の・階層ピラミッド頂点以外の人間はそういう歪んだ価値観を未だに引きずり続けているでしょう。まあ、ブッシュみたいな大統領がでてくるくらいなのでアメリカなどは上流ですらかなり怪しいですが。
 何れにせよ文明キリスト社会とそれ以外の野蛮な社会・世界があるという価値観はイスラムイスラム圏とそれ以外で二分化して考えるそれと余り違いはないわけです。まあ、こういう価値観・思考様式は中華という価値観で、文明国である自国とそれ以外で区分した中華思想を始め、枚挙にいとまがないわけですね。聖と賤みたいなもんで、自分達とそれ以外でわける。ただし欧は富が外にあったため、野蛮な地に出ていくことに抵抗がなかったわけですね。またキリスト教的価値観から神が作った世界の謎を解き明かすためという意味でも、海外に出ていく志向性があったのですね。
 中国も日本も中華思想の影響で、海外に興味がない。インドなどもそうで、豊かな国は文明圏が自己完結してしまうので、必要性がない。海外へ、領土を広げようというするのも遊牧王朝、遊牧民が定住文明を飲み込んだときくらいになる。ヨーロッパは国家的な外征・征服事業が可能ではない分、通商欲求が遥かに大きかったとも言えますね。
 日本の場合は徳川幕府鎖国方針もあって海外について関心をもつことがなかった。基本的にヨーロッパ文明圏以外は、海外に対する情熱・興味関心が乏しいということなんでしょうね。日本の場合、オリエンタリズムのような異国趣味があるはずなのですが、積極的に海外について知って日本化を推奨するという視点は乏しいように思えます。
 まあ長々書いて何が言いたいかと言うと結局、日本人は無関心になりやすいということ。世界情勢や外交・国際政治体制とか力学・ルールなどについて無知蒙昧で、かつそのことについて指摘されてもなんにも感じない不感症になっているということですね。このようなジャーナリスト事件一つとっても迷惑だ!なんでそんなところにわざわざ行くんだ!という反応をするくらいですからね。外国、他所のこと=自分には関係ない。自分に関係ないことなんてどうでもいいというセンス・集合意識をなんとかしない限りこういう問題はずっと続くのでしょうねぇ…。